第二章『隣人』(1)
すっかり夜のとばりが降りていたが、ドモスの町で一番大きな屋敷のひとつの部屋からは、ランプの灯りが漏れていた。
屋敷にいる他の人々はすっかり寝静まっている。おかげでエリスバートは、思う存分勉強に集中することができた。
広い部屋の隅にしつらえた机に向かい、熱心に教科書のページを繰る。ぶつぶつと、小さく声に出し、確認するように単語を覚えた。
「――よし、ここまで覚えた」
いちいち口に出してしまうのは、昔からの癖のようなもので、覚えたことが形になったことがはっきりわかって安心するから止められない。
壁にかけられた時計を見て、エリスバートは軽く息を吐くと、椅子の上で大きくのびをした。
(そろそろ眠らないと、朝起きられないかもしれない)
学校に遅刻なんて、無様なことをするわけにはいかなかった。エリスバートはこのドモスの領主の跡取り息子だ。町を纏める一族の人間として、人の手本にならなくてはいけないのだ。
それに――、
(ミューザは、もう寝ただろうか)
何度か訊ねてみたが、『一日にどれだけ勉強をしているのか、何時まで勉強をしているのか』などという質問に、彼女が答えてくれることは一度もなかった。ただ、呆れたような顔で自分を見返して、
「エリス、きみ、まさかあたしよりたくさん時間をかけて勉強すれば、その分賢くなるだなんて思ってないよね?」
と、いかにも軽蔑した口調で言うだけだ。
わざわざその口ぶりを思い出してしまい、エリスバートはひとりで腹を立てた。まったくあのミューザという少女は、人を怒らせることに関しては天才的だ。同い年の子供で、エリスバートにあんな口を利く人間は、他にいない。
領主の息子という立場の自分と対する時、級友も、先輩も、ずっと年配の教師ですら、どことなく線をひいているのをエリスバートもわかっていた。敬いとおそれ。それが自分という存在にではなく、その後ろにいる父親に向けられるものだということも。
例外があるとすれば幼馴染みのメアリルくらいなもので、しかし彼女の存在もまた、最近やけにエリスバートを困らせていた。
『兄様、さっき、メアリルがまた来たよ』
学校が終わった後、街の図書館に寄ってから家に戻ると、顔を合わせた弟がそう告げた。
勉強に熱中して帰りが遅くなったことに、エリスバートは口には出さず、そっと安堵した。
メアリルが嫌いなわけじゃない。幼馴染みで、いわば兄妹のように育ったから、我儘を言われても腹が立ったりすることはない。ただ――あまりに開け広げな好意や独占欲を向けられるのが、困る。
エリスバートがそれに応えることはできなかった。だから、困る。
『卒業したらあたし、テイメントに行くのよ』
メアリルのことを考えて、どうしたものか、と困惑していたエリスバートは、何のはずみか今日の昼間にミューザが言った言葉を思い出した。
エリスバートは、さらに眉を顰めてしまう。
(冗談にもほどがある)
ミューザがテイメントに行くだなんて言葉を、エリスバートが信じられるはずがなかった。
ミューザは学校始まって以来の才媛とまで言われる生徒だ。こんな田舎町の学校にとどまっていることは、罪だとエリスバートには思える。その彼女が、上の学校にも進まず、花嫁修業に行くなんてこと、信じられないし許せることではない。
なにしろ、幼い頃から常に首席を保って、神童だ、天才だと言われてきた自分を、ミューザは簡単に負かしたのだ。彼女と同じ学校に入って以来、エリスバートは延々次席という屈辱に甘んじ続けている。
(このぼくに一度も負けないまま、結婚なんてしていいはずがない)
エリスバートは机の上に置いたペンを、再び手に取り握りしめた。
(ミューザに負けずに勉強するんだ)
そう、自分に言い聞かせる。
卒業までに、必ずミューザから首席の座を奪い取らなくてはならない。
なぜなら――
(……負けるもんか)
決意を新たにしたエリスバートの部屋から、その夜、長い間灯りは漏れ続けていた。
◇◇◇
相変わらずいい天気が続いていた。
だが、暖かな風に吹かれながら、窓辺の席に頬杖をついていたミューザの表情は、まったくもって完膚無きまでに不機嫌そのものだった。
ミューザの側の席にはマナが座っていたが、ミューザの低気圧を察してか、とくに言葉をかけてくる様子はない。放っておいてくれるマナの優しさが、今のミューザにはありがたかった。
今口を開いたら、どうあったって漏れるのは父親への悪口雑言ばかりだろう。
(セルバンのやつ。あれじゃ本当に、いつか倒れるんだから!)
ミューザが朝起きると、セルバンの姿は家のどこにもなかった。
夜のうちにミューザが準備しておいた朝食にも、夕食にも手がつけられた様子はない。せめて、と思って作った弁当だけなくなっていたことに、ミューザはやっと少しだけ安堵する。
安堵してしまったことが、やけに腹立たしい。
ここ数日、ずっとそんな調子だ。ミューザが学校から帰ってきて、夜までずっと待っていても、セルバンは家に戻ってこない。待ちくたびれて居間のテーブルに突っ伏して眠ってしまったミューザを寝室に運び、おそらくその後自分の仕事をしてからやっと眠って、そしてミューザが目を覚ます前に家を出て行ってしまうのだ。
いくら試験の時期で忙しいとはいえ、こんな状態は異常だ。去年だって、この時期はやっぱり忙しかったけれど、夕食くらいは一緒に取れたし、朝の挨拶だってきちんとできていたはずなのに。
「……いっそ、倒れちゃえばいいんだ」
そんな本音が、思わずミューザの口を衝いて出た。
そうすれば、ミューザは無理矢理にだってセルバンを家に連れ戻して、誰が何と言ったって、最低三日はベッドに寝かしつける。縛り付けたっていい。
セルバンが倒れる、という想像は、それだけでミューザの心臓を凍らせるようなものだったけれど、それでも取り返しがつかないほど体を壊してしまうよりはよっぽどマシだ。
「何だよミューザ、窓の外なんて睨みつけて」
怪訝そうな声を聞いて、ミューザはそのまま、窓に向けていた目を閉じてしまいたくなった。
「ずいぶん眠そうだな」
「きみはずいぶん暇そうね、エリス」
面倒だと思いつつも、ミューザは律儀に応えてしまう。エリスバートと同じ学校に入って以来、彼が自分に突っかかってくるのは日常のことだったし、それに返事をするのもいわば習慣のようなものだ。
「暇なもんか、授業が潰れてしまったんだ、今から図書室に行って自習しようと思ってたんだよ」
頬杖をついたまま、ちらりと、ミューザはエリスバートの方へ視線だけ向けた。
本来なら歴史の授業のあるこの時間、担当の教師が急な用事で休みになって、ミューザたちのクラスは自習を指示された。ミューザはどうしても勉強する気分になんてなれず、こうやって、教師に咎められないのを幸いと心を余所に馳せていたのだが。
「そ。なら早く行ったら、いちいち人の方に寄ってこないで」
ミューザの冷たい口調に、エリスバートがむっとしたような表情を作る。
「同じ教室の中に、そんないかにも疲れてます、眠たいですって顔のやつがいて、落ち着いて勉強ができるもんか。目障りなんだ、さっさと医務室にでも行って休んで来いよ」
「目障りって、エリスきみ、図書室に行くんでしょ。教室で誰がどんな顔してようが関係ないじゃないか」
「関係あるさ、もうじき試験だってのに、このぼくのライバルがそんな不甲斐ない様子じゃ張り合いがない!」
「……」
ミューザは眠気に負けて閉じかけた瞼をどうにか開いて、エリスバートのことをまた見上げた。
「いいわね、きみは、平和そうで」
つい溜息が出てきた。自分の試験なんて、今のミューザにはどうでもよかったのに。
呆れたふうなミューザの態度に、エリスバートがムッとした顔になった。
「余裕綽々だな、ミューザ。いいのかそんなだらしないことで、今のきみになら、ぼくだって簡単に勝ててしまいそうだぜ」
「だから何度も言ってるでしょ、試験の結果になんて興味ないって」
さらにムッとした顔で、エリスバートが手にしていた教科書をミューザの机の上に叩きつけた。
さすがに面喰らって、ミューザはちょっと目が覚める。
「なによ」
「今にみてろ」
「だから、なによ」
大まじめな顔で自分を睨みつけてくるエリスバートに、ミューザは首を捻った。
エリスバートは怒ったような、真剣な顔で、ミューザに指をつきつけた。
「今にみてろ、試験できみのことを負かして、そうしたら――」
語気荒く言ったエリスバートの言葉が、途中で費える。
わけがわからなくて、ミューザはさらに首を傾げた。
「そうしたら?」
「い、言うことを、きいてもらうからな!」
エリスバートはなぜかますます怒ったように声を張り上げ、赤くなった顔でそう怒鳴ると、きびすを返して教室から去って行った。
「なぁにあれ、変な奴……」
前から変な奴だったけど……と呟くミューザの側で、一部始終を見ていたマナが、どことなく気の毒そうな顔でエリスバートの後ろ姿を見送った。
「……ミューザ」
それから、マナが控えめな調子でミューザを呼ぶ。すっかり目が覚めてしまったミューザは、心配げな顔を自分に向けている友人の方を振り向いた。
「うん?」
「バーティの言うとおりだわ。ミューザ、医務室に行って休んだ方がいいと思うの。あなた、朝からずっと顔色がよくないもの」
マナの口ぶりは、まるで彼女と同様に、あのエリスバートが自分を心配して『休め』と言ったというように聞こえて、ミューザはちょっとおかしかった。
(マナは優しいから、何でもいい方に取るんだ)
「平気だよ、ちょっと眠たいだけ」
「あまり眠れていないの?」
セルバンのことをマナには話していない。余計な心配をかけるだけだと、ミューザにもわかっていた。ミューザがセルバンのことで心を痛めていることに、きっとこの優しい友達も同じように心を痛めてしまう。
「本当に、ちょっとだけだよ。今日はちゃんと眠ろうと思う」
微笑んで答えたミューザに、マナは少しだけ悲しそうに微笑み返して頷いた。
きっとミューザがついた嘘はわかってしまっただろうに、マナはそれ以上何も言わずにいてくれた。
「ちょっとだけ、今眠ろうかな」
友達に心配をかけ続けるのが申し訳なくて、ミューザはそう言うと、机の上に頭を乗せた。マナがほっと息を吐く気配が伝わる。
「そうして。次の授業が始まる頃に起こすわ」
「うん、お願い。でも、少しだけ話していて? マナの声を聞きながら眠りたいわ」
マナの声は、まるで鈴の鳴るようで、聞いていると心地よい。ミューザは母親の子守歌を知らなかったが、それがあればきっとマナのようなものだったと思う。
「そうね……ミューザ、今日も一緒に帰れる?」
「もちろん。どうして?」
少しずつまどろみ始めながら、ミューザは眠たい口調で相槌を打った。
「母様が、ひとりで帰るのはよくないって。最近噂があるのよ、とても悪い噂……」
「悪い噂?」
おうむ返しになるミューザの言葉に、マナが頷く気配。
「黒の魔導士が、町にいるんだって。本当かどうかはわからないけど、噂が出るだけで不吉だから、ひとりで帰っちゃいけないって。ミューザ、できれば一緒にうちまで来て? それで、強い人におうちまで送らせるわ」
「大丈夫よ、そんな……魔導士なんて、ただの噂……」
答えながら、しばらくの睡眠不足がたたってか、ミューザは急速に眠りに落ちていった。
夢の世界に沈み込む前、マナの言葉が頭の中で繰り返される。
『黒の魔導士が、町にいるんだって』
『とても悪い噂――』
その言葉たちが、ミューザの心をそっと撫でた。とても嫌な感触だった。
(何だろう)
ラルの母親に話を聞いた時よりも、もっと不吉な感じ。
(悪いものが、近づいてくる)
どうしてか、そんなことをはっきりと思った。
だがそれは眠りの中に夢と一緒に取り込まれ、溶け込み、そのままミューザが思い出すことはなかった。
◇◇◇
空いた授業の時間で少し眠り、マナに起こされた後、ミューザは軽い頭痛に悩まされた。おそらく中途半端に眠ってしまったのがいけなかったのだろう。
それでもマナに心配を掛けまいと、ミューザは努めて元気に放課後を迎え、帰りは彼女が提案した通り一緒にその家へと向かった。
マナとその両親は、ミューザのことを案じて護衛の人間を付けてくれようとしたが、大袈裟だと笑ってミューザは断った。
「こんな町中で、そんな怪しい奴に会う方が難しいよ」
ラルの母親は、ミューザの隣に引っ越してきた男が怪しい、と言っていた。だがマナとその両親たちは、そのことは知らないらしい。ただ、使用人の噂話で、『黒ずくめの男を町で見た』と聞いただけだと。
(ラルのおばさんの時と、話が違うわ)
だからミューザは大して気にしなかった。ラルの母親は、その怪しい男は町には出てこず、だから怪しいと言った。マナたちが言う怪しい男は、町中に出ると言う。街に出てこないのならば遭遇しようがないし、市街地に現れるのだったらその場で助けを呼べば住む話だ。
だいたい、この平和な町で、黒魔導士だ怪しい男だと言われても、ミューザにはまるで現実味がない。大方、たまたま黒い服を着た旅人を目に留めた町の人間が、大袈裟にことを話し、それがさまざまな尾ひれをつけて伝わった結果なのだろう。本当に平和な町だ、そう思いながら、ミューザは明るくマナとその家族に別れを告げた。
マナの家は、町の中心部近くにある。商店を開いているだけあって、にぎやかな場所にあった。ついでに店の建ち並ぶ通りで買い物も済ませ、ミューザは自分の家へと戻った。もちろん町中のこの時間から、黒ずくめの怪しい男なんて目にしなかったし、市街地を離れて自然の多い道に入っても、待ちかまえていたのはいつもと同じ穏やかで美しい風景だけだった。
家に戻り、誰もいないことをたしかめてから、ミューザは大きく溜息をついた。
やっぱり、と思う。やっぱりセルバンはまだ帰っていない。神学校の試験とやらがいつまで続くのかは知らなかったが、こう連日遅くなるのはどう考えてもおかしい。
――わざとだ。そう考えるしかない。
(せっかくパイを焼こうと思って材料を買ってきたのに)
口惜しい気分と、悲しい気分が綯い交ぜになって、ミューザは何だか泣いてしまいたくなった。
セルバンの好きな、甘いフルーツのパイ。大人の男の人なのに、セルバンは甘いものが好きだ。ミューザの作るケーキやパイを、いつも嬉しそうに食べてくれた。
その笑顔が見たいと、心の底から思うのに。
きっと試験で満点を取るよりも、今の自分には難しいことだとミューザは思った。
セルバンが食べてくれないパイを、自分のためだけに焼く気は起きなかったし、大人しく勉強をする気分にもなれない。このまま家にいては気が塞いでしまうが、マナとは別れたばかりだし、気晴らしに買い物、なんてことも面倒でしかない。
セルバンのいない空白の時間をどうするか、ミューザはぼんやりと居間のテーブルの前で考えあぐねる。
(そうだ)
ふと思いついたのは、例の噂話。噂そのものではなく、『隣に引っ越してきたファムスという青年』のこと。
(引っ越してきたってのに、挨拶もしてないわ)
今さらながらにそんなことに思い至った。セルバンはその家に出向いて挨拶をしてきたらしいが、ミューザはそのファムスとやらの姿を見たこともない。
男、しかも自分とそう変わらない年頃のひとり暮らしなら、さぞかし食料――量よりも質――に困窮しているだろうと思い、ミューザは買い込んで来た荷物を開いた。
(どんな奴なんだろ)
少しの好奇心と共に、想像力を働かせながらミューザはパイ作りを始める。自分ひとりのためにごちそうを作るのはつまらなかったが、食べてくれる人がいるのなら少しは違う。
たとえその相手が、顔も知らない存在であっても。
誰よりも愛していると思える人間ではなくても。
寂しくて、寂しくて、何かしていなくては、おかしくなりそうだった。
(考えるな)
セルバンの不在に気持ちを遣らないようにしながら、ミューザはいつもよりも熱心にパイ作りに励んだ。家事は得意だ。学問以外に関してはからっきしのセルバンに代わり、幼い頃から料理も掃除も何もかも、この家のことはミューザがやってきた。料理に関してはちょっと自信がある。
どうせなら、美味しいものを食べてもらいたいと、いつもいつも思っていたから研究には余念がなかった。
ミューザは偉いのねとマナなどは言うが、義務や使命感でやっているわけではない。ただ、ミューザがそうしたいと思うから。美味しいと言ってもらえるのが、本当に嬉しかったから。
(……と、いけないいけない)
つい父親のことに気持ちが向きそうになって、ミューザは慌てて火加減に意識を集中させた。
手早くパイを作り上げ、まだ温かいうちに籠へ入れてしまうと、ミューザはそれを持って家を出た。書き置きを残していこうかと思ったが、無駄になるだろうとやめた。どうせ、セルバンは真夜中にならなければ帰ってこない。
陽の沈みかけた路を、ミューザは南へと辿っていった。
家より南に入るのは、ずいぶんと久し振りだ。マナと来て、それから二度と来るまいと誓った。あれから数年経って、その時よりも少しはおとなになったというのに、ミューザはやはり得体の知れない緊張感を味わった。昔、子供だから怖かったわけじゃない。
(暗い)
森へ入ると、夕日すら見えなくなる。覆い繁った木の葉の隙間から、わずかに赤い光が漏れるばかりだった。気をつけて歩かないと、道の悪さに足を取られてしまいそうだった。
来るべきではなかっただろうか、と微かな後悔を浮かべながら、今さら引き返す気にもならず、ミューザは歩き続けてようやく一軒の家の前に立った。
その家の周囲には、背の高い鬱陶しい草が、好き放題に伸びていた。人が本当に住んでいるのか怪しいものだと、一目見ただけでは思えるほど。大きさはミューザたちの住む家と同じくらいか。家の裏手には巨木が十の単位で生えていて、大振りの枝が家を半分覆うように延びていた。気味の悪い場所だ。建物自体も、現在の住居人が来るまで何年も放っておかれたから、すでに廃屋寸前といったような雰囲気を醸している。
ドアを叩いて壊れはしないか心配になりながら、ミューザはとりあえずその小屋の入口をノックした。
返事はない。
(留守?)
それとも聞こえていないのかも知れない。ミューザは少しの間を置いて、もう一度ドアを叩く。ドアの向こうで物音がした。何だいるんじゃないと、ミューザはドアが開くのを待った。
「誰だ」
だが目の前のドアが開くことはなく、ただひどく不機嫌そうな低い声が、ドア越しに届く。
「先に言っておくが、俺はおまえに用はないぞ」
物言いに、かちんと来た。
(何だよ、顔も見せずに)
門前払い、とはこのことか。ミューザはもともとよくはなかった機嫌を、さらに損ねてしまった。
男の声を、聞こえないふりでもう一度ドアを叩く。あくまで上品に。
「誰だと聞いている」
もう一度。
軽い舌打ちの音が聞こえて、中からドアが開いた。
その、刹那。
(――え?)
ざわりと、ミューザは背中の産毛が逆立つような、体の芯から震えが沸き立つような、奇妙な感覚を瞬時に覚えた。
(何……)
それは悪寒にとてもよく似ていたかも知れない。一瞬、目を開けているのに何かに目隠しされたような錯覚が生まれる。
自分が立っているのか座っているのか、それすらもわからなくなって、ミューザは必死に足許を踏みしめた。一度大きく頭を振ると、やっと視界が開ける。必死に、自分の前にあるものへ目を凝らす。
家の中から姿を見せ、今ミューザの前に立っているのは、長身に、黒色のおそらく寝間着引っ掛けた不機嫌そうな青年だった。
そして、その容貌は。
おそらく百人が見て、九十九人が言葉を失うだろう美形だ。すらりとした長身に、細面の顔。腰まで届こうかという、少し波打った絹糸の如き漆黒の髪。切れ長の眼も、綺麗に弧を描く眉も、艶やかな唇も、通った鼻梁も、まるで人形造りの名手がすべての才能を注ぎ切ったような秀麗さを宿していた。非の打ち所もなく整い切った容貌。
そう、すべてにおいて、彼は完璧だった。完璧すぎて、作り物めいた感が否めないほど。
これでもう少し愛想でもあれば、本当に人形と勘違いしてしまいそうだ。惜しむらくは、というべきか幸いなことにと評するべきか、彼には愛想というものが、どこをどう探しても見当らなかった。それが却って彼を、辛うじて人間らしく見せている。
家の間際に生えた巨木の影になった暗い玄関先で、男の漆黒の瞳が底光るような、奇妙な感じがしていた。長い髪がその顔の半ばを隠していた。それはぞっとするほどの美しさを生み出す佇まいだったが、ミューザはただ「鬱陶しい男だな」とだけ思った。つまり彼を見ても声を失わない、百人中のたったひとりがミューザだったのだ。
(何だったんだろう、今の……)
ようやく冷静に隣人の姿を観察することに成功したものの、ミューザは先刻覚えた震えの正体がわからず、ひとり首を捻った。
「どちら様?」
自分を見るなり黙り込んだ少女に、男は冷え切った眼差しと声音で訪ねた。咄嗟に不快感を覚えるような、上から人を見下すような、冷たすぎる口調だった。
ミューザはすっと目を細め、隣人、ファムスの質問を黙殺した。とても初対面の人間に向けるとは思えないその態度が、先刻の不可解な感触を忘れてさせてくれた。
「おい、聞こえていないのか? 誰だと訊いている」
じっと、藍色の双眸で自分を見上げる少女に、ファムスは苛立った様子を隠さずもう一度訊ねた。
「覚えてないの?」
にこりともせずに、ミューザは今度は答える。男はばかげて背が高く、その顔を見上げるには、ぐっと顎を持ち上げなくてはならなかった。
「残念ながら」
ファムスは投げ遣りな口調で言った。
「奇遇ね、あたしもよ」
「……」
無礼な相手に、自分だけ礼儀を持って接することはない。ミューザは遠慮なく不機嫌を男に向けることにして、挑戦的、あるいは好戦的な瞳でその顔を見上げた。
「あたし、ミューザ。よろしく」
「ファムスだ。別によろしくされる覚えもないが、用ならさっさと済ませてくれ」
「『ファムス』か。ずいぶん妙な名ね」
セルバンにその名を聞いた時から思っていた。『ファムス』なんて、人の名前につけるべき単語じゃない。
ミューザの正直な感想を聞いて、ファムスはふんといかにも嫌味っぽく鼻を鳴らした。
「おまえの名もずいぶんと俗っぽいと思うけどな」
瞬時に、ミューザは厳しい目でファムスを睨みつけた。
「人の名前にケチつけないでよ、気に入ってるんだから」
俗っぽい、と言われる理由がミューザ自身にもわからなくはない。おそらくこの国に、同じ名前の少女は何人もいることだろう。この国を作り上げたというセイマー神の娘が、名をミューゼルといい、一般に美を司る女神としてまつられていた。
だが、この名前をつけてくれたのがセルバンだったから、ミューザは自分の名が好きだった。
「おまえが先に人の名前をくさしたんだろ」
「そうだったっけ、ごめんなさい。あんまりあなたの態度が不躾なものだから、あたしも移っちゃったみたいだわ」
ミューザの舌鋒には容赦がない。エリスバートやメアリルの態度が腹に据えかねることはあったが、ファムスの物言いや眼差しは、それとまるで質の違うものに思えた。傲岸不遜、という言葉では追いつかない。エリスバートも領主の跡取りだったから、身分的にはミューザの方が劣っていたが、少なくとも彼は対等にミューザとやりあおうとしていた。
だが、ファムスは、最初からこちらの存在も何もかも見下しているような、嫌な感触があった。
(――違う)
見下している、というのならば、まだ腹も立たなかったかもしれないと、ミューザは思い直す。
ファムスはまるでこちらに興味がない。
人を見るのも、地に落ちている石ころを見るのも、同じことなのだ。おそらく、彼にとって。
俄然、ミューザはこのまま引き下がれない気分になった。
「ねえ、こんな玄関先で突っ立たせて、ご近所さんにお茶くらいご馳走して下さらないの、気が利かないな」
言いながら、ミューザはひょいと家の中を覗き込んだ。
瞬間、目の前に何かが降りてくる。
「おもしろいものなんて何もないぞ。噂を確かめに来たのなら無駄足ってもんだ。帰れ」
「別にあなたが黒魔導士だろうが何だろうが関係ないよ。暇だから遊びに来たの」
ファムスは怪訝な顔になって、ミューザの視界を塞いだ右手を外した。
「呆れた奴だな、初対面の人間に対して遊びに来たもないだろう。口実ならもっと上手く作れよ」
「べっつに。言ってるでしょ、あたしはあなたの素性になんて興味はないの。あったら他の人と同じように、あなたがドモスにやって来たその日に押し掛けてるわ」
ミューザの台詞を聞くと、ファムスは思い切り顔をしかめた。
「この町の人間は、全員が余所者の家を訪ねる風習でも持ってるのか? 引っ越してきた日からここ二週間、連日誰かしらが入れ代わり立ち変わりやってきて、その度に追い返すのに苦労した」
だからファムスの態度がうんざりしたものになっているのだろうと、ミューザは察した。それ以前に、そもそもがそういう性格なのかも知れないが。
「珍しいんだよ、余所の町の人が住み着いたのなんて十年振りなんだって。そうやって追い返すから、黒魔導士だのって噂が立つんだ。怪しい奴って言われてるわよ?」
「結構だね。それで、怪しんだ奴らがここを避けて通ってくれれば万々歳だ」
そう言って、ファムスはドアを閉めようとする。ミューザはすかさずドアの端を掴んだ。
「何をやっているんだ」
「これ、パイを焼いてきたの。お暇だったらお茶でもいかが?」
にっこり微笑むミューザを、ファムスが呆れた顔で見返す。
「おまえ、どうして今の会話の流れでそんな口がきけるんだ。いいか、おれはこの町の人間と馴れ合う気なんてないし、わけのわからない女と一緒にお茶なんてまっぴら御免だ。わかったらさっさと帰れ、仕事の邪魔だ」
「……」
言葉どおり、邪険な口調で言って、ご丁寧にファムスが犬猫でも追い払うような仕種を作る。
ミューザは瞬時に、心臓が妙な具合に締めつけられて、息が苦しくなった。
『ごめんミューザ、仕事が忙しいんだ』
手を振るファムスの姿が、セルバンのものに重なった。
「……何よ」
「ああ?」
「何よ、どいつもこいつもっ!」
「何だ、いきなり」
不審そうなファムスの声音、呆れた顔が、ミューザの神経を逆撫でする。
「どうしてあたしのこと邪魔にするのよ、あんたなんて嫌いだ! セルバンなんてもっと嫌い、大嫌い、馬鹿ッ!」
突然激昂しだした目の前の少女に、ファムスがぎょっと目を瞠り、思わずドアから手を離した。結果、ドアは思い切り外に開け放たれ、勢い余ってミューザはよろけてしまう。
「おいっ」
咄嗟にファムスが手を伸ばし、ミューザは地面に転がる醜態を避けられた。
が、ファムスに抱きかかえられるようになって、ミューザは反射的に勢いよくその手を叩いた。
「痛いじゃないか、助けてやったんだろうがこっちは!」
さすがに怒った風情でファムスが声を荒らげる。
「そもそもあんたがドアを離すのが悪いんでしょう!」
負けじと、ミューザも声を張り上げた。
(――馬鹿、違う、ミューザ)
ファムスは悪くない。それはわかってる。でも。
八つ当たりだ、とわかっていたのに、ミューザは自分でもそれが止められなかった。
ずっとずっと、辛かったのだ。
帰ってこないセルバン。声を聞くことも、顔を合わせることすらできない。たったふたりしかいない家族なのに――大切な人なのに。
拒まれることがどんなに辛いか、たったひとりだと思うことがどれほど悲しいか、それをなぜわかってくれないのだろう。
辛くて、悲しくて、そして怖い。
怖くて、怖くて、本当はいつでも泣き出しそうだった。
「……」
ミューザの言葉に、何か言い返してやろうと口を開いたファムスは、その瞳に涙が沸き上がってくるのに気づくと黙り込んだ。
堪えきれずにミューザは涙をこぼし、それをファムスに見られるのが口惜しくて、手の甲で頬を拭いながら顔を逸らした。
ファムスが困惑してミューザを見下ろす。
「おい、一体何だっていうんだ。いきなり泣くなよ、わけのわからない女だな……」
「何よそれ、もうちょっと気の利いた言い様があるでしょ」
バッと顔を上げて、ミューザはファムスのことを力一杯睨みつけた。が、相手が本気で困ってしまっている様子なのに気づく。
泣いている女の子を怒鳴れないファムスの様子に、急にミューザの肩から力が抜けた。
「……ごめん」
再び俯いたミューザに、ファムスの綺麗な眉が微かに寄る。
「ごめんなさい。まるっきりの八つ当りだ」
自分の身体を支えてくれていたファムスの手をそっと押さえて彼から離れ、ミューザは今度は先刻よりも心持ち目許を和らげ、落ち着いた瞳でファムスを見てから、小さく頭を下げた。
「ちょっと今、頭がごちゃごちゃになってたんだ。そうね、挨拶しに来たのに、どうしてケンカなんて売ってるのかしらあたし」
勝手に挨拶に来て、勝手に不機嫌になられては、ファムスだってたまらないだろう。
ミューザは急に自分のやっていることが恥ずかしくなった。
「当たっちゃって、悪かった。ごめんなさい」
まだ止まらない涙を拭い、恥じ入って苦笑するミューザの様子をしばらく無言で眺めてから、ファムスは口を閉ざしたまま踵を返した。
「あの――」
「入れ」
え、とミューザが問い返したとき、ファムスはすでに背中を向けて歩き出していた。
戸惑いつつも、ファムスがさっさと家の入ってしまったものだから、ミューザは成り行きのようにその後に続くことにした。
「……お邪魔します……」
もぞもぞと呟いて、ミューザはファムスの家へと足を踏み入れる。
ごく狭い入り口を抜けると、木でできた扉がある。ファムスがそれを開け放つと、薄暗い、狭い部屋が現れる。
見ると、部屋の窓には厚く暗い色のカーテンが掛かっている。部屋中央に据えられた食卓の上のランプは消されたままだ。
ミューザはファムスの後に続いて、その部屋へも足を踏み入れた。
何もない空間だった。あるものといえば、食卓に、二脚の椅子。それから食卓の上に何かの飲み物の入ったカップと、皿の上に齧りかけて放棄されたパン。からからに干涸びている。あとは火が消えたままのランプ。
窓は、カーテンのかかったひとつだけだった。入ってきたドアの向かい側にはもうひとつドアがあって、他の部屋と繋がっているらしい。壁の片側、少し壁が奥まったところに、調理場と水場が設置されている。
「……ずいぶんと殺風景な部屋ね」
ミューザはそんな感想を洩らした。木の板を打ちつけただけの簡素な壁に簡素な床。ミューザの家と同じような造りだが、雰囲気はそれよりもはるかに荒んでいる。まるで人が住んでいないような場所だ。見ると、床には足跡がつくほどうずたかく埃が積もっていた。
ミューザの家も、広さで言えばこのファムスの家と大差ない。セルバンがそれほど高級取りではなかったので、町のお偉いさん方のように立派な館に住むことはできなかった。それでも、ミューザやセルバンの心尽くしで、暖かい、明るい住まいになっていた。窓辺には花が飾られ、壁には絵が飾られ、床や家具はいつでもぴかぴかに磨かれて。
しかし、このファムスの家は。
「どうせ仮の宿だ、掃除する気も起きん」
ミューザの感想に対して短くそう言い置くと、ファムスは一度部屋を出て行った。
ミューザが所在なく壁の染みを眺めていると、すぐに手にカップをふたつ持ったファムスが戻ってきた。乱暴に食卓の上にそれを置く。
「このおれがわざわざ淹れてやったんだ。まさか要らないはずはないよな」
「……世の中には『どうぞ召し上がれ』っていう言葉があるんだけど、知ってた?」
ミューザが呆れて言うと、ファムスはふん、と力一杯鼻で嗤った。
「愚問だな。真意に反した行動を取った場合におけるせめてもの好意的な表現だ。ありがたがっておとなしく飲むのが礼儀ってやつだろう。ついでに言えば、椅子ってものは座るために存在するんだが、そこにあるのはおれの勘違いでなきゃ椅子だぞ」
ミューザはますます呆れ果て、今度は言葉もなかった。
どうしてこいつは、素直に『椅子にかけて下さい』という単純な言葉が口にできないのだろう。
言いたいことは山ほどあったが、面倒になって、ミューザは手にしていたパイ入りの籠をテーブルに乗せると、おとなしく椅子に座ることにした。
しかし数秒後には部屋の暗さに辟易して、つい口が出てしまう。
「カーテンくらい開けたら? 暗くて、陰気臭いじゃないの」
「ほんのちょっとだけ頭を使ってみろ。普通の人間は誰だって暗い場所を陰気臭いと思うんだ。思ってなお開けないということは、そこに何かしらの事情が存在しているってことだろ」
ファムスはにこりともせずにそんなことを淀みなく言ってのけ、ミューザはふてくされた顔で食卓に行儀悪く頬杖をついた。顔を斜めにしてファムスのことを睨めつける。
「そっちからケンカ売るっていうなら遠慮なく買うけど。あたし今、とっても好戦的な気分だから」
「心外だな。事実の認識を促しただけなのに」
ファムスは椅子の背もたれに寄り掛かり、カップを口許に運んだ。
「礼儀が建て前程度にでも存在してるなら、あたしだってそれ相応の態度は取らせていただくわよ」
ファムスに倣って、ミューザもカップに口をつける。ミューザがちょっと驚いて目を瞠るくらい、匂いのいいハーブティだった。
「怒ったり殊勝ぶったりまた怒ったり、忙しい奴だな」
ぼそりと呟くファムスの声が耳に届いて、ミューザは「あ」、と心中で呟いた。
(ひょっとして……)
もしかすると、とてもそうとは思えない態度ではあるが、自分を慰めてくれたり、していたのだろうか。
たしか自分は、つい先刻まで泣いていたはずだ。それが、そんな気分はいつのまにやら失せている。
それは、ファムスのおかげではあるのだろうが――
「もう少し上手なやり方はあると思うんだけどなあ」
ついそう洩らしたミューザを、ファムスはじろっと睨んだ。
「下らないことを言っている暇があるなら、さっさとカップの中身を空にしろ」
不思議なもので、一旦慰めてくれるとわかったら、ミューザのファムスに対する印象はがらりと引っ繰り返ってしまった。
何だ、照れてるんじゃないのとひっそり笑う。
そのミューザの表情が気に喰わなかったのか、ファムスは不機嫌に輪をかけた顔でごくごくとハーブティを飲み込んだ。
「ね、パイを食べない? 焼きたての方が美味しいよ」
ミューザがそう勧めると、ファムスがにべもなく首を横に振った。
「結構だ。ものを食べる予定がない」
「そう、じゃあ、置いておくから食べる予定になったら食べてね」
妙な言い回しだ、と思いつつ、ミューザは冷たい口調にもう頓着せず答えた。ファムスの喋り方は、こちらに悪意を向けているわけなく、ただただひとえに無礼な性格なのだろうとミューザは理解してきた。そこが問題だ、という気もするが。
「ファムスは、ここにひとりで住んでるの?」
「おれの他に誰か別の人間でも見えるのか?」
世間話のつもりで訊ねた言葉に、返ってくるのは相変わらず木を鼻で括ったような言い種だった。
「見えないから訊いたんでしょ。ね、さっき仕事って言ったよね。何の仕事をしてるの?」
「答える必要がない」
投げ遣りにファムスが答える。それが答えになっていればの話だが。
「おまえ、さっきおれの素性には興味がないと言ってなかったか?」
面倒そうに言ったファムスを、ミューザはにっこりと笑顔で見返した。
「そうだったっけ。あたし、生憎物覚えが悪いの。ねえ、カーテン開けられない事情って何?」
「訊いてどうするんだ」
「訊いてみないとわかんないわよ、そんなの」
ファムスが大仰に溜息をついた。
話しながら、本当は、ミューザにも不思議だった。
ファムスが質問を快く思っていないことは、はっきりと伝わっている。答えたくないことを訪ねられる面倒さは、エリスバートのことでミューザも知っていた。
なのに、ミューザは質問を止めることができない。
(変なの――あたし、こんな嫌なやつのこと、どうして知りたいだなんて思うんだろう)
それはまるで、物語の続きを欲する時の気分とよく似ていた。
吸い込まれるように思う。ファムスのことを知りたい。どんな人間なのか。どんな存在なのか。
(変なの……)
内心で首を傾げながら、ミューザはさらに言葉を続ける。
「さっき仮の宿って言ったわよね。またどこかに行っちゃうの? どのくらいドモスにいるの? 前はどこにいたの?」
「べらべらべらべらよくしゃべる女だな」
「探求心が豊かだと言ってくれる」
「成程物は言い様だな。探求心じゃなくて野次馬根性の間違いだろう」
嘲るようなファムスの言葉に、ミューザは軽く笑いを零した。ファムスが眉を顰めてそれを見返す。
「何だ、その笑いは」
「だってあなたが今、自分の仕向けた言い争いで煙に巻かれるほど間抜けな女の子を相手にしてるって勘違いしてるんだもの。可笑しくって」
「……そういう可愛げのない性格だから、『セルバン』に邪魔にされるんだ」
笑っていたミューザは、その表情を収め、ぴたりと口を閉ざした。
ファムスが勝ち誇ったように目を細める。
「友人だか恋人だかは知らないが、同情するよ、そいつには。こんなにうるさい女にまとわりつかれたら、誰だって鬱陶しく――」
ファムスが言葉を途切らせたのは、ミューザが顔を強ばらせてファムスを凝視したからではなく、彼女の手にしたカップの中身が勢いよく顔にかかったからだ。
「な――っ!」
立ち上がりかけたファムスが、再び言葉を失った。
「……謝りなさいよ」
ミューザは蒼白になっていた。薄暗い部屋でもはっきりわかるほど、顔色が悪くなっている。
震える唇で、ミューザは繰り返した。
「謝りなさい。少しでも良心があるなら」
顔色が青ざめているのに、怒りのせいで瞳だけ強い光を湛えている。
ファムスは一瞬、その目に魅入られるような視線を彼女に向けた後、忌々しそうに顔ごとミューザから背けた。
「悪かった」
不本意に他ならない、という表情で、ファムスがぼそりと言った。
ミューザはまだ顔を強張らせたまま、服のポケットからハンカチを取り出し、ファムスに差し出した。ファムスはそれを引ったくり、濡れた顔や髪を拭う。
「こういうものを寄越すくらいなら、人がせっかく淹れてやったお茶を無駄にするなよ、始めから」
憮然と言うファムスを見て、ミューザは深々と溜息をつきながら、手にしていた空のカップをテーブルに置き直した。
「あたしだって、挑発になんて乗りたくなかったわ。お互い、あたしがこんなに過剰反応するなんて想像しなかったところが、現状の元凶ね」
「……何だその、ひとごとのような口調は」
「恥ずかしいのを誤魔化してるのよ。こういう場合は見て見ぬふりをするものよ」
おごそかに言ったミューザに、ファムスはまた呆れた顔になった。
「おまえは頭がいいのか、ただの阿呆か、どっちなんだ」
「残念ながら頭がいいのよ。でも修行不足ね」
平然と、ミューザは答えた。
「あたしの口を閉じさせたかったら、次からは別の材料で怒らせるようにしてくれる。その方が効率がいいわよ」
わざわざファムスが、自分を怒らせようとしたのはミューザにもすぐわかった。慰めてくれていた人間が、一転してその弱みをつついたのだ。何らかの作為があると見て当然だ。
そうわかっていてもミューザが挑発に乗ってしまったのは、ファムスが口にしたのが本当に『弱点』だったからだ。
「……なるほどね。それで、頭はいいけど修行不足、か」
皮肉げに呟いたファムスも、それなりに頭の回転はいいらしい。ミューザはそう察する。
それから、ミューザは改めてファムスを見遣った。
「で、大変頭のよろしいあたしとしては、そこまでして口を割りたがらないファムスさんの事情ってやつが相当すごいものなんだってことに気づいて、さらに興味が募ってしまうわけなんだけど。そっちのドアの向こうの部屋が怪しいかしら、なんて考えてしまうな」
「さらに頭のいいおれとしては、小煩い女の口を塞ぐためにもっと弱点を突くこともできる、ってことを示唆してしまったりするわけだがどうだろう?」
即座に胡散臭いほど優しい笑顔になったファムスを、目を細めてミューザは見返す。
「ふうん。あなたってサドだったんだ」
「おれも未知の自分を発見できて、喜ばしい限りだよ」
投げ遣りに答えたファムスに、ミューザも負けず劣らぬ笑顔を作った。
「今度はお茶じゃすまないわよ?」
籠からそっとパイを取り出し、ミューザは笑顔でそれを掲げて見せる。ファムスが露骨に顔を顰めた。
「おまえは、よくよくいい性格だな」
「あら、お互い様でしょ」
答えて、ミューザは椅子から立ち上がった。
つかつかと奥の部屋に続くドアに歩み寄るミューザを見て、ファムスの顔色が変わる。
「よせ、馬鹿!!」
ミューザがドアノブに手をかけたようとした瞬間、ファムスは椅子から飛び降りてミューザに駆け寄った。
「きゃあッ!?」
ドアノブに触れた右手に、まるで静電気でも起きたような衝撃が奔り、ミューザはたまらず悲鳴をあげた。
「このっ、馬鹿!」
「馬鹿とは何よさっきから!」
右手を掴まれたミューザが反射的に怒鳴り返すと、ファムスが鼻白んだような顔になる。
「まったく、どうあっても口の減らない女だな」
腹立たし気に言い捨てると、ファムスはミューザをドアから手首を引っ張って遠ざけ、床に座らせた。正確に言えば、突き倒したのであるが。
「痛ったいなあ、もっと丁寧に扱いなさいよ、年頃の女の子なんだから!」
「うるさい、年頃の女ならもっとおしとやかにしていろ、この跳ねっ返りが!」
ミューザを上回る声で怒鳴り、ファムスは彼女の横に膝をついた。
「見せてみろ」
有無を言わさぬ重々しい口調に、ミューザはしぶしぶと掌をファムスに向けた。
ミューザの掌には、焼け焦げたような痕がくっきりと残ってしまっていた。ファムスが大きく舌打ちする。
「すぐに医者にいけ。痕が残る」
「……もう家に帰るからいいわよ、セルバンなら癒しが使えるもの」
そのセルバンが家にいないことが、自分の気持ちを荒らげているのだとは、もちろんミューザは口にしなかった。
「セルバン――ああ、そうか。聞き覚えがあると思ったらあの男か。人の好いのほほん面した、確か神学校で白魔術を教えているとかいう……引っ越してきた日に菓子折りを持って挨拶にきたな、そういえば」
「そういうとこ律儀なのよ、セルバンは」
なぜか胸を張って言うミューザに、ファムスは大きく溜息をついた。
「結界の張ってある場所を素手で触るなんて、命知らずな奴だな」
「……結界?」
眉をひそめて、ミューザが問い返す。
「結界なんて張ってるの?」
「触った時に気がつかなかったのか? おまえ、セルバンの妹かなんかだろう?」
「娘よ」
「聖なる力は……そういえば持っていないようだな。感じない。父親が人に教授するほどの力の持ち主なのに、どうして娘のおまえが一般人なんだ」
ファムスの問いに、ミューザは掌の傷のせいではなく、痛みをこらえるような顔になった。
「……血の繋がりはないのよ。義理の親だから」
「そうか」
ファムスもわざわざ、もう一度ミューザの傷を抉る気はないらしかった。それきりその問題についてはコメントしない。
――『聖なる力』は血のせいか環境のせいか、持ち主の子供に受け継がれることが多い。ミューザは顔も見たこともない祖父、セルバンの父親は、別の町で神官をしていたと聞いた。『祭司』ではなく『神官』なのだから、その力は相当なものになるだろう。
そしてセルバンの力も、おそらくこんな辺境で一介の教師に収まるには不自然なほどのレベルにあるとミューザは察している。
たとえ聖なる力を持つ親から生まれても、子供がそれをまるで引き継がないことはあった。両親のどちらかが唯人であればその確立は高い。
(でもあたしは)
だが、ミューザがセルバンやその父親の力を受け継がず、唯人として過ごしているのは、もっと明確な理由がある。
つまり彼女とセルバンは、血が繋がっていない。セルバンの年齢が、十五の歳の娘を持つ父親としては若すぎるのも、そのせいだ。
(血の上では、まるっきりの他人だから……)
しばらくの沈黙ののち、次に口を開いたのはミューザの方だった。
「結界って……でも、一般人に対して攻撃性を持つ結界なんて聞いたことがないわ。あたしが妖霊でもない限り――え?」
ミューザが眉根を寄せると同時に、ファムスが小さく舌打ちして立ち上がった。その寝巻きの裾を、ミューザがすかさず左手で掴む。
「黒魔導ね?」
ミューザが訊ねるが返事はない。それがファムスの答えだ。
ミューザは、ファムスの寝巻きに掴まったまま立ち上がった。よいしょ、と言いながら体勢を立て直す。
「こういうシチュエイションだと、余計なことを知ったばかりに、あたしってば殺されちゃうのかしら」
「……ずいぶん冷静じゃないか? 聖なる力も持ち得ない人間のくせに」
ファムスを見つめるミューザに対し、ファムスの方は彼女から眼を逸らしている。ミューザは怯えなど微塵も抱いていない様子で微笑んだ。
「殺す気のある人間は、多分結界を触りそうになった人間を止めようとはしないと思うのよね、一般的に」
「こういうことが一般的にあればの話だな」
「あたしには加護があるもの」
言い切るミューザを、ファムスは興味深そうな面持ちになって振り返った。
「立派な心がけだ。血で力を区別する『神さま』とやらに、おまえは信仰心を持っているのか?」
「ばかね、神さまなんてしょせん万能じゃないんだから、信じられるわけないでしょ」
不謹慎なことを、ミューザはきっぱりと言ってのける。町の司祭が聞いたら眉をひそめそうな台詞だ。
「じゃあ、何の加護だって?」
「セルバンのよ」
ミューザが微笑う。ファムスは微かに眼を瞠ったようだった。
「他人が何しようと構わないけど、取り敢えず周囲に迷惑はかけないことね。じゃ、あたし、暗くなる前に帰るから」
そう言って出口に向かうミューザを、ファムスが呼び止めた。
「追い出そうとはしないのか? 愛する故郷に住み着いた黒魔導士を。黒の魔導士ってやつは、古来から他人に迷惑をかけるのが生き甲斐になっているはずだが」
「かかってから考えるわ。さよなら」
ひらひらと、ミューザは怪我をしていない手を振りながら部屋を出た。今度は呼び止める声がない。
『黒魔導士』に背を向けたのに、不思議と不安は感じなかった。
(あたしは、大丈夫)
それは幼い頃から、ずっとミューザが手にしている感覚だ。何があっても、どんな事態が訪れても、自分が取り返しのつかないほどの目に遭うことはないと、確信している。
暗い森を進む途中、ミューザはふと足を止めて空を見上げた。鬱蒼と繁る木の葉の間から、すでに明るい月が覗いている。肌寒さに、少しだけミューザは身震いした。
(……でも、何だろう)
大丈夫だと、そう思うのに、微かに不快な感触がミューザの背中を撫でた。どこかで覚えのある感触。それは、昼間マナから黒魔導士の話を聞いた時と同じものだったが、ミューザには思い出せなかった。
ただ、つい最近覚えたはずのその感覚が、唐突により深いものになったような気がする。
(きっと、夜のせいだわ)
森の中は、月明かりがちらちらと落ちるばかりで、他に頼りになるような光はなかった。ファムスのところでランプを借りてくるべきだったかもしれない。そう思ったが、ミューザは引き返す気にはなれず、少し足早に獣道のような細い筋を歩き出した。
早く家に帰りたい。そう思った。