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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 B-PART]
14/18

第四章『疑念』(1)

 教会の周りには、黒い服を着た人々が集まっていた。

 死者を悼む鐘の音が鳴っている。それに、まだ止まない雨の音と、啜り泣きが混じった。

「ラル! ラル!!」

 悲痛な叫び声に、誰もが耳を覆いたくなった。死んだラルの母親、ルカの泣き声。

 ミューザはマナと並んで、手に花を持ちながら、それを棺へと飾る列へ並んだ。

「結局、一度もラル兄さんに会えなかったわ」

 見ていられず、棺に取り縋って泣くルカから目を逸らし、マナの隣でミューザはぽつりと呟いた。マナがそっとミューザの腕に手を添える。マナは数度言葉を交わしたことがある程度だったが、ラルとミューザは幼馴染みだった。

 順番が来て、棺のそばまで進んだミューザは、その中に花を添えようとして動きを止めた。

(いない――)

 棺の中には、ただ彼の愛用していたペンや服、そして供花があるばかりだった。ラルの遺体はみつからない。

 ミューザもマナも無言で花を置き、そっと棺から離れた。

「なあ、知っているか。ラルは、もう昨日のうちに教会で燃やされてしまったんだろ」

 棺を墓地に移動するまでの間、静かに待っていようと教会の外へ出かけたミューザは、そんな囁きを聞いて知らずに足を止めた。

「ああ、聞いたよ。何でもゆうべ神学校の先生がみつけた時には、すっかり干涸らびていたって――」

 ミューザはぎゅっと目を閉じ、マナの手を取ると急ぎ足で教会を出た。入り口の庇で雨から逃れ、マナとふたり、並んで濡れないように壁に凭れる。

 今朝、葬儀の報せを受けて教会にやってきた時から、誰しもが噂していた。

 ラルはまるで、生き血を抜かれたような姿でみつかったのだと。

 そしてその姿は、まるで黒魔導にかかったようだったと。

 穢れを祓うために死体は焼かれてしまったから、棺の中にラルの姿がないのだ。

(兄さんを焼くだなんて)

 ひどい、とミューザは唇を噛んだ。普通、死者は棺に入れられ、花を飾られ、丁重に土へと還される。体を焼くなんて、犯罪者を罰する時とか、呪いが原因の悪い病気で死んだ時とか、怖ろしくて不幸なことが起こった時だけだ。

 ルカの悲しみは、ただ息子を失っただけのものではない。それ以上の悲しみと恨みがある。

「誰かあの男を捕まえておくれ!」

 教会の入り口のところで、棺が出てくるのを待っていたミューザは、聞こえた叫びにハッと顔を上げた。

「ラルが死んだってのに顔すら見せないじゃないか! あいつのせいだ、あいつがラルを殺したんだ!」

 叫びが近くなってくる。教会の中から、棺と、それを運ぶ大人たち、棺に縋ったままのルカの姿が現れた。

「あいつは怖ろしい黒魔導士だよ、殺してしまえばいいんだ! ラルのように、体を焼かれてしまえばいいんだ!」

 マナが、怯えたようにミューザの腕に体を寄せた。その体を抱き返すミューザの姿に、涙に汚れた顔のルカが気づく。棺から離れ、次にはミューザに縋るように駆け寄ってきた。

「ああ、ああ、ミューザ。来てくれたんだね。ほら、あたしの言ったとおりだったろう、あんたの隣の家の男は黒魔導士だったんだよ。あいつが、あたしのラルを殺してしまったんだよ」

「おばさん……」

 ミューザは何を言っていいのかわからず、悲痛な心地でルカを見返した。

 ルカは痛いほどミューザの肩を掴み、乱暴に揺すっている。

「ミューザでいい、あいつをここまで引き摺ってきておくれ! 忌まわしい黒魔導士なんて、みんなで殺してしまうんだよ!」

 我を失ったように叫ぶルカの指先が、ミューザの肩に喰い込む。痛みに顔を歪めるが、ミューザはそれを払うことなんてとてもできなかった。

「――ルカ」

 代わりに、ルカの腕を横からそっと宥めるように掴む者があった。

「ほら、棺が行ってしまいますよ。あなたも行かないと」

 声を聞いて、ミューザはほっと息を吐いた。黒い喪服に身を包んだセルバンが、ルカの背中を優しく叩く。

「セルバン、でもあの魔導士を!」

「彼がやったと決まったわけじゃない。母親のあなたがこんな日に誰かを呪ったら、ラルは神の御許に行けなくなります。さあ、向こうへ」

 穏やかなセルバンの声に諭されると、ルカはようやく我を取り戻したように、悄然と頷いて棺の方へと歩いていった。

「大丈夫かい、ミューザ、マナも」

 問われて、ミューザとマナは揃ってセルバンに頷いて見せた。

「……だいぶ弱ってるね、おばさん」

 小さな背中を丸めて歩くルカを見遣りながら呟いたミューザに、セルバンも同じ方を見て頷く。

「うん、朝から、ずっとここでは噂で持ちきりだから……」

 ラルの死に様に関する噂話。

 それから、最近見かけるという黒ずくめの男の――あるいはミューザの隣人の噂話。

(あたし、やっぱり言えない)

 ミューザは、まだ聞こえるルカの泣き声に、ひどい罪悪感を覚えていた。

 それでも、言えない。ルカの言うとおり、ファムスが黒魔導を使うと言うことを。

 もしかしたら本当にファムスが黒魔導を使って、ラルのことを殺してしまったかも知れないのに。そうじゃない証拠なんてひとつもない。ミューザが知っている限り、この町にいる黒魔導士はファムスだけだ。黒魔導士なんて不吉な存在が、そうそうあちこちにいるものじゃない。

 なのに、言えない。ファムスをこの場所に連れてこようなんて、どうしても思えない。

「セルバン先生……本当なんでしょうか。ラルのこと」

 怯えて震えながら、それでも我慢できない様子で、マナがセルバンに問いかけた。

 セルバンはマナを見返し、曖昧に首を横に振った。

「葬儀が終わったら、ふたりとも家に帰っていなさい」

 ミューザはゆうべから、マナの家に世話になっている。

 セルバンとミューザの家は、玄関のドアが壊れ、濡れた足跡が部屋のあちこちに続いて、とても安心していられる場所ではなくなっていた。

「僕はまだ生徒を捜さなくてはならないから、もう行くよ。マナのお父さんには話してあるから、僕もこんばんはミューザと一緒にお世話になると思う。夜の捜索は外してもらった」

 ミューザは少し驚き、セルバンを見上げた。

「いいの? 一緒に捜さなくて」

「君も狙われたんだ。護らなくては危ない」

「……」

 ゆうべのことを、ミューザはセルバンに話した。ドアを壊した者のこと。エリスバートと同じ声の誰か。その時間、ちょうどセルバンもエリスバートと行き会っているから、声の主が彼ではないことはたしかだった。

「何が起きているの、セルバン」

 問うたミューザに、セルバンはやはり首を横に振った。

「わからない、だけど必ず安全な町を取り戻すよ」

 ミューザはセルバンの首に両腕を回した。

「危ないことしないで、セルバンまでいなくならないでね」

「大丈夫、神のご加護があるから」

 軽くミューザの背を抱いて、セルバンはすぐに体を離した。ミューザに向けて少し微笑む。

「もう行くよ、君やマナにも神のご加護を」

 ミューザと、マナの額に接吻けてから、セルバンは教会から雨の中を駆け去っていった。

 その姿を見送り、ミューザは少し苦笑気味に笑う。

(こんな時になって、またキスしてくれるようになった)

 いつからか、セルバンは決しておやすみの前にも、いってきますの前にも、ミューザにキスをしなくなった。

 多分、ミューザの体が少女らしく丸みを帯び、少年のようだった顔が少しずつ花開くように変化しだしてから。

 その変化を拒むように、ミューザは髪を切り、男の子のような格好ばかりを選ぶようになった。

 それでもセルバンは、優しい抱擁も、接吻けも、ミューザにはくれなかったけれど。

(普通じゃないんだ。もう、この町は)

 それを、ミューザは強く実感した。

 

     ◇◇◇

     

 昼を過ぎ、夕方に近い時刻になっても、雨はまだ降り続けていた。

 春先にこんな雨が続くなんて、珍しい。

「外、もう暗いのね……」

 窓から外の景色を眺め、マナがひそやかな声で呟いた。マナの家は広く、家族や使用人たちも大勢いるはずなのに、今はどこかしんと静まりかえっている。誰もが声をひそめ、降り止まぬ雨の音に怯えるように、ひっそりと過ごしていた。

 ミューザはマナの部屋で、彼女の淹れてくれたお茶を飲みながら、うわの空でマナの呟きに相槌を打つ。

(ラル兄さんの葬儀、もう終わったかしら)

 結局、ルカの泣き叫ぶ声や人々の囁き合う暗い噂に耐えられず、ミューザはラルの棺が埋められる前にマナの家に戻ってきてしまった。

(……昨日のエリスの贋物は、何だったんだろう)

 思い出し、ミューザは知らず自分の体を抱くようにしながら、震えた。

 あの時すんなりと鍵が開いていたら、自分はどうなってしまったのか。想像することも怖ろしく、ミューザは固く目を閉じて首を振る。

 ラルが、行方知れずの子供が、もしかすると自分のように騙され誘い出されたのでは、と思えた。だからセルバンもミューザのことを心配しているのだ。

「どうしてこんなことになってしまったのかしら……」

 外をみつめたままのマナが、悲しそうな呟きを漏らした。美しい自然を誇るこの故郷が、暗い翳りに覆われているのが辛かった。

(あたしにできることはないの?)

 マナの呟きを聞きながら、ミューザは強く自分にそう問いかける。セルバンは子供を捜しに行った。おそらくエリスバートも。たくさんの大人たちが動いている。

 なのに自分はこうして、安全な場所で、ただ愁えるばかりで。

 それが、口惜しい。

(――いいえ)

 ぐっと、ミューザは拳を握り締めると、閉じていた目を開いた。

「マナ、あたし」

 呼びかけられ、マナが窓辺からミューザの方を振り返る。

「どうしたの、ミューザ」

「ちょっと出かけてくる」

「え」

 マナが目を見開いた。

「出かけるって、どこへ? 外はこんな天気だし、それに今出かけるなんて」

「すぐに帰ってくる、ちょっと、家に忘れ物しちゃったのよ」

 言いながらも、ミューザはすでに立ち上がっていた。自分の上着を拾って羽織る。

「待って、お願いやめてミューザ、外はとても危ないわ、せめてセルバン先生が帰ってくるまで」

「じっとしていられないの、ごめん、マナはここにいて!」

「ミューザ、お願い!」

 泣き声に近く、マナはミューザの名を呼ぶとその腕にしがみついた。

「……マナ」

 宥めるように、ミューザはマナを見下ろす。

「心配かけて、ごめん。でも本当に、すぐに戻るから」

 拒むようにかぶりを振るマナの頬に、ミューザはそっと手を当てた。反対の頬に軽く接吻ける。

「あたしには加護があるから、大丈夫」

「すぐに、戻ってきてくれる? 本当に、すぐよ」

 濡れた目を上げたマナに、ミューザは笑って頷いて見せた。

「ほんの数刻。待ってて、帰ったらマナの淹れたお茶が飲みたいな」

「わかった。準備して待ってる」

 マナは、自分の友人がこうと決めたら気持ちを変えないことを知っている。精一杯の動きで微笑んで、ミューザを見送ってくれた。

「父様たちにみつかれば、きっと心配して止められるから。裏口から行って」

 マナに感謝して、ミューザはそっとその家を抜け出す。雨天用のマントを頭からかぶり、そのまま水に浸かりかけた道を走り出した。通い慣れた道を迷わず進む。マナの家から、町の南へ。

 そして自分の家を通り過ぎると、さらに南へと入る。臭や泥に何度も足を取られそうになりながら、暗い森を抜け、粗末な小屋の前まで。

「――ファムス、ファムス!」

 小屋のドアをミューザは渾身叩いた。

「開けて、ファムス! ミューザよ、いるんでしょう、ここを開けて!」

 ドアを叩き続けると、しばらくの間ののち、中から鍵の開く音がした。

「何だ、騒々しい」

 もうミューザの耳に馴染み始めた、いかにも億劫そうな、迷惑そうな声音。

 ファムスは相変わらずの黒い服を身にまとい、闇色の瞳をミューザに向けた。

 そしてその瞳が、いつもとはほんのわずかに違う何かをたたえていることにミューザは気づく。

「あなた、知ってるわね」

「……」

 ずぶ濡れの格好のまま、まっすぐ自分を見上げる少女を、ファムスは黙って見返す。

「この町で何が起きているのか、知っているわね」

 ファムスは何も答えなかった。

「教えて、ラル兄さんを殺したのは誰! 神学校の子供はどこに行ったの? どうしてあたしの前にエリスバートのふりをしたやつが現れるの、ファムス!」

 叫びながら、ミューザはファムスの体を乱暴に押した。勢いに呑まれるようにファムスは数歩下がり、強い風のせいでドアが大きな音を立てて閉まる。衝撃で、家中が震えた。

「――まったく」

 暗い家の中で、ファムスは溜息をついたようだった。

「どうしておまえはいつもいつも、そうやって矢継ぎ早に質問ばかりするんだ」

 いつもと変わらないファムスの語調に、ミューザはなぜかほっとする。呆れ果てた、嫌味っぽい声なのに。

「おれは何も知らない」

 一度息を吐いてからそう言ったファムスを、ミューザはキッと睨んだ。

「嘘。ファムスは絶対に知ってるはずだ」

「残念ながらおれは千里眼ではないものでな」

 自分を睨んだままのミューザに、ファムスはもう一度溜息をついた。

「おれはここに来て以来、この家から一歩も外に出ていないんだ。だからこの町で何が起きているか何て知らない」

「一歩も……」

 それは、異常な事態ではないのだろうか。噂には聞きていたが、事実本人の口から聞いて、ミューザは改めて思った。

(じゃあこの人、どうやって生きてるの?)

 食べ物も、新鮮な水すらないこの家で、たったひとり。

「だからおれにわかるのは」

 ミューザが何か訊ねるより先に、ファムスが言って、ふと暗闇の中、景色を遠く見晴るかすような眼差しになった。

「今、とても悪いものがこの町にいるということだけだ」

 重く、静かな口調でファムスが言った。

 何も知らない、というファムスが、やはりいろいろなことを知っているのではないかと、ミューザはどうしてもそう思えて仕方がなかった。


     ◇◇◇


 雨に降られた体が冷え切り、感覚が無くなってしまったので、エリスバートは仕方なく一度自分の屋敷へと戻った。

 教会の鐘はもうやんでいる。ラルの葬儀はとっくに終わってしまったのだろう。始まりの頃少し顔を出しただけで、エリスバートはすぐに子供を捜しに向かった。

(死んでしまった者よりも、生きている者だ)

 辛い気分でそう選択した。ラルのことを悲しんでいる間に、いなくなった子供が同じ目に遭ってしまうのでは、悲しみを繰り返すだけになってしまう。

 家の中はしんとしていた。男たちはみな子供の捜索に駆り出され、女たちは部屋の中で息を潜めている。エリスバートが帰ってきても、出迎える者は誰もいなかった。

 誰も彼も、平和だったはずの町に訪れた不幸に、恐れおののいている。

(クレディスは、部屋か)

 弟は、世話係の女性がみてくれているだろう。本人にも、世話係の者にも、部屋からは出ないようきつく言い含めておいた。クレディスは自分も友達を捜しに行くと言い張っていたが、エリスバートが諭すと大人しく頷いた。聡い子供だった。

 湯で体を温め、服を着直して、もう一度外へ向かおうと廊下に出たエリスバートは、その向こうに父親の姿を見つけて足を留めた。

 こんな時だというのに、父親はただ、家の中にいた。朝から、誰に子供捜しの命令をするわけでなく、ラルの葬儀に出向くわけでなく。

 そしてその父親のそばに、あの黒ずくめの男の姿があるのを見て、エリスバートは怒りと失望のあまり目の前が暗くなった。

「父様!」

 エリスバートが呼ぶと、父親は足を留め、隣にいた男はスッと近くの部屋に消えていった。

「おお、エリスバート」

 駆け寄ってくる息子を、リエインは笑顔で待ち受けている。

「その笑顔にもどかしさを覚えながら、エリスバートは何度も繰り返した問いをまた父親に向ける。

「あれは誰で、何のためにここにいるんですか。父様は、どうしてこんな時にあんな男と」

 いらだちに任せて訊ねていたエリスバートは、唐突に言葉を止めた。

 リエインは、自分を見返していると思っていたのに、見てはいない。

 瞳はこちらを向いているのに、まるで焦点が合っていない。

「父――」

「エリスバートや、可愛い息子。おまえは本当にティレイにそっくりだ」

 頬に触れられた時、エリスバートは総毛立った。父親に触れられて身の毛がよだつなんて、生まれて初めてのことだった。

「父様……」

「十五になったとはいえ、母がいなくてずいぶんと寂しい思いをしただろう。おまえも、クレディスも。この二年間ずっと寂しかっただろう」

「父様、今はそんな話をしている時では」

「私も寂しかった。あの美しいティレイが死に、後添えを進める者もあったが、ティレイの他私の妻に、おまえたちの母になる者など考えられるものか」

「……」

 リエインは、エリスバートの言葉が聞こえないかのように、ひとりで話し続けている。

「だがな、バーティ、もうすぐ母に会えるぞ」

「――え?」

 父親の言う意味がわからず、エリスバートは眉を顰めた。

「父様、何を……」

「ティレイにもうすぐ会えるのだ。あのお方のおかげで。本当に感謝しなくてはなるまいよ。さあ、おまえも祈るがいいエリスバート。クレディスはどこだ。ティレイのために部屋を飾らなくては」

(何を言っているんだ、父様は)

 エリスバートの問いかけは、ただ喘ぐだけの吐息になって、音にはならなかった。リエインは上機嫌に鼻歌まで歌い、男の消えた部屋へその姿を追っていく。

 死んだはずの母ティレイ。

 それに――会えるという父。

 不吉な黒い男の影が、エリスバートの脳裡を掠る。

(反魂の術?)

 それは、『黒の領域』だ。

 エリスバートは混乱する頭を持て余し、壁に手をつくと、何をしたわけでもないのに荒くなる呼吸を押さえるために目を閉じた。

 ――教会に行こう。

 少し考えて、すぐに結論を出す。

 父親の、家族のことだからと、ずっと躊躇していた。自分だけであの男の正体を探り出し、問題があればそれを排除しようと思っていた。噂どおりにあの男が黒魔導士であるのならば、父親も、もちろん家族である自分も、クレディスも、ただではすまない。それがわかっていた。

 だが、今はもう、たったひとりで何かを変えられる状況ではなくなっている気がする。

(ぼくに勇気をくれ、ミューザ)

 大きく息を吸い込み、ぐっと顔を持ち上げると、エリスバートはようやく瞼を開いた。

 決意して、そっと家を出ようとしたエリスバートは、不意に首筋を撫でる生臭い風に、体を揺らして動きを止める。

「どこへ行かれるつもりか、ご子息」

「――ッ」

 笑いを含んだ声。澱んだ音。振り返らなくてもわかる。あの男だ。

 男の指先がきつくエリスバートの腕を掴んだ。反射的にそれを渾身振り払い、エリスバートは玄関の扉に飛びつくと、それを開け放った。

 外に出ると、雨粒と、震えるほどの寒さがエリスバートの全身を打つ。あっという間にずぶ濡れになった。春なのに、こんな天気が続くのはおかしい。何もかもかがおかしい。

 エリスバートは必死にぬかるんだ道を駆け、見慣れた教会へと辿り着いた。

「誰か! 祭司様、エリスバートです!」

 叫びながら中へ飛び込む。

 だが、エリスバートを迎え入れたのは、重く沈んだ静寂ばかりだった。

「……ああ……!」

 絶望に似た音がエリスバートの口から洩れる。

 床には血の穢れがあった。祭壇に目を遣れば、敷布の辺りも赤く血で染まっている。倒れた花や燭台まで、べっとりと同じ色で濡れている。

(ここの人たちもやられたんだ)

 祭壇に近づき、エリスバートは血濡れた布に触れた。指に冷たい感触。まだ乾いていない。

(ここは危険だ)

 祭司たちが害されたのならば、手を下した人間――あるいは別の生き物――は、まだ近くにいるかもしれない。

 少なくとも、町の中にいる。

 人のいるところに行かなくてはいけない。悪しき者に対抗する手段は何ひとつ持ち合わせていないエリスバートだった。神を信じる力のみで事態が変わるとも思えない。

 とにかく家へ戻ろう、と思いかけて、エリスバートは踏み出しかけた足を止めた。家も、きっと危ない。あいつがいる。でも。

(クレディスを置いてきてしまった)

 それが悔やまれた。クレディスや家で働く者たちが、屋敷にはまだ残っている。自分だけ安全なところへ逃げてしまっていいわけがない。

(戻らなくては)

 雨の中、エリスバートは再び家に戻るため、教会を飛び出して走った。


     ◇◇◇

     

 風に流れ、横殴りに降る雨粒が、まるで凶器のようにセルバンの体を襲った。

 寒さにもう、すっかり手足の感触はない。それでもセルバンは声を張り上げ、いなくなった子供の名前を呼ぶ。

 レスマインたちとははぐれてしまった。強い風が皆の視界を奪い、呼び合う声も耳に届く前に費えた。かろうじて、手許の明かりだけが生きている。それを高くかざし、道の端や、木の蔭に子供がいないかと、身を屈めて確かめる。

「……ッ」

 子供の名前を呼ぶ途中、ぐっと喉に嫌な感触が昇ってきて、セルバンはさらに背を丸めた。何度も咳き込む。止まらない咳に、口許を掌で被った時、喉の奥から生暖かいものが流れてきた。

 赤い血が、雨に混じって地面に落ちる。

 セルバンは体を支えていることができず、その場に膝をついた。

(こんなところで)

 倒れるわけにはいかない。

 セルバンは体中で呼吸をして、荒いその息を長い時間かけて落ち着けようと試みた。

「しっかりしろ……、……どうぞ主神セイマーよ、今少しだけ私に力を……」

 泥を掴みながら絞り出した声は、か細く、雨音に呑まれて消えていく。

(ミューザ――……)

 言葉で神を呼び、心でミューザを呼んだ。

 もしかすると罪深い自分へ下された罰なのかもしれないと、そう考えかけ、セルバンは少し笑った。

「それでも、君は許してくれるだろう、ミューザ?」

 名前を口に出して呼ぶと、少し体に力が戻った気がする。

 セルバンはよろめきながら立ち上がり、夜のように暗くなっていく辺りへ目を向けてから、再び歩き出した。

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