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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 B-PART]
10/18

第一章『春の町』

 心地よい風が吹いていた。春は辺り中にその暖かさを主張し、咲き誇る花のほのかな匂いが、よく晴れた日には感じられるようになっていた。

 今日もとてもいい天気だ。

 はるか頭上で鐘の音が響くと、広い部屋の中にいた大勢の少年、少女たちが、書物を閉じペンをしまい、座席から立ち上がる。

 ざわざわとにわかに騒がしくなる教室の中で、ミューザも座席から立ち上がると、すぐそばにある窓枠に手を掛け、身を乗り出して空を見上げた。

 授業を聞く間にも、窓からは暖かな柔らかい風が吹いてきていた。春はいつもそわそわと、ミューザを落ち着かない心地にさせる。

 ミューザは胸いっぱいに、いい香りの空気を吸い込み、吐き出しながら空を眺めた。

 ――歳の頃なら十五。藍色にほど近い黒い瞳が、空の陽の光を返して驚くくらい輝きに満ちていた。瞳の美しい少女だった。

 淡い草色の上着と、男の子のようなズボンを纏うまだ丸みの少ない体は、衣服のせいか、小柄な少年だと言ってしまえばしまえるものだ。彼女は女の子の割には背が高い。

 弾むような呼気が、ミューザの白い頬を薄く紅潮させた。栗色の柔らかな髪は、ばっさりと、思い切りよく切られて、剥き出しの首筋にも春の風が触れる。

「いい天気だな」

 声に出して、そう呟いた。眩しさに少し目を細める。今日は午前中で授業の終わる日。こんな陽の高いうちに、それもこんなお天気の日に学校が終わるのは、いつだって何となく嬉しい。

「ミューザ、何を見ているの?」

 背後から声をかけられ、ミューザは窓の外へ乗り出していた体をいったん中へ収めると、振り返った。

「いい天気だなあって。こんなことなら、外に布団を干してくればよかった、洗濯物も」

 ミューザの言葉に、友人がくすくすとおかしそうに笑った。小さくて可愛らしい友人の笑い声に、ミューザは軽く首を傾げる。

「どうかした、マナ?」

「だって、とっても眩しそうな、気持ちよさそうな様子で空を見ていたのに。お布団やお洗濯の心配をしてるんですもの」

 ミューザは軽く肩を竦める。

「今、試験前だから。家にいるのが、頼りにならなくて困ってるんだ」

 ミューザの口調は大人びている。誰のことを言っているのか、マナはすぐに察することができた。

 何しろミューザが彼のことを話す時は、いつだってそんな口調になるのだから。

「お父様は、またお籠もり?」

「そ。夜から机に齧り付いたまま、話しかけても生返事だし。ちゃんとごはんを食べてるかも怪しいよ、一応、学校に来る前に、食事は作っておいたんだけど」

 マナはさらにくすくすと笑い声を立てた。

「お洗濯とか、食事とか、ミューザったらまるで母様みたい」

 言ってしまってから、マナは「あ」と小さく呟くと、急いで片手を口許に当てた。

「……ごめんなさい」

 いいの、というふうに、ミューザは気の優しい友人に向けて首を振ってみせた。

 ミューザの家には母親がいない。父親とたったふたりの暮らしだ。それを知っていて迂闊に話題に出してしまったことを、マナは悔やんでいる。

「気にしないで、もうずっと昔からセルバンとふたりなんだ。慣れてるよ」

 さっぱりした口調でミューザが言う。マナは、尊敬を込めた視線で、自分よりもずっと丈高く、すっと背筋の伸びた友人の顔を見上げた。

「わたしも、ミューザのようになりたいわ」

「どうしたの、急に」

 真剣な眼差しで言ったマナに、ミューザがおかしそうに笑ってから、開いたままの窓を閉めた。

「いつもミューザのこと、わたし、尊敬しているのよ。おうちのことやお父様のお世話をきちんとやって、学校ではいつも首席だし、憧れなの」

「やだな、まじめな顔でそんなこと言わないでよ。照れるったら」

「ほんとうよ」

 両手を握り合わせ、まるで祈るように自分へと言いつのるマナに、ミューザは少し困った顔で笑うと「ありがとう」と小さく礼を言った。

 マナはとても愛らしい少女だ。ふんわりと波打つ金の髪は長く、腰の当たりまで届いている。肌の色は抜けるように白く、きめ細やかで美しい。小さな顔は、十人が見れば十人が『可愛い』と評することは間違いなかったし、言葉の端々や仕種のひとつひとつ、少女らしく優しいものだった。

 彼女に憧れる同性も、もちろん男の子も多いことをミューザは知っている。彼女のようになりたいと思ったことはないが、それでも彼女の可愛らしさはとても好ましく、何かと自分に懐いてくるのは、嬉しいことだった。

「マナ、そろそろ帰ろうか。お腹すいちゃった」

「ええ、そうね」

 こくりと、小さく頷いて、マナが荷物を取りに自分の席へと戻っていく。

 ミューザも、帰り支度のために荷物をまとめてしまおうと、再び自分の座席へ着いた。

 マナと入れ替わりに別の人間の気配がした時、ミューザは内心で大きく溜息をついたものだが、決してそれを表には出さなかった。

「ミューザ」

 いつものように不機嫌な語調で呼びかけてきた声に、ミューザは視線は向けずに返事をした。

「なぁに」

「いい加減教えろよ、きみ、来年の進学はどうするんだ」

 ミューザはとんとんと、机の上でノートの束をまとめながら、机の前に立つ少年のことを見上げる。

「それなら何度も答えてるだろ。きみには関係ないことだよ、エリスバート」

 少年は、女の子みたいにきれいな顔を、露骨に不快そうに顔を顰めミューザを見下ろした。

「フルネームで呼ぶな。あと、男みたいな言葉遣いもよせよ」

「それもきみには関わりないと思うけど?」

 わざとからかうような口調で言ってやって、ミューザは丁寧にノートを鞄に詰めると、立ち上がった。並ぶと、少年、エリスバートとミューザの背は、ほぼ同じ高さになる。

「関係あるさ。このぼくのライバルが男のできそこないのようじゃ、格好がつかないからな」

「呼び方が気に喰わないなら略してあげようか、エリス」

 にっこりと、ミューザは不穏な笑顔を浮かべてエリスバートの方に軽く身を寄せた。反射的に、エリスバートが身を引いてしまい、そんな自分に口惜しそうな顔になった。

「その名前でも呼ぶな」

「あれやこれやと注文の多いライバルさんだこと」

 どん、と少し乱暴な音を立てて、ミューザはノートや書物の詰まった鞄を机に置き直した。

「いい、よく聞きなさいエリスバート。きみがあたしをライバル視するのは勝手だ。周りに踊らされて愚かなことだとは思うけど、あたしには興味がないから関与しない。そう、興味がないの。だからあたしがこの学校を卒業してどこに行こうが、教える気は毛頭ない。二度と同じ質問をするな」

 エリスバートの鼻先に指をつきつけ、ミューザは決めつける口調でそう言った。

 だがエリスバートは今度は怯まず、きつい眼差しでミューザを見返した。

「興味がないのはきみの勝手だ。ぼくの事情はぼくのもので、そう、きみには関わりないからな」

 でも、とミューザを睨みながらエリスバートは言を継ぎ、

「この学校での三年間、ぼくは一度もきみにテストで勝てなかった。勝てないまま終わるなんて御免だ。そんなこと、このぼくのプライドにかけて絶対許せない」

「くだらない。訊くけど、じゃあエリスにとって学問って何? 自分の知識を高めること? それともあたしを負かして、煮え湯を飲ませようとするための道具?」

 ぐっと、言葉に詰まるエリスバートを、ミューザは冷たい視線で見遣った。

 さらに何か言ってやろうと口を開いた時、エリスバートの向こうから悲鳴のような声が聞こえて、ミューザはその気勢をそがれてしまった。

「バーティ! ミューザ、あんた、何バーティにケンカ売ってんのよ!」

 勢いよく駆け寄ってきて、エリスバートの腕を引っ張ったのは、気の強そうな美人のクラスメイトだった。

「あたしは買ったの、売ってきたのはエリスの方」

 ばかばかしい、と内心白けた気分で、それでもミューザは彼女に答えた。

「嘘おっしゃい。バーティがそんなくだらないことするわけないでしょう、いつもいつもバーティにちょっかいかけて、まさかミューザ、バーティに気があるわけじゃないでしょうね」

 悋気も顕わに、彼女が見せつけるようにエリスバートの腕に自分の両腕を絡め、ぎゅっと身を押しつける。エリスバートが少し困ったような顔になった。

「メアリル、大きい声を出すなよ」

「この際だから言っておくけどね、ミューザ。あんた、気安くバーティに話しかけないでちょうだい。たかだか神学校の教師風情の親を持つあんたと違って、バーティは領主さまのご子息よ。単にクラスが同じってだけで、本当なら対等な口なんて聞けないような立場なんだから!」

「メアリル、そういうことは――」

「そうね、悪かったわ!」

 勢い込むメアリルの言葉を遮ろうと声を上げたエリスバートの声を、さらに遮る大きな声でミューザは言った。

 少し驚いた顔になるメアリルに、ミューザは先刻エリスバートへ向けたのと同種の笑顔で、にっこりと笑う。

「領主のご子息と、議員のご息女であるきみたちに関わる気なんて本当に、さらさら、これっぽっちもないの。誤解させたんなら悪かった。これ以上不快な目に合わないよう、今後はあたしの視界に入らないように気をつけてもらえるとありがたいわ」

 言うだけ言うと、荷物を持ち、ミューザはさっさと自分の席――エリスバートとメアリルのいる場所から離れた。

「マナ、帰ろう」

 教室のドアのところから、まだ帰り支度をしているマナに呼びかける。はらはらと、遠巻きに三人の様子を窺っていたせいで支度の手を止めていたマナは、慌ててノートなどを自分の鞄へ詰め込んだ。

「ミューザ、ぼくは」

「バーティったら、もうっ、あんな人に構わないでよ!」

 ドアのところでマナを待つミューザへ、エリスバートが近寄ろうとすると、メアリルの強い力がその腕を掴んで阻む。

「ミューザなんて、自分の父親が教師なのをいいことに、きっと試験の問題のことも教えてもらってるのよ。そうじゃなくっちゃ、バーティより成績がいいなんてことありえないわ。バーティは小さい頃からずっと首席だったのに――」

「メアリル!」

 メアリルの言葉に、いち早く反応したのは、帰り支度を終えてミューザの方へ駆け寄ろうとしかけたマナだった。

 マナはそのまま行き先を変え、メアリルの前まで怒った足取りで近づく。

「な……なによ」

 普段は大人しく、ちょっと強いことを言えば泣いてしまいそうなマナが、思いのほか強気な顔つきで近づいてきたのに、メアリルの腰が退ける。

「失礼なことを言わないで、ミューザは自分の力で勉強して首席を勝ち取っているし、それに、セルバン先生はそんな卑怯なことをなさる方じゃないわ」

「そんなこと、わからないじゃない」

 メアリルの方は、相手に強く出られればますます依怙地になるタイプで、怯んでしまったのも口惜しかったのか、さらに険のある目つきになって小柄なマナを上から見下ろした。

「誰だって、自分の娘なら可愛いものでしょう。知り合いの教師から、試験の内容を聞き出したりなんて」

「生憎ね。セルバンはこないだっから、自分の学校の試験のことで手一杯で、あたしが試験を受けるってことすら知らないんだ」

 ドアにもたれながらミューザは冷たい口調で言い、すぐにマナへと視線を移した。

「お腹空いたな、マナ。帰りがけに美味しいパンでも食べていこうか」

「ええ」

 こくりと、小さく頷いて、マナはミューザのそばへと駆け寄った。

「何よ、逃げる気?」

 いきり立つメアリルを無視して、廊下へと出かけてから、ミューザはふと思いついたように振り返るとエリスバートの方を見遣った。

「そんなに気になるなら教えてあげる、その代わり、今後二度と同じ質問をあたしにしないでね」

 エリスバートがミューザを見返し、頷いた。

 ふっと、ミューザは彼に向けて優しい笑顔を浮かべる。

「卒業したらあたし、テイメントに行くのよ。よかったらご一緒にいらっしゃる? 春の花に遊ぶ小鳥(エリスバート)さん」

「……っ! ミューザ!!」

 怒ったエリスバートの声に高らかな笑い声を返し、ミューザはマナの手を引いて廊下へ出た。

「やだ、ミューザったら」

 横でマナも、おかしそうに笑いを堪えている。テイメントは、このサンファールの国の首都、バーンズにある、厳格な教育と、家柄審査で有名な花嫁修業の学校だ。もちろん、女学院である。

「ミューザが、テイメント女学院……」

「冗談に決まってるでしょ。柄じゃないよ」

 笑いながらも、感慨深げな声で呟いた友人に、ミューザは苦笑する。マナが少し首を傾げた。

「そうかしら、わたし、きっとミューザは、とても素敵なお嫁さんになると思うのよ」

「何言ってんの、それならマナの方こそだよ。家柄も申し分ないし」

 マナは長く続く商家の生まれで、その功績からもうじき貴族の称号ともらえるだろうと噂もある。成り上がり、と陰口をたたく者もあるだろうが、マナの両親やその両親も立派な人物であることは、彼らを目の当たりにしてミューザも知っている。

「そういえば、メアリルは、本当にテイメントに行くって聞いたわ」

 マナの言葉に、ミューザは肩を竦める。

「で、エリスのお嫁さんにでもなるつもりかな」

 メアリルがやたらミューザにつっかかってくる理由を、もちろんミューザは知っている。エリスバートが自分にやたらつっかかってくるからだ。ミューザにとっては迷惑なことこの上ない。

「別にいらないのになあ。首席の座なんて」

 誰にともなく、ミューザは呟く。こんなことをエリスバートやメアリルに聞かれれば、またもう一悶着あることだろう。

(学問って何、か――)

 ミューザは先刻、エリスバートに向けた自分の言葉を思い出した。

 それから微かに、苦笑する。

(よくも言えたもんだな。あたしが)

「……ミューザ?」

 黙り込むミューザに、不安そうなマナの声が届いた。見下ろすと、声音通りの表情がそこにある。

「ああ、ごめん。何でもないんだ」

「悲しそうな顔をしてるわ」

 自分まで悲しそうな表情になりながらみつめ返してくる友人に、ミューザは明るく、笑って見せた。

「お腹が空きすぎて辛いんだよ、ほら、急ごう」

「……うん!」

 それ以上は何も問わず、花の咲くような笑顔で頷く友人のことを、ミューザは心から大切だと思った。

 本当は、この学校に通うことが自分にとって何の意味もなく、勉強にもそれを見いだせはしなかったが、マナがいるかぎり少なくともこの場にいる理由になると、ミューザは改めて思った。

 

     ◇◇◇

     

 マナとの軽い食事を終えたミューザは、彼女と別れ、土産の焼きたてパンを抱えて自分の家へと戻った。

 学校から家までは、歩いて結構な距離がある。うららかな春の陽射しをいっぱいに浴びながら、ミューザはゆっくりした歩調でその道を進んだ。

 ここはバーンズ国の南端、ドモスの町。

 町、とは言っても村に近いもので、市場が出ることもないような辺境のさらに辺境、自慢できるのは地平線さえ見える、人工物のまるでない自然くらいだ。

 しかしミューザはその自然が気に入っていた。続く草原、季節ごとの花々、幾つもの森、澄んだ湖。どれを取っても美しく、きっとまだ見たことのないお隣の国、常春と呼ばれるパラスだって、こんなに素晴らしい景色を持ってはいないのではと思う。

 ミューザはものごころついた時から、このドモスの町に住んでいた。ここ以外の町を知らない。首都バーンズはドモスから遠く離れ、ときおり商いで出かけるマナの父親から、その様子を聞いたことがあるくらい。

 同じ学校の友達の中には、首都に出て華やかな暮らしがしたと夢見る者も多かったが、ミューザは別段それを望んではいなかった。

(学校を出た後、ね――)

 ぶらぶらと道を歩きながら、ミューザは思い返した。

 エリスバートがしつこくミューザに卒業後の進路を訊ねるのは、その卒業がもう間近へ迫っているからだ。

 町の子供たちは、よほど貧しい暮らしぶりをしているわけでなければ、七つか八つになるとひとまず下級の学校に入る。そこで基礎の学問を教わって、必要ならばさらに上の学校へ入る。それが今ミューザの通う学校だ。大抵は、一度学校に入ればここまでは自然と進学する慣わしになっている。

 そこからさらに上の学校に進むとなると、それなりに優秀な成績が必要となる。

 上級学校はドモスにもあったが、さほど教わることは多くない。進学するほどに優秀な生徒は、バーンズとまでは行かなくとも、もっと都会の、レベルが高い学校で学ぶようになることがほとんどだ。そこまでして学校に通う必要はない、と本人や周囲が認識した場合には、学校へは行かず、そのまま親の職業を継いだり、別の仕事に就いてその下働きから始める。学校に行くよりも、将来の職業のために修行を始める方が効率がいいからだ。

 女の子の場合は、ほとんどが嫁ぎ先をみつけ、家を出て行く。あるいは、ミューザが冗談で口にしたように、花嫁修業の学校に行くか。田舎町に住む少女にとっては、都会の花嫁修業学校で学び、舞踏会などで貴族の『素敵なご子息』――もしくは『素敵な貴族』のご子息――を射止めることが、最大のステイタスだ。

 ミューザは、そのどれにも魅力を感じることができなかった。

 上の学校に行くことも、仕事を探すことも、もちろん家を出て誰かと結婚するなんてことも。すべてに気が進まない。

(嫌な時期になっちゃったな)

 ただ、そう思う。

(神学校だったら、まだこんなこと悩まなくて済んだのに)

 詮ないこととはわかっていても、ミューザは最近、何度も何度もそう考えずにはいられない。

 学校には二種類ある。ミューザが通うような一般教養学校の他に、『聖なる力』を持った人間が聖職に就くために学ぶ、神学校だ。領主や事業主が作る学校と違い、神学校はすべて、サンファールの国の管轄下にある。神学校で学び、聖職者たる資格を得た者は、やはり国の下にある各領地の教会で働いたり、優秀な者は首都や主要都市にある神殿で神に仕えることになる。

 そして聖職者としての資格を得るためには、長い修学と修行が必要となり、たとえば自分の年で身の振り方を考えなければいけない必要なんて、ありえないはずだとミューザは思っている。

(無理な話だけどさ……)

「おや、ミューザ、今帰りかい?」

 重い溜息をつきながら歩いていたミューザは、不意に声をかけられて道の向こうを見遣った。ちょうど、買い物袋を抱えた顔見知りのおばさんが歩いてくるところだった。

「こんにちは、ルカおばさん。さっき学校が終わって、マナと食事をしてきたんだ」

「そうか、ああ、ほら、果物が安かったんだ。たくさん買いすぎてうちじゃ食べきれないから、持っていってセルバンとお食べ」

「ありがと、あ、じゃあうちのパンも」

 ルカおばさんからいい香りのする果物を受け取る代わりに、ミューザが先刻買ったばかりのパンを分けようとすると、すぐにその手を止められた。

「いいって、気を遣うんじゃないよ。あんたんとこはあのぼんやりの先生と一緒で大変だろう」

 心底心配している風情のルカに、ミューザは何とも言えずに苦笑いした。

「大丈夫だよ、セルバンだってちゃんと働いて、あたしとふたりちゃんと暮らしてけるくらいには稼いでるんだから」

「だってあんたたちまだそんな小さくて、それにセルバンはぼうっとしてるし、心配なんだよ。ほらほら遠慮しないで持っていきな、これも」

 ルカの勢いには勝てず、ミューザは気づくと両手いっぱいに果物やら、野菜やらを持たされてしまった。

 まあいっか、とミューザはすぐに反論を諦めた。

 ルカも、それからよく道や店で擦れ違う人たちも、何かとミューザの家を気に懸けて、力を貸そうとしてくれる。いい人たちばかりなのだ、この町は。

「あんたも母様がいなくて大変だろうけど、頑張ってやってくんだよ。困ったことがあったらいつでも頼っておいで」

「うん、ありがと」

 ミューザが素直に頷くと、ルカは嬉しそうににこにこと笑った。それから、ふと思い出したように口を開く。

「そういやミューザは、学校を卒業したあとどうするんだい?」

 あまりにタイミングのいいルカの質問に、ミューザは少しぎくりとした。何かに見透かされたようだと思った。

「まだ、決めてないんだ」

「そうか。ほら、うちの息子が今年、上の学校に進むってんでミルデンに行っただろ。なのにあのバカ、三月もしないのにもう帰って来やがった」

「え、ラル兄さん、帰って来ちゃったの?」

 ミューザの問いに、ルカは大仰な溜息で答えた。

「もともと大したデキでもないのに、どうしてもっていうから無理して上の学校にやったってのに。これだったら、最初からうちの店を継がしておけばよかったよ、まったく……」

 ルカにはひとり息子がいるが、どうしても上の学校に進みたいというので、両親の反対を押し切って少し遠い町へ去っていったはずだった。だが、おそらく想像以上に厳しい学校や寄宿舎の生活に、嫌気が差したがついていけないと悟ったか、戻ってきてしまったらしい。

「仕方ないね、ミルデンの学校は、とりわけ厳しいって先生に聞いたことあるし」

「こうなったら後はもう、跡継ぎとして容赦なく鍛えるまでだよ。それでさ、ミューザ」

 ルカは、まじめな顔でミューザのことを見遣った。

「あんた、うちのラルんとこに来る気はないかい?」

「来る……、って?」

 咄嗟にはルカの言っている意味がわからず、ミューザは首を傾げてしまった。

「やだね、来るって言ったら、嫁にってことに決まってるじゃないか」

 そして至極当然のようなルカの言葉を聞くと、思わず、ぎょっとした顔で軽く後退さってしまう。

「だ、だってあたし、まだ十五だよ?」

「何言ってんだ、あたしが旦那んとこに来たのは十四の時だよ。まあ今は昔よりもう少し嫁ぐ年が遅くなってるっていうけど、十五となれば立派なもんだ。何、今すぐ来いとは言わないよ、来年、学校を卒業して行くところがなければでいいんだ」

「え、ええと」

 普段、たとえばエリスバートやメアリルに詰め寄られてさえあまり狼狽するということのないミューザだったが、さすがにこんな話題を持ち出されては、動揺しないわけにもいかない。

「でも、あたし、まだそういうの全然……」

「考えてくれるだけでいいんだよ。あの子がだらしないから親のあたしが言っちまうけどさ。ラルは、ずっと小さい時分からあんたのこと、憎からず思ってた節があってさ。あんた最近どんどん美人になるし、ミルデンの学校から戻ってきたのも、ミューザ、あんたのことが気になってたってのも多少はあるみたいなんだよ」

「……」

 困惑しきって、ミューザは相槌も打てなかった。自分の知らないところで、そんなご大層な話になっているなんて、欠片も思っていなかったのだ。

「あんた学校卒業したら、きっとあちこちの家から声がかかるよ。賢いし、父様の面倒をよく見てるから家のことは任せて問題ないだろうし、働き者で元気で明るくて、おまけに器量よしと来たら放っておかれるわけがない」

「でもあたし、器量よしったってナリはこんなだし、そんなこと、ないと思うんだけどなあ」

 ミューザはズボンの端を摘んで、自分の体を見下ろした。

 今の学校に通う頃になってからずっと、ミューザはスカートを穿かず、誰に何を言われようと男の子のような服で過ごしてきた。小さい頃は長かった髪も、今はばっさりと切って伸ばそうと思ったこともないし、うるさいエリスバートたちに対抗する時は、言葉遣いまでつい乱暴になってしまう。

 おまけに体は細っこいのに背は高く、年頃の娘ならでっぱったり括れたりするべきはずの部分がまるで平らだから、後ろ姿や遠目に男の子と間違われることだってしょっちゅうだ。

「それだったらマナや、それにメアリルの方が、よっぽどひくてあまたになると思うんだけど」

 マナはきちんとした家のお嬢様だから、家事全般人並み以上に教え込まれているし、メアリルは性格はともかく美人だし、マナとは別の意味でお嬢様だから家事技術には不安が残るが、家柄は申し分ないい。ふたりとも、自分よりもよほど、嫁取りの候補になるべき人材のように感じられた。

 そう呟くミューザに、何言ってんだ、とルカがからから笑う。

「あんたは今に、この町一番の美人になるよ。いや、サンファール一かもしれない」

「またそんな、大袈裟な」

「大袈裟なもんかい。あんたみたいに利口そうな瞳は見たことないし、しゃんとして立ってる姿は凛々しいし、まあたしかに真っ平らなのは痛いけどそれももうちょっと経てばあちこち出っ張ってくるだろうし、髪を伸ばして化粧のひとつもすれば、本当に綺麗な女になるよ」

「そ……そうかな」

 あまりの褒めように、ミューザは照れるというよりただただ恥ずかしくなって、柄にもなく赤くなってしまう。

「そうしたら町中の男が放っておかない。いや、隣町とか、もっと遠くからだってあんたを嫁にって人が来るかもしれない。だけど最初に声かけたのはうちだって、忘れないどくれよ」

 ルカはそう念押しして、ミューザは仕方なく、小さく頷きを返した。ミューザにはとても本気に取れる話じゃなかったが、少なくともルカはまじめだったし、笑い飛ばしてしまうのは失礼な気がしたのだ。

 その様子を見て、ほっとしたようにルカが息を吐く。

「それじゃ、あたしはそろそろ帰るよ。あのバカ息子がお腹を空かして待ってるだろうし。ミューザも早く帰って、父様に美味しいごはんを作っておやり」

「うん。本当にこれ、ありがとう」

 改めて譲ってもらった果物や野菜の礼を言って、ミューザは家に向け歩き出そうとした。

「あ、ミューザ」

 ルカも少し先を行きかけてから、もうひとつ思い出した様子で、ミューザを呼び止めた。

「うん?」

「あんた、隣に越してきた男の人と会ったことがあるかい?」

「隣?」

 ミューザは首を傾げて、少し考えてから「ああ」と相槌を打った。

「二週間かそのくらい前にあのボロ屋に来たっていう人か。ううん、会ったことないよ」

 答えるミューザを見るルカの表情は、あまり楽しい話題を口にする時のものではなく、ミューザはもう一度首を傾げる。

「その人がどうかした?」

「いや。あたしや他の人たちも、最初に引っ越しのお祝いを持っていった時以来、外でその人に会ったことがないんだ」

「へえ」

 ドモスの町は、狭い。おまけに大陸の一番端に突き出すようにしてある土地だから、よほどの用事がなければほかの町に」行くことも普通はない。

 そしてドモスで暮らして行くからには、町にたったひとつしかない商店街へ赴くことになるわけだが――その商店街に店を構えるルカも、おそらくその店の人間たちも、最近越してきたという男の姿を見たことがないという話になる。

 それはとても、不自然なことのように、ミューザにも感じられた。

「変な話だね」

「だろう。まあ、やまほどの保存食があるとか、ひとりで家畜を飼ってるとかいうなら、ありえない話じゃないけどさ。けど何だか気味が悪いだろう、あたしがお祝いの食事を持ってそいつの家に行った時、家の中にいるってのに顔までマントで隠して、しかも全身黒ずくめなんだ。髪も瞳も黒かったし、何だか気味が悪いじゃないか」

「黒ずくめ……ずいぶん、悪趣味だな」

「ラルは、ひょっとしたら魔導遣いじゃないかなんて言い出して」

「魔導遣い?」

 問い返すミューザの声は、少し辺りを憚るようなものになった。日常で口にするには、あまり縁起のいい言葉じゃない。

「そしたらラル以外の、他の人たちもおんなじようなことを言い出すじゃないか。あたしも最初は悪い冗談だと思ってたけど、何だかねえ、町には出てこないくせに夜になれば町の端をうろうろしてるだの、擦れ違った時そいつの手が赤く濡れてただの、気味の悪い話ばかりで」

 黒魔導士なら、動物や人間の生き血を遣って呪術を行う。ルカの話が本当なら、そんな噂が立っても無理はない。

「物騒な話だなあ……」

 あくまで噂は噂と思いつつ、話を聞いてしまえばミューザもぞっとしない。黒魔導士だろうが何だろうが、夜中に外を徘徊するような人間とは、あまりお近づきになりたくはないものだ。

「まあ、ともかく、あんたんちが一番そこに近いからさ。気にしておきな」

「わかった、ありがとう」

 ルカに礼を言って、ミューザは今度こそ彼女と別れて歩き始めた。

 歩きながら、少し首を巡らせて、当たりを見渡す。

 真っ直ぐの道の向こうに、もうミューザと父親の住む小さな家が見える。周囲は花の揺れる野原が囲み、遠くを見れば深い森がある。その向こうはもう海だ。ミューザの家は、大陸の南にあるドモスのさらに南端に近くある。

 その隣――というのは、ミューザの家からもっと南に入ったところ、深い森の中にある家のことだろう。もう何年も人が住んでおらず、ずっと昔に探険と称してマナとその家を訪れた時は、あまりの不気味さに二度と足を踏み入れまい、と思ったほど。鬱蒼と繁る森に暗い影を落とされ、太陽の光も入らないようなありさまで、まさか好んでそんな家に住む人があろうとは、ミューザも、町の誰も思っていなかった。

(きっと変なやつが住んでるんだ)

 失礼なことを考えながら、ミューザは自分の家へと辿り着き、その玄関のドアを開けた。

「ただいま、セルバン、いるの?」

 予測どおり、ドアには錠が下ろされていなかった。そしてこれも予測どおり、帰宅の挨拶をしても、ミューザに返ってくる声はない。

 大荷物を抱えて、ミューザは玄関を過ぎて短く狭い廊下を進むと、突き当たりにある部屋に入った。ドアは開け放たれている。

「ただいま」

 呼びかけても、やはり返事はない。

 三つあるこの家の部屋の、ここは一番広い居間だ。残りのふたつは、それぞれミューザと父親の寝室。ミューザはいつも帰ってくると、まっさきにこの居間を覗く。父親がいる場合、大抵ここで何かしらの仕事をしているからだ。

 居間には、端の方に小さめの調理場と、小さな庭から汲み上げた井戸水を流すようになっている水場がある。天井から吊してある巻き上げのカーテンが、水場と居間とを区切っていた。居間の壁ぎわには小さなタンスがいくつか並んでいて、細々とした日常品がきちんと整頓されて入っている。部屋の中央に丸い食卓。

 その食卓に顔を伏せ、せかせかと羽根つきのペンを忙しく動かし、紙の山を作っているのがセルバン。

 ミューザの父親だ。

「セルバン、食事買ってきたよ」

 ミューザは三度目の呼びかけを口にした。

 やはり、返事はない。

 ミューザは食卓のそばまで近づくと、空いている椅子の上に、どっさりパンや果物の入った袋を降ろした。多少乱暴に扱ったのだが、向かい側に座っている男が反応する様子はなかった。

(まったく……)

 呆れ顔で、ミューザはその相手を見遣る。

 いかにもな優男。横から姿を眺めると薄っぺらい体。筋力とか、そういったものとは縁遠そうだ。丸い、小さなレンズの眼鏡を掛けた顔は、限りなくと形容詞がつくほど柔和だった。柔弱と表現したっていい。

 当年取って三十三歳、そろそろ中年と言って差し支えない年齢に足を突っ込みかけてはいるが、イメージとしては『青年』だ。先刻のルカや、セルバンを知る町の人間から、いつまで経っても「頼りない青年」のイメージを払拭できないままもう十数年。

 ミューザの髪からさらに色を抜いたような、薄い茶の長い髪を大雑把に布で束ね、よれよれの白い寝間着を着込み、必死になって紙の山に向かっている姿は、本人が真剣な分だけ笑いを誘う光景ではあった。

「セルバン、ただいま!」

 ミューザは先刻よりもいささか大きな声になって、何度目かの呼びかけを試みた。が、なおも、セルバンは紙から顔を上げない。ミューザは軽く目を細めた。

「セルバン、家に帰ってきたらまず挨拶しなさいってあたしをしつけた人は誰!」

「え……ああ、うん、そうだってね」

「……」

 生返事をしているセルバンを、ミューザは不機嫌な表情で覗き込んだ。机に両手をついて、ぐっと身を乗り出すように相手の顔を覗き込んでも、まるで気がつく様子がない。

「質問してるの、あたし」

 言いながら、ミューザは片手でセルバンの掛けていた眼鏡を取り上げた。

「わ、なっ、何だ?」

 唐突に視界のほとんどを失い、セルバンがぎょっとしたように、ようやく紙から顔を上げた。

 ミューザはセルバンの手が届かないよう、眼鏡を持った腕を背中に隠し、にこやかにセルバンの顔を見下ろす。

「ただいま、セルバン。学校終わったよ」

「あ……ああ、おかえり、ミューザ。ええと、眼鏡を返してくれるかな」

 セルバンが慌ててミューザから眼鏡を取り返そうと、椅子を蹴倒しながら立ち上がった。

 ミューザは、さらに眼鏡を持った手を遠ざけ、にっこりと、笑顔で彼を見上げた。立ち上がったセルバンは、身の丈だけは立派なもので、少女としては背の高いミューザと頭ひとつ分は優に差があった。

「さっき、ラルのおばさんに会ったよ。果物と野菜をもらったんだ、会ったらちゃんとお礼、言ってね」

「うん、そうするよ。ミューザ、眼鏡を」

「どうせご飯食べてないんでしょ、今支度するから、机の上を片づけて」

 ミューザはセルバンに近づけていた体を離して、空いている手で買い物の袋を探った。

「あのう、ミューザ、僕はとても目が悪いから、眼鏡がないと何も……」

「しなくていいの、何も。あたしがご飯を作って運ぶまで、その紙の山をまとめて机の端に寄せる。ペンとインクは汚れないように隣の棚に置く。それからちゃんと座って待ってるの。それくらいなら、眼鏡がなくてもできるでしょ」

 相変わらず眼鏡を背中に隠したまま、ミューザは片手で器用に袋の中身を出していく。

「ねえ、食べ終わったら、少し外を散歩しない? 帰ってくる時、東の丘に綺麗な花が咲いてるのを見たの」

 溜息をつきつつ座り直したセルバンに、ミューザは笑って呼びかけた。

 途端、がっくりと、セルバンの肩が落ちる。

「あのねえ、ミューザ。僕の今の状況はわかってるね?」

「知らない。何が?」

 取り出した食材を、眼鏡を持ったまま調理場に運び、ミューザはにべもなく答えた。

「何がって、だからその、僕の職業は知ってるだろ?」

「神学校の先生でしょ?」

「で、僕が今やっていることは?」

「試験の問題造り」

「〆切りは?」

「今日の午後」

「今の時刻は?」

「午後一時半」

「……」

 セルバンは、さらににがっくりうなだれた。

「咲いてたのは夏の花なんだよ。今年は早いよね、異常気象なんじゃない?」

 眼鏡を近くの棚に置き、ミューザは仕切りの布越しに、軽くセルバンを振り返る。セルバンは諦めた様子で、大人しく紙の束をまとめ始めていた。よしよし、とミューザはひとり満足げに頷き。

(まったくこうでもしなくちゃ、ご飯だってまともに食べないんだから)

 調理場には、オーブンで温めてすぐに食べられるようにしておいた朝食が、そのまま手つかずで残っている。ゆうべもこんな調子だった。一度仕事に没頭してしまうと、後のことは何も手につかない、不器用な性格。

 ルカや町の人たちが心配するのだって、無理からぬ話なのだ。

「これで神学校の先生なんて、まともにできてるのかなあ……」

 セルバンには聞こえないように、ひっそりとミューザは呟く。

 セルバンは聖職者だ。『聖なる力』を持ち、その力を使う資格を国から得ているらしい。

 強い力を持ち、それが国に認められれば、神殿に属するか、名だたる神学校の教え手として教鞭を執ることができる。だが、セルバンが属しているのはこの田舎町の小さな神学校だ。しかもセルバンは、直接生徒に白魔法について教えているわけではない。理論や一般教養の授業をするだけで、だから他の生徒や教師から、たまに『本当に聖なる力をもっているのか?』と不審に思われるようなありさま。

 セルバンとミューザがこの町にやってきたのは、ミューザが生まれて間もなくだという。伝え聞きのような言い方になってしまうのは、ミューザがあまりに小さくてその頃を覚えておらず、セルバンや町の人の話でしか知らないからだ。

 ドモスにやってきて数年は、セルバンは町にある店で下働きをしたり、薬草を摘んでは売るような仕事で生計を立てていたという。もちろん楽な暮らしではなく、町の人たちの好意でようやくかつかつの生活ができるような状態だった。

 ――セルバンが神学校の教師に収まったのは、今から二年前。

 ミューザが新しい学校に入る、その年だ。

(あたしのためだ)

 それをミューザもわかっていた。

 セルバンはどうしてか、聖職に就くことを拒んでいるようなふしがあった。

 聖職者たる資格を持っていても、国の施設に申請しなければ、仕事が与えられない。無断で聖職者としての仕事――白魔法を使った怪我や病の治癒、祭祀の扱いなど――を行えば罪になるが、何もしない分には咎められることはなかった。国からの仕事を請ければそれなりの糧がもらえるから、資格を持っている人間は何らかの聖職に就くのがあたりまえだったが、セルバンはそうしなかった。

 その理由をミューザは知らない。セルバンは話したがらなかったから、無理に聞き出すこともしなかった。いつか必要な時がくれば教えてくれるだろうと思っている。

『極力聖職に就きたくない』という気持ちを曲げてすら神学校の教師に収まったのが、自分を上の学校にやるための資金作りが目的だと、もちろんミューザは気づいている。セルバン自身は、学校でどうしても人出が足りずに困っているから仕方なくと話していて、それも事実ではあったが、何よりの理由は自分のためだと知っている。

 だから本当は、セルバンが学校の仕事をしているのであれば、自分がそれを邪魔してはいけないとわかっていた。

 だがどうしても、耐えられない。

 セルバンが仕事に没頭して、睡眠や食事を削っていること。

 それから、自分に視線すら向けないことに。

「セルバン、そっち、片付いた?」

 朝食をそのままオーブンに放り込み、ルカがくれた果物と野菜で手際よくサラダを作りながら、ミューザはまたセルバンの方を振り返った。

 だが、返事がなくて眉を顰める。また懲りもせず仕事を始めてしまったんだろうか、そう思いながら不機嫌に台所と今を遮るカーテンから体を出すと、セルバンは机に突っ伏すようにして寝息を立てていた。

「……もう……」

 軽く、ミューザは溜息をつく。だから言わんこっちゃない。

 連日のほぼ徹夜に疲れ果て、無理をした挙句、倒れるように眠りに就いてしまったのだ。

「セルバン、寝るなら寝台に行きなよ。暖かいからって、こんなとこじゃ風邪ひくよ」

 近づき、軽くその肩に手を置いて揺さぶってはみるが、セルバンは反応しない。ミューザは諦めて、一度セルバンの部屋に入ると、毛布を抱えて戻ってきた。

 そして、その薄い肩に毛布を掛ける途中で、ふと手を止める。

「……」

 セルバンの肩は、本当に薄い。大の大人の体なのに、まるで頼り甲斐というものが感じられない。

「……馬鹿」

 小さく、セルバンを起こさないよう小声でミューザは呟いた。

 家の中、そしてこの陽気なのに、セルバンは長袖を着ている。そして上着の襟は、首の半ばまで詰められ、きっちりとボタンが留められていた

 セルバンの衣服が乱れているところを、ミューザがこれまで見たことがない。

 いや。

(あの時)

 たった一度だけそれがあった。

 一年ほど前のこんな春の、真夜中だった。ミューザは自分の部屋で不意に目を覚ました。

 苦しげな声が聞こえたと思ったのだ。

『……セルバン?』

 声は、隣の、セルバンの部屋から聞こえているようだった。半ば寝惚けていたミューザは、眠たい目を擦り擦り、それが紛れもなく苦痛に掠れる声だと気づいた瞬間、考えるより先に寝台を飛び降り、部屋から駆け出していた。

『セルバン!』

 開け放った部屋の中、寝台で、セルバンが夜目にもわかるほどびっしょりと汗をかき、まるで土のような顔色で呻き声を洩らしていた。苦痛に耐えるように体は丸まり、毛布を掴む指先だけが、ぞっとするほど真っ白になっていた。

『セルバン、どうしたの、大丈夫?』

 どうすることもできず、ミューザはただ、その体に触れた。まるで体温のない人間のように、汗に濡れたその体は冷たかった。

『セルバン、セルバン!』

 名前を呼びながら、そうだ、教会に行かなくてはとミューザは思い至った。真夜中だったが、祭司を叩き起こして家に呼ばなくてはいけない。

『――服を緩めて、汗を拭いて、呼吸が楽にできるように、舌を噛まないように』

 焦燥しながら、ミューザは口に出して自分のすべきことを確認した。家を出るまえにやっておかなくてはならないこと。教会までは、走ったって大分かかる。その間セルバンをひとりにしなくてはいけないのが怖ろしかった。

『……ザ……』

 ミューザがセルバンの服に手をかけた時、やはり呻くようなセルバンの声が絞り出された。

『うん、あたし、いるよ! ミューザはここにいるよ!』

 必死に声をかけながら、ミューザはセルバンの上着の釦を外した。何だってセルバンは、寝る時にだってこんなにきっちり服を着ているんだろう。それを恨みながら、焦りで強張りそうになる指先を叱咤して、釦を外していった。

 そして首から胸の半ばまで服をはだけた時、ミューザは思わず指の動きを止めていた。

『や……何……』

 知らず、身が竦んだ。

 セルバンの肩と言わず胸と言わず、まるで鉤裂きのような痕が、あちこちに走っていたのだ。ひとつやふたつではない、それも大きな傷痕。

『やだよ、セルバン、どうしたの、ねえ!』

 傷は昨日今日についたものではない。もうずっと昔のものだと、見てすぐにわかったが、ミューザは体が震えた。

 今のセルバンの苦しみようが、この傷のせいではないかと思えた。

 忌まわしい傷痕が怖ろしかったわけではなく、この傷がセルバンに与えた痛みや苦しみを思って、ミューザは震えた。そしてどうしようもなく悲しくなった。

『嫌だ――』

 悲しくて悲しくて、気づいた時には、縋るようにセルバンの体にしがみついていた。

 何もできない。それは知っている。自分には聖なる力がないから、治療の魔法が使えないから、セルバンを癒すことはできない。

 それでもミューザはいてもたってもいられず、泣きじゃくりながらセルバンの体を抱き締めた。

『……ミューザ……?』

 そのミューザの髪を、頼りなく撫でる指先があった。ミューザは、ハッとして顔を起こし、セルバンの方を見た。

 セルバンは土気色の顔のまま、霞む視界を凝らし、ミューザのことを見上げていた。

『すまない……起こしてしまったね……』

『バカッ! 謝るな!』

 ミューザはセルバンの言葉を聞いて、一も二もなく怒鳴りつけていた。

『苦しいんでしょう、今、祭司さまを呼んでくるから! 待ってて!』

 起き上がろうとするミューザの腕を、思いのほか強い力でセルバンが掴んで止めた。

『セルバン?』

『大丈夫……必要はないから』

『何言ってるんだよ、苦しいんでしょう、すぐに治療をしてもらわないと!』

『平気だよ……こうしていれば』

 セルバンは掴んだ腕を自分の方へ引き寄せ、横たわった胸にミューザを抱いた。ゆっくりと、ぎこちない動きで再び自分の髪を撫でる手に、ミューザは恥ずかしさも何も忘れて、ただ、泣きじゃくった。

『嘘、あたしには何もできないのに。セルバンを治すこともできないのに、平気なわけない!』

『……そんなことない。ミューザのおかげで、ほら、少し呼吸が楽になった』

 セルバンに髪を撫でられ、宥められ、まるで立場が逆だとどうしようもなく悲しい気分になっていたミューザは、それでも彼の言うとおり、その呼吸が先刻よりは落ち着いてきたのを確認すると、ほんのわずか安堵した。

『……苦しいのに、どうして助けを呼ばなかったの』

 剥き出しの傷痕が浮かぶ肌に頬を擦りつけ、泣きながらミューザは訊ねた。

『具合が悪いわけじゃないんだ』

 次第に落ち着いてきた声音で、セルバンが優しく言った。セルバンはいつだって優しい。

『でも』

『悪い夢を見ただけなんだよ。だからもう、大丈夫。ミューザが起こしてくれたから』

 見上げると、セルバンは汗の浮かぶ顔で、やっぱり優しく笑っていた。

『悪い夢……』

『そう、ただの夢だよ。目を覚ませば、お終いだ』

『……馬鹿……』

 安心して、ミューザは再びセルバンの胸に顔をうずめた。

 セルバンは相変わらずミューザの髪を撫で続け、ミューザはその心地よさに、少しまどろんできた。真夜中、ミューザだって眠りの半ばだったのだ。

 撫でる手の動きの心地よさと、次第にゆっくり落ち着いてくるセルバンの呼吸、それから鼓動を聞いてうっとりとしながら、ミューザは間近にある鉤裂きの痕を見つめた。

『……この傷』

 そっと、一番大きな傷痕に触れる。

『どうしたの?』

『……』

 セルバンはすぐには答えなかった。もしかしたら訊ねてはいけなかったことだろうか。ミューザはどうしてか、少しだけ怖くなった。

『……昔にね』

 だが少しの沈黙の後、セルバンが優しい口調で答えてくれた。

『とても大切なものを守った時に、できた傷だよ』

『大切なもの……』

『そう。何よりも、誰よりも大切だった宝物だ』

『どんなもの?』

 顔を上げて訊ねたら、これには答えは返らなかった。ただいつもみたいに、優しい、穏やかな顔でセルバンは笑っただけだ。

 ミューザはまるで心臓を直接掴まれたように、どうしようもない痛みを胸に感じていた。

(あたしにはわからない、大事なもの)

 そう思うと、悲しかった。悲しかったのに、さっきみたいには泣けなかった。

『……痛くないの? もう』

『痛くないよ。ずっと昔の傷だから』

『司祭さまに、治していただけばいいのに』

『いいんだ』

 心配というよりも、悲しさが言わせたミューザの言葉を、セルバンはやんわりとした口調で拒んだ。

『傷が深すぎるからね。もう全部は治らない。それに――』

 ミューザの髪を撫でながら、セルバンは続けた。

『この傷はね、僕の誇りなんだよ。大切なものを守ることができた。その分他のものをたくさん失ったけれど、僕は、たったひとつ、それだけが守れればよかったから……』

 話す半ばで、セルバンの声が不明瞭になっていった。髪を撫でる手も止まった。

 見ると、目を閉じ、再び眠りの淵に落ちていったようだった。苦しんで、疲れたのだろう。眠る様子は落ち着いていて、ミューザはほっとした。

 ほっとしながら、自分でも手の施しようがないくらいの悲しみに胸を支配されて、苦しくて、苦しくて、仕方がなかった。

(宝物って、何?)

 訊ねたいのに、できなかった。きっとそれは、セルバンが眠ってしまったせいだけでなく。

 その時から、ミューザは、今になるまで一度だってその『宝物』が何なのか、セルバンに訊ねることはできなかった。

 今、食卓に突っ伏して眠るセルバンの肌にも、消えない傷痕が残っているだろう。セルバンがいつでもきっちりと服を着込むのは、傷痕を隠すため。

 あの夜以来、ミューザは二度とその傷痕を見ることはなかった。

 回想から現実に立ち返り、ミューザは食卓の上で小さく規則正しい寝息を立てるセルバンを見下ろした。かすかな溜息をつくと、先刻まで彼が何かを書きつけていた紙の束へと手を伸ばした。何枚か取って、眺める。

「『我が主神、恵深く、その憐れみ、とこしえに絶ゆることなし。その善、大いなるかな』」

 丁寧な文字で書かれた言葉を、ミューザは声に出して読んでみる。『聖教典』の一説だ。聖職に就くもの、またはそれを目指す者ならば誰もが右手に携えるという教えの本。ミューザも何度かセルバンのものを読んだので、始めのくだりだけは覚えている。

「『豊饒の大地、空の光、我が足許を照らす詞――』」

 呟きを、ミューザは途中で留めた。

「……あたしが詞を唱えたって、なんにもならないんだよな」

 聖なる力を持つ人間が唱えれば、それは邪悪を滅ぼす力となり、人を佑ける力となる。だが、ミューザは聖なる力を持たなかったから、詞はただの言葉でしかない。

 自分にだって、ほんの少しだけでもその聖なる力の兆しが見えれば、その力を育てるためとか、強引にでも神学校に居座ることはできたはず。だがそれすらも適わないほど、見事なまでに、ミューザには力を持つ人間としての資質がなかった。

(もしあたしに強い聖なる力があったら、あんな傷なんて、すぐに治してあげられるのに)

 もう痛くはない。セルバンはそう言った傷痕。

 なのにあれを消したいと思うのは――自分の浅ましい心からだ。ミューザにはわかっている。

(別に、それが悪いことだとは思わないけど)

 紙を束の上に返すと、椅子を少し動かして、ミューザはセルバンのすぐ隣へと腰を下ろした。その寝顔を眺めて、少し笑う。

 子供みたいだ、と思った。自分よりもずっと年上のひとなのに。

 子供みたいに、規則正しい呼吸を続ける体に、ミューザはそっと唇を寄せた。

 ほんのわずかに逡巡した後、ミューザはセルバンの頬に接吻け、そうしてから慌てたように周りを見渡すと大きく息を吐き出した。

「……バッカみたい……」

 彼女の呟きを聞く者は、彼女自身の他には誰もいなかった。


     ◇◇◇


 ハッと目を開けたセルバンは、それから、激しく狼狽した様子で椅子から立ち上がった。勢い余って、その椅子が床にひっくり返って大きな音を立てる。

「しっ、試験問題の〆切がっ!」

「ああ。さっきレスマイン先生がいらっしゃって、全部持っていったよ」

 セルバンの叫びを、洗濯籠を持って廊下を通りがかったミューザが聞き止め、ひょいと入口から顔を覗かせて言った。

「も、持っていったって、でもあれはまだ」

「あれで充分だって先生おっしゃってたよ、セルバンはいつまでも考えすぎてキリがないからってさ」

「……そうか……」

 ふう、と息を吐き出し、セルバンは再び『椅子』に座り直そうとした。

「あっ、馬鹿、セルバン!」

 ミューザが声をかけるのも遅く、セルバンは倒れたはずの椅子に腰かけようとして、結果自分も見事に床へひっくり返ってしまった。

「もーっ、何やってんだよ! ほんっと、トロいんだから……」

 呆れ声で呟きながら、ミューザは廊下を戻っていく。

「い、痛ててて……ミューザ、僕の眼鏡は」

「机の上にあるだろ。起きてすぐ気づくようにわざわざ置いといたんだ」

「あれ? 本当だ」

 打ちつけた腰をさすりさすり、セルバンは机へ顔を近づけてから眼鏡があるのを確認し、それをつけ直した。

 セルバンがそうして眼鏡をつけ、椅子を戻し、座り直してから思いついて立ち上がり、お茶を淹れたところでミューザが居間に戻ってきた。

「お茶を飲むかい?」

「ありがと、もらうよ」

 洗濯物を干し終えて戻ってきたミューザは、タイミングよく入ったお茶に顔をほころばせ、椅子に腰を下ろした。

「すまないね、せっかく食事を作ってくれたのに、冷めてしまった」

「あっため直す? まだ食べられるよ」

「今自分でやったよ。ミューザもまだなんだろう?」

「だってひとりで食べたって、つまんないもん」

 唇を尖らせるミューザに、セルバンは苦笑気味に笑う。

「ね、もう試験問題作りは終わったんだし、少しはゆっくりできるんでしょ?」

「いや……」

 訊ねたミューザに、セルバンが申し訳なさそうな顔で首を横に振った。

「予定より遅れてるから、もうすぐに試験なんだ。試験が始まると、人手が足りないから、毎日学校に行かなくてはならないと思う」

「何だよそれ、去年は、そんなことなかったのに!」

「今年は何だか受験者の数が多いんだ。お歳を召された先生が、せんだって数人辞められたこともあるし……」

 色めき立って声を上げるミューザに、セルバンはますます申し訳なさそうな口調になって、そう説明する。

 もちろんミューザには納得がいかない。

「多いって言ったって、ドモスの神学校にそれほどたくさんの生徒がいるわけないだろ」

「そうでもないんだよ、最近は隣の町からも人が来るようになって……すまない、しばらくは食事は朝だけでいいよ」

「何だよ、それ……」

 もう一度呟いて、ミューザは憮然とお茶の入ったカップを見下ろし、黙り込んだ。

 困った様子で、セルバンがそんな彼女を見遣る。

「……いつから始まるの、試験」

 俯いたまま、ミューザは小さな声で訊ねた。

「来週の、始めからだよ」

「ならそれまでは少し時間があるよね?」

「明日から、もう準備に取りかからないといけないよ」

「……今日、これからは?」

「やっぱり試験問題が気になるから、レスマイン先生のところへ行って来るよ」

 顔を上げてキッとミューザがセルバンを睨むと、セルバンは、いつもと変わらぬ穏やかな、少し困ったような微笑を返す。

「ミューザ、君ももうじき十六になるんだ。こんなおじさんと一緒に散歩するより、だれか素敵な男の子と一緒にでかけなさい」

 ミューザは深く傷ついた顔を決して見せまいと、セルバンをさらに睨みつける。

「セルバンはおじさんって歳じゃないだろ、まだ三十二だ」

「おじさんだよ、ミューザに較べればね。ああほら、ファムスを誘ったらどうだい? 歳も近いし、話も合うんじゃないか?」

「ファムス?」

 聞き覚えのない名前に、ミューザは眉を顰めた。

「誰?」

「ほら、お隣に越してきた」

「ああ――」

 ミューザは家に帰る前に聞いた、ルカの話を思い出した。

「黒ずくめの、変な奴って噂の。やだよ、何だか妙なんだもん。家に閉じこもって、何やってんだか」

 実際に見たことはない隣人。そんな人間を誘うよう言われたことに――相手が誰であろうと、セルバンの代わりに別の人間を誘えなんて言われたことに、ミューザは猛烈に腹を立てた。

「あたしと歳が近いっていうのに、学校にも行かないで、仕事もしてないなんて変。怪しい奴だと思わないの? もしかして黒魔導士とか」

 売られてもない喧嘩を買う口調で言ったミューザに、セルバンが大きく表情を曇らせた。

「滅多なことを言うんじゃないよミューザ、黒魔導士だなんて」

「だって」

「白の魔法だって、オルジア国王の許可を得ずに使うのは禁止されてる。だから許可を得るために学校で学んだり、町の司祭さまの弟子になったりするわけだろう。黒の魔導に及んでは許可が下りるはずもない。それじゃファムスが罪人ってことになるんだよ、失礼じゃないか」

 ミューザは、拗ねたように唇を尖らせた。

「はい、セルバン先生の演説でした」

 ミューザだって、本気でファムスが黒魔導士だなんて思ったわけじゃない。ただ、引き合いに出されたから、冗談じゃないという気分を表してしまっただけなのだ。

 セルバンはまた困ったように笑って、丸眼鏡の真ん中を指でずり上げる仕種をした。

「ミューザ、『セルバン』じゃないだろう、『お父さんだよ』」

 ミューザは最後までセルバンの言葉を聞ききらないうちに、机へ乱暴に両手をついて立ち上がった。

「お茶ご馳走さま。あたしひとりで散歩行ってくるから。試験の準備頑張ってね、セルバン」

 叩き付けるように言うと、ミューザは居間を出るため歩いていく。

「気をつけて行ってきなさい」

 穏やかな声を掛けられると、ミューザは、きっとした顔でセルバンを振り返り――そのままふいと外へ出て行った。

「……」

 セルバンは微かな溜息をつくと、窓の外を見遣った。家から出たミューザが、乱暴な足取りで道を歩いていく姿が見えた。すっかり怒らせてしまったようだ。

 セルバンは窓の外から目を戻し、眼鏡を外すと服の裾で拭いて、それを掛け直さずに机の上へ置いた。座った椅子に深々ともたれ、目を閉じて天井を仰ぐ。もう一度、今度は深い溜息が洩れた。

「……無理……なんだよ、ミューザ」

 呟きを聞かせるべき相手は、この場所にはいなかった。

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