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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 B-PART]
12/18

第二章『隣人』(2)

「ああ――おかえり、ミューザ」

 ファムスの家から戻ってきたミューザを迎えたのは、もう十何年も前から見慣れ続けている柔らかな笑顔だった。

 部屋の入り口で立ちすくみ、ミューザは少しの間言葉を失くす。

 セルバンが帰っていた。

「……驚いた。今日はずいぶん、早いのね」

 セルバンが戻っているなんて思っていなかった。ミューザは無意識に、痛む右手をセルバンの司会に入らないよう、反対の手で庇った。

「忙しいの、終わったの?」

「いや、まだなんだけどね。少し……心配で」

 セルバンが柔らかい微笑を浮かべ、ミューザの方を見る。

 ミューザはセルバンから顔を逸らし、綺麗に磨かれた床に視線を落とした。

「何か飲むかい? 外は少し寒かったろう」

 セルバンは食卓に紙の束を広げて座っていた。ミューザは居間の入口でそれを見下ろし、小さく首を横に振る。

「いらない」

「お腹は? さっき、リリアさんのところでお裾分けをいただいてね。すぐに食べられるよ」

「今は空いてない。食べるのなら、セルバンだけ食べて」

 ずきずきと、ミューザの右手が痛んでいる。こんなことなら帰りに医者に寄って薬草をもらってくればよかった。でもそんなことをしたら、怪我の理由を問われたかも知れない。

「少し、帰りが遅かったようだね。どこまで?」

 穏やかに訊ねるセルバンを、ミューザは顔を上げて見返した。

「いつものセルバンよりは早いわ」

 セルバンが少し、困ったように笑う。

 ミューザは入り口のところに寄り掛かって、苦笑するセルバンを見下ろした。

 それから、セルバンが次第に自分から眼を逸らすさまを、じっと見つめる。

「……セルバン。黒の魔導を使う人間って、悪い人ばかりかな」

 ミューザが前触れなく呟くと、セルバンは少し驚いたように彼女を見返した。

「なぜ?」

「何となく。黒魔導士って、悪い人間?」

「……妖力を持っている人間が、悪い人間だというわけじゃないけれどね」

 セルバンは視線を食卓の上に彷徨わせた。

「聖なる力と一緒で、妖力は生れつきのものなんだ。一般的に、妖力はこの世にありうべからざる呪われた力であり、それを持つ者はありうべからざるものを望んだ呪われた人間だと言われている。でも白魔法と同じように、黒魔導だって、その因子を持っていない人間に使うことはできないんだよ」

 神学校の教師らしく、セルバンは落ち着いた口調で丁寧に説明してくれた。

「どちらの力も、望んだから手に入るというわけではないし、いらないと思ったからと言って消えてしまうものではない」

 それはミューザにもよくわかった。これほど聖なる力が欲しいと思うのに、それは決して叶えられない望みだ。

「だから、妖力にしろ聖なる力にしろ、持っていても使わない人もいる。黒魔導は完璧な道具と場が必要になるし、よほどの知識がなければ妖力は行使できないものだ。大抵の妖力なら、聖なる力で封じることができるし、そもそも悪しきものとして忌まれる魔導に手を染めようとすることは、よほどの悪い心を持っていなければできることじゃない。だから……自ら望んで黒の魔導を使う人間は、悪い人間なのかもしれないね」

 ミューザの脳裡に、あの黒ずくめの隣人の姿が浮かんだ。

「そうして魔導に一度手を染めた者は、魔導を重ねてさらに強い力を手に入れようとすることがある。魔導を元にした魔導にはかなり強い妖力が必要になるんだ。そんな力の持ち主がさらに強い力を持つようになれば、とても恐ろしいことになるよ。力は留まることを知らなくなる」

「……」

「どうかしたのかい? 急に、黒魔導のことなんて訊いて」

「何となくだってば。……セルバンは……」

「え?」

「セルバンは、たとえばあたしが黒魔導でどうにかされてしまったら、助けてくれる?」

「……変なことを言うのは、やめなさい」

 セルバンは、食卓に視線を戻した。もう何度目かの動きだ。ミューザと食卓の間を、セルバンの視線が行ったり来たりしている。

「そんなことがそうそうあるはずないだろう」

「たとえばの話。助けてくれる?」

 ミューザは無表情だった。ほんの少し咎めるようなセルバンの口調に、眉ひとつ動かさない。

「……助けるよ。君は、僕の大切な娘だ」

「そう」

 まるでセルバンの答えを予測していたかのように、ミューザは呟き、小さく頷いた。そのまま壁から身を離し、自分の寝室に向かって歩む。

 背を向けたミューザの右の掌が、見た目にわかるほど赤くなっているのに気づき、セルバンはがたりと音をたてて椅子から立ち上がった。

「ミューザ」

 呼ばれてミューザが振り返る。

「その手、どうした?」

「ただの擦り傷だよ」

 答えて、逃げるように部屋へ戻ろうとするのに、セルバンの眼差しがそれを許さない。

「そうは見えない。ちゃんと見せてみなさい」

「大したことないの」

「ミューザ」

 セルバンはミューザに近付き、その手を取ろうとした。一瞬泣きそうな顔になり、ミューザは右掌を反対の手で隠した。

「ミューザ。見せなさい、ひどいようなら癒しを使わないと、痕になってしまうよ」

「……大したことないんだよ、心配いらないから、お父さん」

 ミューザの言葉に、セルバンは驚くほど過剰に反応を示した。不意を突かれたように、傍目にもわかるほどその体が強ばる。

 ミューザは完全に泣き顔になった。

「呼べって言ったのはセルバンじゃないか、そういう反応は狡い!」

「ごめん……ごめん、ミューザ」

 自分の額に拳を当て、セルバンは擦れたような声で呟いた。辛うじて笑おうとするが、まるで上手く行かない様子で。

「驚いただけなんだ。慣れないから」

「愛してるって言って」

 ミューザは、足を爪先立てて、セルバンの首に腕を回した。

「……ミューザ」

「父親なら言えるでしょう? 娘に言うだけよ、大好きだって。愛してるって」

「……」

 セルバンは抱擁を返せない。

「愛してるよ、セルバン」

「ミューザ……」

 狡いのは君だ。

 セルバンの言葉は声にならない。しかしその言葉が伝わったかのように、ミューザがセルバンを抱き締める腕に力をこめる。

「昔みたいに言って。『お父さんは君を愛しているよ』って、言ってよ」

 セルバンは溜息を押し殺して、ミューザの腕を自分の首から外した。

 ミューザは抵抗せず大人しくセルバンから離れ、ただ、大粒の涙をこぼしていた。

「血なんて繋がってないのに。それでも、親子だからいけないの?」

「……」

 セルバンは答えない。

「わかんないよ、セルバン。わからないんだよ、あたしには」

 セルバンは黙ってミューザの右手を取ると、掌を上に向けた。左手で、火傷になってしまったそこに触れる。

「我が声は神の声、我が詞は神の詞、我は汝の名を呼ぶ者なり」

 続けてセルバンは、ミューザには聞き取れない言葉で何かを呟いた。ミューザには聖なる力がないから、セルバンの詞がすべて正しくは聞き取れない。

「ドモスの精霊、我の名の下に依り、傷つきし者に癒しの光を」

 ミューザは触れられた右手に、火傷を負った時とは別の熱を覚える。熱いのに痛くない。内側からも外側からも光に包まれる感触。

 その光が消えた頃、セルバンはそっとミューザから手を離した。

「……目に見える傷なんて、時間が経てば治るのに」

 ミューザは傷の消えた自分の掌に視線を落とす。まるであの時怪我をしたのが嘘のように、綺麗な肌が見えた。

「こんなもの放っておいてくれて良かった」

「その傷はただの火傷じゃないね? 黒の気配がするよ」

「何でもないの。本当だよ」

 ミューザは静かに言うと、疲れたような足取りで自分の部屋に戻っていった。

 ぱたん、と乾いた音がしてミューザの寝室のドアが閉じたと同時に、セルバンの影が揺らいだ。

 数歩よろけるように足を動かし、セルバンは食卓に片手をつく。前のめりに身体を折り曲げ、逆の手で口許を強く押さえる。壁一枚隔てただけの部屋にいるミューザに、荒い息遣いが聞こえてしまわないように。

 セルバンはきつく目を閉じて、しばらく激しく身体を駆け回る苦痛に耐えた。胸がひどく痛む。あまり声を上げないように何度か嗚咽した。

「……ミューザ……」

 声は喉の奥で消える。

 思ったよりも時間は少ないのかもしれない。

 精霊と契約しての癒しさえ、これほどまでに身体に負担がかかってしまうとは。

 恐怖が身体を占める。ぞくりと寒気が背中を落ちる。

 ――守りたいのに。

 守ってあげいのに。望むのなら、たとえどんなことがあっても。もしそう望まないとしても、どんな時にでも、何を犠牲にしたって駆けつける。かならず助けにいく。

 誰よりも大切なのに――守りたいのに。

 家族だという想いだけなら、愛してるなんてうんざりするほど伝えられた。


     ◇◇◇


 耳障りに扉の軋む音がして、エリスバートは眉を寄せた。

 ちょうど喉が渇いたからと、自室から廊下に出たところだった。エリスバートの部屋は二階。同じ階にある水場の方へ向かう途中、広い階段の下に黒い影があるのを見つける。

(……また来たのか)

 黒い影に見えるのは、人間だ。真っ黒な長い外套に身を包み、長い髪を垂らしている。顔の色がいやに白くて、まるで蝋のようだとエリスバートは思った。

 二階の廊下から自分を見下ろすエリスバートの姿に気づき、男が、ゆっくりとその方を振り仰いだ。

 まだ若い男のようだ。ようだ、というのは、遠目でもあったし、それに長い髪と黒いマントがその白い顔の半ばを隠し、顔の作りすらよくわからないからだった。

 ただ、やけに赤い唇が、笑みを象ったのだけが見て取れる。

 エリスバートは唾棄したい気分になりながら、辛うじてわずかに頭を下げた。視線を逸らす仕種が露骨だったかもしれないが、礼儀は失わない範囲だ。

 本当は、この薄気味悪い男に頭など下げたくなかった。

 しかし、彼は父親の客だった。息子の自分が礼を失するわけにはいかない。

「おお! よくいらして下さった、お待ちしておりましたぞ!」

 階下の廊下から、父親の大きな声がした。黒い男の来訪を告げられ、嬉しそうな様子でいそいそと部屋から出てきた。父親は大仰に両手を広げ、目一杯に男へ歓迎を現している。

 ぼそぼそと、低い声で男が父親に答えていた。父親がいちいちそれに、やはり大仰な相槌を返している。男が何を言っているのかまでは、エリスバートにはわからない。

 父親に誘われ、男は賓客のための部屋へと消えた。

 男が視界からいなくなると、エリスバートはほっと息を吐く。

 あの男が家に出入りするようになってから、半月ほど。その姿を見るたび、エリスバートは何とも言えない息苦しさを味わっている。

(あんな真っ黒の服を着て、妙な男だ)

 家にいる使用人たちも、自分と同じようなことを思っているらしかった。実際、ああして男が来訪したというのに、父親以外に彼を出迎える者がいない。父親が自分で迎えに行くからと、そうは言っているにしても。

(何者なんだろう、一体――)

 父親の客だというのはわかる。そうでなくては、この家にあんな素性の知れない者が入れるわけがない。エリスバートの家は、数年前に病で母親が亡くなって以来、父親のリエインとエリスバート、そして年の離れた弟クレディスの三人家族だ。住み込みの使用人や父親の側近は大勢いるが、彼らは皆一様に男の来訪を疎んでいる。

 直接父親に男について訊ねてみても、いつも『今にわかるさ』と笑って答えてくれない。

 リエインはエリスバートやクレディスにとって、ずっとよい父親だった。領主という立場にあっても、町の人間に慕われ、尊敬され、エリスバートにはその存在が誇りだった。学校にいた時からずっと優秀な成績を修めていたという父親に恥じぬよう、自分も立派な人間になろうと努力してきた。

 だが、あの男が家に来るようになって以来、リエインは自室に閉じこもることが多くなり、公務もおろそかになっている。有能な側近が当面はリエインの代わりに動いてくれているようだったが、この調子では、じきに町の中にもリエインに関するよくない噂が経ってしまうだろう。今日も、昼間に議会の集まりがあったはずなのに、父親が家から出た様子はなかった。

(噂……か)

 不意に、エリスバートは数日前に幼馴染みの少女が言った言葉を思い出した。

『あの人、噂に聞く黒魔導士なんじゃないかしら――』

 家に遊びに来たメアリルが、あの黒ずくめの男を目にした時、気味悪そうにそう呟いたのだ。

 不吉な言葉に、エリスバートはぎょっとした。

『そんな言葉を口にするもんじゃないよ、メアリル』

 思ったことがすぐ口に出るタイプのメアリルを窘めるつもりでエリスバートが言うと、あら、とメアリルは意外そうな顔つきになった。

『バーティ、あなた噂のこと知らないの?』

 メアリルは芝居がかって声を潜め、エリスバートに耳打ちした。

『最近、この町を黒魔導士がうろついてるって、みんな言ってるのよ』

 知らなかったことだったので、エリスバートはひどく驚いた。そんな話、聞いたことがなかった。それほど重大なことなら、たとえ噂であっても領主の住む家にいる自分の耳に入って来ないのは、おかしい。

 悪い冗談だと、言いかけてエリスバートはハッとした。

 ――本当に『皆が』噂しているのなら、領主の息子である自分の耳に届かないのは、至極当然のことではと思いついたのだ。

 その噂の主は、他ならぬ領主の家に出入りしている。

『実際に見たのは、あたしもさっきが初めてだけど。いつもはドモスの南にいるって話よ、それも知らなかった?』

 驚いているエリスバートに、満足した顔でメアリルがそう続ける。

『ドモスの南? 家が、そっちにあるのか?』

『そうよ、あのミューザの家の近くに住んでいる人が、その黒魔導士じゃないかって』

 そう言ったメアリルの言葉を思い出し、エリスバートは、我知らずぎゅっと心臓の上を拳で押さえた。

 ミューザの家は、ドモスの北側にあるこの家とは、真逆の方向にある。市街地からは遠く、人の住む家も少なかった。何かあった時に、駆けつけられる人間がそういるとは思えない。

(あそこの父親は、優しそうだけど、何て言うかぼんやりだし……)

 思い出すのは、セルバンの穏和な姿。何度か顔を合わせたことがあるが、あの口の達者なミューザの父親とは思えないほど、どこか抜けたところがあるように見える男だった。

  ひどく胸騒ぎがする。

 エリスバートはとても軽快とは言えない足取りで、考え込む顔になりながら、水を飲むことも忘れて自室へと戻った。

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