第四章『疑念』(2)
「きゃっ」
小さな悲鳴が聞こえて、エリスバートは驚いて足を留めた。雨で視界が狭くなっている。目を凝らすと、目の前に見慣れたクラスメイトの姿があった。
「マナ!」
「あ……バーティなの?」
怯えたように身を竦めていたマナは、自分がぶつかったのがエリスバートだと知って、ほっと肩の力を抜いた。
「どうしたんだ、きみまで、まさか神学校の生徒を探しに来たって言うんじゃ」
「ミューザを見なかった?」
エリスバートの質問の途中で、マナが声を上げる。エリスバートはきつく眉を寄せた。
「ミューザが、どうかしたのか? 彼女はきみの家にいたんだろう?」
「わたし、ミューザを捜しに来たの。少し前に、忘れ物をしたからってうちを出て行って……でも、忘れ物なんてきっと嘘だもの。わたし、不安で、それで、ミューザを捜さなくちゃって」
マナは大人しい彼女らしくなくこの雨の中、暗い町の中を家から飛び出してきたのだ。
「わかった、なら、ミューザはぼくが捜す。他の人にも捜すよう頼むから」
エリスバートは一刻でも早く自分の屋敷に帰らなくてはと思ったが、そうでも言わなければ、マナは戻りそうになかった。
それに、エリスバートもミューザのことかが心配だ。
「外は危ない、家に戻るんだ」
「でも」
「きみに何かあっては、ミューザが戻ってきた時に悲しむだろう。家に戻ってなくちゃいけない」
「でもバーティ、おかしいの。とてもおかしいのよ、わたし、ひどく怖くて……この町はおかしいの、だから、ミューザをひとりになんてしておけない!」
マナは、やはり彼女らしくなく強情な様子で、決してエリスバートに頷こうとしなかった。
どうするか、と少し迷って、エリスバートはすぐに「そうだ!」と声を上げた。
「マナ、神学校に行こう。教会は駄目だけど――あそこになら、白魔法を持つ先生方がいらっしゃるし、それに、セルバン先生もいる。もしかしたらミューザは先生のところに行ったのかもしれない」
「……そうね……きっと、そうだわ」
不安を無理に払い、自分に言い聞かせるように呟いて、マナが頷いた。
「行こう、走れるか?」
「ええ」
エリスバートが差し出した手に、マナが掴まる。ふたりは神学校のある方へと走り出した。
家に戻る前に、神学校に助けを求めればいいのだと、エリスバートは少し救われる心地になった。あの場所の教師たちも、聖職者だ。聖なる力を持っている。教会の祭司たちがいなくなってしまったことも、早く報告しなくてはならない。
「ねえ、バーティ」
走りながら、マナが大きな声でエリスバートに呼びかけた。エリスバートも、雨音に消されないよう声を張り上げる。
「なに!」
「どうしてミューザに好きだって言わないの!?」
エリスバートは思わず泥に足を取られそうになって、慌てて体勢を立て直した。
何でこんな時に――と狼狽して、エリスバートは上手い誤魔化し方も思いつかずに言葉を失う。
「ミューザはそういうことだけ鈍いから、言わなければバーティの気持ちに気づかないわよ!」
「そ、それはわかっているけど!」
本当に、何だってマナはこんな状況でこんな質問をしてくるのかと、混乱しかけたエリスバートは、自分の手を握る彼女の指先がひどく震えていることに気づいた。
――怖いから、明るい話をしようとしている。日常を取り戻そうとして、教室でそうするように、現実的で身近な話を欲しがっている。
自分のミューザに対する気持ちを持ち出されてしまうことが、エリスバートにはいささかならず複雑な気分ではあったが、マナの気持ちも痛いほどわかったので、素直に内心を答えることにした。
「ぼくがまだ、ミューザに勝てないからだ」
そう、だから、ずっと彼女に勝ちたかった。
試験で一度だけでもミューザよりいい成績が取れたら、気持ちを告げようと思っていた。
「男の子って、面倒なのね」
思わずくすっと笑ったマナの小声が、エリスバートに届かなかったのは幸いか。
思惑どおり、状況も忘れて、ついふたりが気恥ずかしく、浮き足立つ気持ちになって笑い出しそうになった時――、
「あ……ッ」
唐突に自分たちの周囲を暗い影が覆い始めたことに気づき、エリスバートとマナは揃って足を留めた。
すでに暗闇に紛れかけていた町。それをさらに囲う暗い影。
「おまえは――」
影の中からゆっくり現れたのは、あの黒ずくめの男だった。
エリスバートとマナを見て、蝋のように白い顔で、赤い唇を持ち上げる。
エリスバートは、咄嗟にマナを背後に庇った。
「血が足りないんだ、まだ」
男が、にやにやと笑みを浮かべながらそう言った。
「祭司さまたちを殺したくせに……ッ!」
エリスバートの言葉に、マナが後ろで大きく震える。男が、不愉快な声を立てて笑った。
「まだまだ足りない。思った以上に時間と手間がかかるんだ。おまえの母親を――」
「やめろ!!」
マナに聞かれたくなくて、エリスバートは絶叫した。男は鼻先で笑っただけだった。
「おまえに用はない。そこを退け」
エリスバートに近寄った男は、その肩を押し退けてマナに手を伸ばそうとした。エリスバートは男に体ごとぶつかりそれを阻む。男の体は思ったよりずっと軽く、簡単に濡れた地面へ尻餅をついた。
カッと、男の蝋のような頬が羞恥の赤に染まる。
「このッ」
「マナ、逃げろ!」
理由はわからない。だが、男がマナを狙っていることは明白だ。とにかくこの場からマナを逃がそうと、彼女の方を振り向いたエリスバートは、彼女が両手を胸の前に組み合わせて何かを呟いていることに気づき、目を瞠る。
「『主は我が守護者、我が神は我が避け処、我は神に因りて望みを抱く』」
(御詞を)
たどたどしい口調ながら、マナは聖教典にある詞を唱えていた。
「マナ、きみ――」
「小賢しい!」
立ち上がった男がマナに襲いかかろうとするのを、エリスバートはまた体当たりで止めた。
「『光よ、我が佑けとなりて闇を払い、邪悪を討ち滅ぼし給え!』」
渾身の力で叫び、手を振り上げたマナの指先から、鈍い光が生まれて男の方へと流れた。
「ぐ……ッ!」
光はエリスバートの体を包み、その腕が抑える男の体を灼いた。
(すごい、これが)
初めて目の当たりにする、癒し以外の聖なる力に、エリスバートは驚愕した。そしてマナがそれを使えるということにも。
「おのれ、小娘が……ッ」
体を灼かれてよろめいたはずの男は、だがすぐに体を立て直し、屈辱の呻きを洩らしてマナを睨みつけた。
大した打撃を受けていない。白い顔が、少し爛れたように赤くなっているだけだ。
男が両手を持ち上げ、それが魔導を使おうとする動きだと気づいたエリスバートは、咄嗟に地面に落ちている小石を拾って男の眉間に当てた。叫び、顔を押さえる男にもう一度体当たりを喰らわせようとするが、気づいた時には腕で顔を払われ、泥水の中に倒れ込む。
「バーティ!」
悲鳴を上げるマナが、エリスバートに駆け寄るよりも早く、男が彼女の腕を掴んだ。
「いやっ、離して!」
「マナ!」
打ちつけた体の痛みを耐えて立ち上がろうとしたエリスバートの背を、男の靴が容赦なく蹴りつける。それでも地面に手をつき、身を起こしかけたエリスバートの上から、酷薄で陰気な声が降ってきた。
「生意気なクソ餓鬼……これでも喰らいな」
早口に唱えられる詞。感覚で、それが決して聖の領域にある響きではないとエリスバートが悟るよりも早く、その背をこれまで覚えたことのない痛みが貫いた。
「……ぁ……」
激痛に、悲鳴すら出なかった。
「バーティ! やめて、お願いやめて!! バーティ!!」
マナの絶叫が響く。
背中から、体の内部まで鈍く昏く、重い苦痛が入り込み、エリスバートは一瞬のうちに視界を失う。
「離して、いやよ、いや……ッ、助けてバーティ、助けて、ミューザ!! 助け」
不意に、泣き叫んでいたマナの声が途切れた。
その理由をたしかめることもできず、エリスバートは呼吸のできない体を持て余し、恐怖で気がふれそうになるのを堪えるために、爪の先で地面を掻いた。
「……ッ……は……!」
しばらくもがいた後、唐突に呼吸が戻ってきて、思い切り息を吸い込む。嘔吐しながら、エリスバートは何度も空気に肺を入れた。
(生きてる)
あの衝撃を受けた時、エリスバートは自分が死んでしまうのだろうかと思った。殴られたのとも、病を得たのとも違う。総毛立つような不吉な感覚。
あれがおそらく、黒魔導。
(マナは)
強く目許を擦り、震える体を起こして辺りを見回したが、雨に消え入る景色以外に見えるものは何もなかった。
あの男に、マナは攫われてしまったのだ。
そしてひとつ、エリスバートにはわかったことがある。
(聖なる力を持つ人間が狙われているんだ)
ラルも、神学校の生徒も、もちろん教会の人間も、そしてマナも。全員が聖なる力を持っている。
エリスバートは、いつか弟から聞いたおそろしい話を思い出した。
『妖霊の好物は、聖なる力なんだ』
授業で教わった話を、クレディスはよく大好きな兄にしてくれた。
『理屈はまだわからないらしいんだけど、だから、悪い力を持つ人が黒の魔導を使おうとする時、より強い力を使おうとすればするほど、必要になるのは自分の妖力と、妖の領域にあるものと、聖なる力を持つ人間なんだって』
もし、あの男がやろうとしていることが、本当に自分たちの母親をこの世に還そうとするものであれば。
それはきっと、考えもつかないほどたくさんの力を、犠牲を、必要とするのだろう。
「……ッく」
エリスバートはまだ痛む体を押さえ、手近な樹の幹に掴まりながら立ち上がった。
(クレディスかが危ない)
あの家で聖なる力を持っているのは、クレディスだけだ。
父親がいるのなら、決して弟に手出しをさせることはないだろうと、そう思うのに、エリスバートは自分でその心を信じることができなかった。
リエインはもう、これまでの彼ではない。
体を引きずるように歩きながら、長い時間をかけ、ようやくエリスバートは自分の家に辿り着いた。身の内が灼けるように熱い。だが、それに構っている暇はない。
「クレディス――クレディス!」
玄関の扉を開くと、エリスバートは泥まみれのまま弟の名を呼んだ。
家の中は、相変わらず誰もが息をひそめるように、しんと静まりかえっている。エリスバートは弟の部屋に向かったが、その中に誰もいないことをたしかめただけだった。食堂にも、客室にも、エリスバート自身の部屋にも人影はない。女中部屋を開けると、部屋住まいの使用人たちが身を寄せ合って震えていた。クレディスの行方を訊ねるが、誰もそれを知っている者はいなかった。クレディスの世話係の姿もどこにもない。
「クレディス、どこにいるんだ! 兄様に姿を見せてくれ!」
「どうした、エリスバート。騒がしい」
手当たり次第のドアを開けて弟の名前を呼んでいたエリスバートは、自室から出てきた父親の姿に、それでもほっとした。
(父様はここにいる)
ならば、まだ元に戻れる望みはあるのかもしれない。
「父様、クレディスが見あたらないんです。どこにいるかご存じですか?」
父親は、訊ねるエリスバートに向かって笑った。
エリスバートがずっと尊敬する、優しくて、聡明な父親の変わらない笑顔だった。
「クレディスなら、あのお方が連れて行った」
笑ったまま答えたリエインに、エリスバートは言葉を失う。
「……何を……父様……あなたは一体……」
かろうじて、喘ぐように、それだけ音になった。
「ティレイを再び生き返らせる力になるために、あのお方が連れて行ったのだ」
絶望を、エリスバートの全身が占めた。
「クレディスも嬉しいだろう。あの子はティレイに会いたがっていた。無理もない、まだ十を過ぎたばかりの子供なのだ。可哀想に」
「……父様……」
「でもエリスバート、おまえも喜びなさい。クレディスは再び母親に会えるばかりか」
にっこりと、こころから嬉しそうな笑顔で、リエインが笑う。
「ティレイの、その血肉となれるのだから」
(――狂ってる――……)
エリスバートは、父親から目を逸らし、物音の聞こえる二階の廊下へと視線を上げた。
いつの間にか、あの黒ずくめの男の姿が家の中にある。叫び出したいのに、エリスバートはそうすることができなかった。
黒い、闇のように黒い男の服。白い貌。赤い唇。
(クレディス……)
男の両手が、血に濡れている――……。
◇◇◇
「どこへ行く」
しばらく黙り込んだ後、自分に背を向けドアに手を伸ばすミューザに気づいて、ファムスがそう訊ねた。
「わからないわ」
ミューザは苛立ちを堪えるような声で答える。
「わからないわよ、でも、町に危険があるのに黙っているわけにはいかない」
「おまえに何ができる」
「何もできなくても!」
振り向き、ミューザはファムスを見返した。
「できることを捜すわよ、何もできないなんて理由で何もしなくていいはずがない、それがあたしの矜恃よ!」
結局ファムスは、町に悪いものがいると告げただけで、ミューザにそれ以上のことを教えてくれようとはしなかった。
本当に知らないのか、知らないふりをしているだけなのか。
ミューザにはわからなかったが、とにかく、自分がここでただ何もせずにいるだけでは仕方だないことだけは、わかっていた。
(何かあるはず、あたしにもできることが)
些細なことでもいい。もしその『悪いもの』を直接退けることができなくても、たとえばセルバンのために部屋を暖めようとしたように、誰かの助けにはなるかもしれない。
扉に触れようとした時、ミューザはその向こうから水を跳ねて誰かが近づいてくるのに気づいた。
何だろう、と思うより早く、乱暴にドアを叩く音がする。
「出てこい、黒の魔導士め!」
ミューザは驚いて、ファムスの方を振り返った。
ファムスは特に関心を惹かれた様子もなく、普段どおりの顔でドアの方を見遣った。
「出てこなければこのドアを壊すぞ!」
「ラルを返せ、この魔物め!」
「こんなドア破ってしまえ、おい、鍵を壊せ!」
怒鳴り声は、どれを取っても殺気立っている。
(町の人たち――ラルのお母さん)
声はすべてに聞き覚えがあった。ミューザは彼らに声をかけようとして思い止まる。自分が何を言ったところで騒ぎが収まるとも思えない。狂気に似た気配が、ドアの向こうでわだかまっている。普通じゃない。
「千客万来、だな」
ファムスは軽く肩を竦めて、息を吐きながらそんなことを言った。
「何を呑気なことを!」
ドアを壊そうと、何か重いものがぶつかる音がしている。鍵が掛かっていないことにも気づけないほど、全員の心が常軌を逸しているのが、幸いか、あるいは。
ミューザはとにかく時間を稼ごうと、夕べのように、障害になるものを捜して辺りを見回した。だが、この家には必要最低限の家具すら見あたらない。もう! と地団駄を踏んで、ミューザは再びファムスを振り返った。
「ファムス、逃げなさい、姿を見せたらあなた、きっと殺される」
「なぜおれが」
焦るミューザに、ファムスはまったく他人事のような顔をしている。
「いくらあんたが性格悪くてムカつく奴でも、目の前で死なれちゃ寝覚めが悪いのよ! それに町の人たちを、そんな罪に手を染めさせるわけにはいかない!」
「やれやれ……おまえもやりたいことだらけの人間か。あれを護りたい、これを護りたいと、ご苦労なことだ」
「茶化さないで、いいからほら、窓からでも外に行って! あたしがみんなを止めるから!」
ミューザがファムスを怒鳴り終わらないうちに、とうとう安普請のドアが壊れた。
振り返ったミューザは、ルカを先頭にして、思った以上に集まっている町の人たちに言葉を失った。十人以上はいる。
そして全員が鉈や、杖や、鋤を手にしていた。
明らかな殺意を顕わにして。
「違うの」
咄嗟に、ミューザはファムスを背に庇い、ルカたちの前に立ちはだかっていた。
「おどき、ミューザ。そいつをあたしたちの方に渡すんだ」
ルカは光を失くした瞳で、ミューザのことを睨めつけた。じりじりと、大人たちがミューザの方へ近づいてくる。
「そいつは忌まわしい黒魔導士だ。この町に滅びをもたらす魔物だよ」
ミューザは必死に首を振った。
「違うの、この人はそうじゃないのよ、この人は――」
言いかけるが、言葉が続かない。
(この人は(ヽヽヽヽ)、何(ヽ)?)
自分が何を言おうとしたのか、ミューザにはその言葉が理解できない。
「……そう、そうかい、ミューザ」
混乱しかけたミューザは、笑いを含んだルカの声に、自分を取り戻した。
「あんたももう、その魔物に取り込まれてるんだね」
「ルカ、みんなも、待って! やめて、この人を傷つけちゃいけない!」
叫ぶミューザの言葉に耳を貸さず、ルカたちは手にした得物を構え、まずはミューザの方へ襲いかかろうとした。
ミューザの後ろでそれを見ていたファムスが、面倒そうにひとつ舌打ちして、片手を上げ口を開く。
「暗黒の使者、妖に生を享ける者ども――」
「光よ! 闇に囚われし魂に一時の安らぎを!」
ファムスが詞を唱え終えるより先に、町の人間の背後から、闇を裂くような鋭い声が響いた。
「!」
刹那、眩い光が辺り一帯を染めて、ミューザは咄嗟に目を瞑った。
聞こえた声に心が躍る。
「セルバン!」
すぐに目を開けると、ルカたちが全員床に倒れ伏し、その後ろに息を切らしたずぶ濡れのセルバンが立っているのが見える。
ミューザはルカたちを避け、自分たちの方へ歩いてくるセルバンの許へ駆け寄った。
「セルバン、助けに来てくれたの!」
首に抱きつくミューザを、セルバンが両手で抱きしめる。
ミューザの背を抱きながら、セルバンは掌で顔を覆っているファムスの方を見遣った。
「大丈夫ですか」
「ああ――」
ファムスの声音は、おもしろくなさそうだった。
「術を使うなら一声かけて欲しいもんだ。少し目が灼けてしまった」
「申し訳ありません、余裕がなかったものですから」
「まあ、いい。大したことはない」
ファムスは掌を顔から離し、床で倒れているルカたちを見下ろした。セルバンも同じく、彼女たち町の人間を見下ろす。
「急激に、とてもよくない波動が生まれるのを感じました。おそらく何者かがルカたちを操ったのでしょう」
「魔導だな」
簡単な口調で言ったファムスの言葉に、セルバンも頷く。
「少しの間眠らせただけだから、すぐに目を覚まします。そうすればまたあなたを襲うために暴れ出す」
「胸くそ悪い。こっちに罪を押しつけるつもりか」
「彼らにかけられた術を解くには、少し準備が必要です。教会の祭司が殺されました。今のこの町の力では、そんな大がかりな術は使えない。あるいは術をかけた者を倒すしか道はありません」
セルバンの首に縋りながら、淡々と話すその声を、ミューザは聞いている。
(そんなひどいことをする、強い力の持ち主を、誰が倒せるっていうの……)
「あなたはここから移動してください。申し訳ないけれど、ここにルカたちを閉じこめさせてもらう。少しは時間稼ぎになりますから」
「面倒だ」
言葉どおり、億劫そうに顔を顰めたファムスに、セルバンはにっこりと笑って見せた。
「この人たちを雨の中全員担いで運ぶよりは、ミューザとふたりで逃げた方が楽でしょう?」
ファムスは内心で肩を竦めた。
(割と喰わせ者だな、こいつは)
笑ったまま、当然のように言ってくれる。
「セルバン」
セルバンの胸に押しつけていた顔を上げ、ミューザは不安げな目になった。
セルバンが、それを間近で覗き込む。
「いいかい、ミューザ。君は、ファムスと一緒に行くんだ。彼と一緒なら安全だから」
「でも、セルバンは」
「今、聖なる力を持つ人たちが、力を合わせて学校に結界を張っている。無事な人を護るために。それがすんだら迎えに行くから」
ぎゅっと、ミューザはセルバンの袖を両手で握り締めた。
「きっとだよ、きっと迎えに来てね」
「……もちろんだ。君がいるところなら、僕は決して見失わない。必ず迎えに行く。だから、待っていなさい」
もう一度、ミューザはセルバンの首に両腕を回した。
セルバンはそれを抱き締め返し、しばらく堅く目を瞑ると、何かを振り切るようにミューザから両腕を離した。ファムスの方へと向き直り。
「ミューザを、よろしくお願いします」
丁寧な口調で言って、セルバンがファムスに頭を下げた。
ファムスは諦めの溜息を吐くと、仕方なしに頷いてみせる。
「あんたはなるべく早くこの娘を迎えに来てくれ。跳ねっ返りの世話は苦手だ」
「何よ、その言い種は!」
ファムスの悪態に、ミューザは反射的に顔を上げて相手を睨みつけた。
様子に、セルバンが声を立てて笑う。
「その元気があれば、大丈夫。ミューザ、行っておいで」
「……うん」
セルバンに、ミューザはどうにか笑顔を作り、頷いた。
さっさと歩き出すファムスに続き、ミューザも壊れた玄関から外へと出て行く。
「セルバン――気をつけて」
心から言ったミューザに、セルバンも微笑する。その姿に安心してから、ミューザはミューザは彼に背を向け歩き出した。
セルバンはしばらくの間、ミューザの後ろ姿を見送り、それから、自分のなすべき仕事を始めた。