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TRILOGY  作者: eleki
[#;01 A-PART]
1/18

第一章『邂逅』

 春だというのに、嫌な風が吹いていた。

 セレナは籐かごを抱え直すと、ふと頭上の空を振り仰いだ。

 まだ昼過ぎだが、雨の降り出しそうな雲行きを見て、庭先に干していた洗濯物を取り込んでいたところだ。

 このサンファールの国は、夏と冬の温度差が激しい。春はその合間の休息のように、過ごしやすい、心地好い季節であるはずなのに、空には陽の姿も見えない。いやに肌寒かった。

 セレナは鈍色の曇天に、心持ち眉をひそめ、首を傾げる。おかしな天気だな、と思った。

 ――静かな雰囲気をたたえた少女だった。

 今年で十七歳。腰まで届くかという長い金茶の髪はゆるく編まれ、麻の上着から覗く腕は頼りないほどに細い。

 薄紫色のスカートが、風に吹かれ、はたはたと流れる。胴巻きの布は、結び目がほどけそうに激しくたなびいた。

 空が奇妙に暗いように思えた。

 セレナは小さく溜息をつくと、取り込んだ洗濯物をしまうため、庭先から家の中へ戻った。

 家は町外れの小さな平屋だ。母親とふたりきりだからそう大きい住まいは必要なかった。父親はセレナがずっと小さい頃に行方しれずになったという。物心ついた時には母親のユマとふたり暮らし。ユマは優しくて、セレナや自分がどんなに辛い時にでも笑っている、そういう人だった。

(でも今は……)

 セレナは食堂に洗濯かごを置くと台所から水差しを取り、そのまま廊下に出て、奥の部屋の木戸を開けた。

「お母さん」

 そう、呼びかけてみる。返事は戻ってこない。

 翳った部屋の中でユマが寝ている。セレナは寝台に近づくと、そっと彼女の体に布団をかけ直した。

 長い間、女手ひとつでセレナを養うため必死に働いてきたユマだが、今は床を出ることが適わなくなっている。

「お母さん、お水、枕許にあるからね」

 セレナの呼びかけに、やはりユマの声は返らない。それでもセレナは声に出して話しかけることをやめない。

 ひとつきも前から、ユマはこうして寝台に横たわり続けている。セレナがどんなに名前を呼んでも、彼女の声は聞こえない。

ユマをみつめればセレナは悲しくなる。

 だって彼女は、セレナをみつめ返してはくれない。

(お母さん)

 唯一の肉親。血を分けた、自分の命にも等しい存在。大切な、大切な母親。

 この町で暮らしていくセレナに、歳の近い友達もいない。いるのはほんの小さな子供か、ずっと年上の者ばかり。若者は皆この町の外にいる。ラキウスはそんな町だ。だがここへこなければ、何の力も持たないセレナたち母娘が、ただ暮らしていくこともできない。

 その中でセレナの太陽は、常にユマだった。

 なのに彼女は、目を開けてくれない。口を開いてくれない。

 静寂だけがセレナを迎え入れる。

 セレナは目を伏せ、溜息を押し殺すと、ユマの寝室を後にした。


     ◇◇◇


「セレナ!」

  明るい声に呼び止められ、路地に出たセレナは振り返った。

道の向こうからやってきたのは、セレナの隣人。セレナは、小走りに近づいてくる彼に、歩みを止めた。

「こんにちは、バツー」

「こんにちはセレナ、どこ出掛けるの?」

  光のように明るい金色の髪を持つ少年だ。顔つきにまだ幼さがあって、そんな少年の優しい笑顔に、セレナも自然と笑みを返した。

「ノイヤーさんのところへお仕事をもらいに行くの。この間の花飾り造りは、もう終わってしまったから」

「そうか。お母さんの具合はどう?」

「相変わらずってところかしら……」

セレナが少し表情を曇らせると、バツーはそれを引き立てるように明るい、人好きのする笑みを浮かべた。

「早く好くなるといいね」

「ありがとう」

  少年の笑顔に、どこか暖かな心地になりながら、セレナは微笑を返す。

  セレナよりも五つ年下だというバツーは、半年前に隣の家へやってきた。天涯孤独の身で、薬草を摘んできて売ったり、セレナと同じく人づてにほそぼそとした仕事を受けては、日々の生活を送っている。

  彼になぜ身寄りがないのか、ラキウスの町に来る前は何をしていたかなどは、セレナも町の人間も知らない。わけありの人間などこの御時世のこと、どこにでもごろごろしている。

  そしてラキウスは王都バーンズの城からずっと遠い、辺境と言って差し支えのない田舎町だ。サンファールの最東端に位置し、三方を海に囲まれている。海は深く暗く、海岸線は切り立った崖で、漁に出る船もない。大地は作物が根づくことに向かないようで、人の食べる野菜はおろか、家畜の餌を作ることすらままならない。

  決して恵まれた地形とは言えず、住む人間も、訪れる旅人も少ない。それで、王都周辺で何かをやらかしたお尋ね者などの、いい隠れ場所となっていた。

  自分たち母娘がここに住むのは、多分ユマも何かから逃げているからだ。セレナはそう察していた。ユマの過去を、セレナは何も知らない。罪を犯したわけではあるまいと思いはするが――ただ、日常が穏やかだったから、あまり気にすることもなかった。

  他人の過去も気に病む必要はないと思っていた。セレナたち母娘が仕事を世話してもらっているノイヤーという男も、強面に不吉な太刀傷を持つ屈強な男で、人を殺して逃げてきたのだと本人が笑い混じりに話していたのを聞いた事がある。冗談なのか真実なのか、セレナにはわからなかったし、わかる必要もないと思った。ノイヤーはセレナたち母娘には優しく、彼がいなくては仕事が手に入らず日々の暮らしが成り立たない。それだけ知っていればよかった。

  ここはこんな町だし、時代は人の生活へ常に暗澹たる影を落とすオルジア王朝だ。人の過去に拘っていては、何もやっていけない。

  セレナの気に懸かるのは、ただユマのことだけだ。

(また、お母さんが元気になってくれるのなら)

  そうすれば、今の暮らしに憂えることなど何もない。

  自分の思いに耽っていたセレナは、ふとバツーの視線を感じて顔を上げた。

  目が合うと、バツーがにこりと笑いかけてくる。セレナはかすかに赤くなった。自分よりもずっと年下の少年なのに、時どきバツーはセレナがハッとするほど大人びた表情をすることがある。出会った頃は、無邪気な笑顔でセレナの気分を明るくさせた。その笑顔の質が変わってきたのは、本当につい最近のこと。

  そう、ほんの、ここひとつきの――。

(男の子って、そういうものなのかしら)

  バツーがいると心強い。今までは、小さな子供だから気に懸けてあげなければね、なんてユマと話していたのに。

(そうか、お母さんが起きてこなくなってからだわ)

  思い当たってセレナは納得する。ユマが床に伏してから、バツーは奇妙なほどセレナに気を配るようになった。顔を合わせればユマの様子を訊ね、セレナに励ましの声をかけてくれる。きっと、セレナの淋しい心を気遣ってくれているのだ。

「セレナ? どうしたの?」

「あ……な、何でもないの」

  問いかけられセレナは慌てた。バツーに見とれていた自分に気恥ずかしさを覚える。「そう?」と小首を傾げながらバツーが笑った。

  そのバツーの表情がふいに引き締められたのは、次の瞬間。

  鋭くその眼差しが動く。セレナはつられるように自分の背後を振り返り、そして悲鳴を上げた。いきなり道の脇の草木を掻き分け、人影が現れたのだ。

  バツーは何も言わずセレナの手首を強く引くと、自分の背後に庇った。

「あ……っ」

  バツーの背中越し人影の正体を確かめようとしたセレナは、もう一度悲鳴を上げそうになり、踏みとどまる。

  現れたのは細身の少年。その全身は砂や泥に汚れて、ところどころ衣服も裂け、そして両腕で庇った胸からは鮮やかな血が滴り落ちていた。

(ひどい)

  ただの喧嘩や何かで受けた傷には見えない。元の色がわからないほど血や他のものに汚れた衣服が、鋭く切り裂かれていた。

  太刀傷だ。

  血まみれの体ががくりと植木に前のめり、咄嗟に手を貸そうとしたセレナを片手で制止して、バツーが彼に声をかけた。

「おまえは誰だ」

  凛とした声に、ひどくのろのろと彼の顔が上がり、その視線がバツーの姿を捉える。セレナと同じ年頃にも見えるが、顔のあちこちにもひどい擦り傷や殴られたような痕があり、容貌はよくわからなかった。その彼は口を開き、

「子供を……捜している――歳の頃は十より上、名をバツーと……」

苦しげに途切れる声で言った。

  目を瞠るセレナを背中で庇ったまま、バツーはもう一度彼に呼びかけた。

「おまえは誰だ?」

「……バーンズの、ルナティン……ラキウスに住む、バツーという子供を、捜している……」

  彼、ルナティンは大きく咳き込み、その衝撃で掌に押さえられた胸からぼたぼたと鮮血が散る。セレナはその場に膝を崩しそうになった。両手で顔を覆うセレナが地へ倒れずにすんだのは、バツーが思いのほかしっかりした力で支えていてくれたからだ。

「おれに何の用がある」

  そう訊ねたバツーにルナティンは息を呑み、霞んでいるらしい視界で必死にその姿を捉えていた。

「俺は……おまえの父親に、頼まれて……っ」

  そう呟くなり、ルナティンの体から力が抜けて、そのままどさりと植木に倒れ込んだ。その体重を支えきれずに、背の低い木がルナティンの体ごと地面に崩れる。バツーが小さく舌打ちした。

「このうえ面倒を」

  彼らしくない、吐き捨てるような小さな悪態に驚いて、セレナは顔を上げた。セレナと目が合うと、バツーはにこりと邪気なく笑って見せる。

「セレナは家に帰ってるといいよ」

「でも、その人は……」

  バツーが倒れているルナティンを引き起こそうとするのを、セレナはなるべく視界に入れないように顔を背けた。

「ああ、セレナ、ノイヤーさんのところへ行くんだったっけ。でも顔色が悪いから、今日はやめにして、家に戻った方がいいよ」

  セレナの台詞を作為的に捩じ曲げ、バツーは追い立てるようにそう言った。おそらく、怪我をしたルナティンの姿を彼女に見せるのが酷だと思ったのだろう。

「そう……ごめんなさい、そうさせてもらうわ……」

  たしかに気分の悪くなっていたセレナは、バツーの心遣いに甘えるようにその場を離れた。

  家へ向かいながら、セレナの足取りが頼りなくぐらつく。気を張りつめていなければ今にも倒れそうだった。

(血が――)

  血の臭いにまるで酔ったようだ。脳裡に焼きついた鮮やかなあの赤い色。

(あの人は……)

  果たして生きていられるのだろうか。見るからにひどい傷痕だった。おびただしい血液が体から流れ落ちて地に汚点をつくるほど。

(お医者さまか、祭司さまを……)

  薬か癒やしの術が必要だ。けれどこの町に、そんな人たちはいない。教会は朽ちかけ、何年も前から祭司の姿など見えない。病院なんてこのずっとずっと先の町まで行かなければありはしないのだ。

(誰か呼ばなくちゃ……バツーだけじゃ、何も……)

  このままではあの人は死んでしまう。

(死んでしまう……)

  ふらりとセレナはよろめいた。

(誰か……)

  呼ばなくては。

  そう思うのに、セレナはただ家の中まで辿り着くのがようやくで、そのままうずくまり動けなかった。


     ◇◇◇


 いささか乱暴に寝台へその体を投げ落とすと、相手から苦悶の声が洩れた。

「何だ、まだ意識があるのか」

  重い『荷物』から解放された肩を宥めるため、バツーは腕をぐるぐる振り回す。放り出されたまま寝台で俯せになっている背中を見下ろして、不愉快そうに眉がしかめられた。

「血痕ってのは、洗濯してもそう簡単に落ちないんだぞ」

  どうせなら床に転がしてやればよかった――などと、ぶつぶつ独り言を洩らす。バツーは、もう声も上げず寝台の上で微動だにしないルナティンの肩を、これまた乱暴に揺すった。

「おい! 起きてるんじゃないのか?」

  返事はない。やはり気を失っているらしい。そう確認して、バツーはおもしろくもなさそうに腕を組んだ。ルナティンを見下ろしながら大きく息を吐き。

「さて……」

  ひとりごちて口許に親指を当てる。

「どうしたもんかな、『バツー』?」


     ◇◇◇


(温かい)

  穏やかな白い光を見たような気がして、ルナティンはぼんやりとそれに意識を凝らした。

  意識を――。

(俺は眠ってるのか?)

  自分の状態がよくわからない。体がひどく重い。まるで鉛のようだ。手足も動かないし、瞼も縫いつけられたように開くことができない。

  それでもどうしてか、自分の全身が温かな光に包まれているのを感じることができた。

「……」

  何か声を出そうとしたのに、溜息だけが唇から洩れる。

「大丈夫」

  額に触れる手。自分の知る手とは違う大きさ。子供の手みたいだ、とルナティンは思う。それは小さかったけれど――ルナティンの知っている手と、同じくらいの温かさを持っていた。

「かあ……さん……?」

「大丈夫だよ」

  かすかな笑いを含んだ声。子供の声。優しい。

「すぐによくなる。血はもう止まったし、ちょっと熱があるから辛いかもしれないけど……もう少し寝てなよ」

(ああ、この光は)

  ようやく理解する。どこかで覚えのある温もり。これは。

(白の魔法だ)

  癒やしの光。

(あたたかい)

  穏やかな波動。掌も声も、まだほんの少年のものなのに、それはルナティンを大きく安堵へと導いてくれた。

「できるのならオレの名前を呼ぶといいよ。もう少しは力に変わるから」

  子供の声がそう告げる。そうか、とルナティンは心で頷いた。母親が昔、傷を癒やしてくれた時、彼女の名前を呼んだ。名前は力になる。

「オレは、バツー。今、ルナティンの体に癒やしの力を送っているのは、バツーという名前を持つ者。どうかオレの名を呼んで」

「……バツー……」

その名を口にした時、柔らかく体が浮き上がるような心地好さを感じた。

  うっすらと、どうにか開くことの叶った瞼の隙間から、ルナティンはおぼろげな人の輪郭をみつけた。

  ルナティンはもう一度彼の名を呟くと、ひどく安心した気持ちになって、その暖かい光に体を包まれたまま吸い込まれるように眠りの沼へとはまりこんだ。


     ◇◇◇


 セレナは音を立てないよう精一杯の注意を払って扉を閉めた。

  ノブを握った掌、それから額と背中が、驚くほどじっとり汗ばんでいる。

(今のは、何?)

  家でしばらく休んでいたら、少し気分がよくなった。

  あの大怪我をした少年を、バツーひとりに任せておくのはやはり不安で、とにかく様子を見に行こうと彼の家の門を叩いたのはつい先刻。

  何度か声をかけたが家の中から返事はなく、悪いと思いながらもセレナはそっと玄関を開けた。鍵はかかっていなかった。

  まず台所から捜したが、バツーの姿は見あたらず、誰か大人の手を借りにいったのだろうかと思いながら廊下に出たセレナは、突然奥の部屋へ走った光に驚愕した。かすかに開いた扉の隙間から、細く洩れた白光。何が起こったのかと、緊張しながら部屋の中の様子を窺い、そして愕然とした。

  血濡れた服を着たまま、寝台に横たわる少年。

  その彼を見下ろし、バツーが彼の体に手をかざしていた。光の元はバツーの両方の掌で、その光を受けてルナティンの体もぼうっとした白い光に包まれていた。

  咄嗟に、バツーが何をやっているのかセレナにはわからなかった。あんな光を見たのは初めてだ。太陽の光とも、ランプの光とも違う。石の輝きとも別のもの。

(何なの?)

  どうしてこれほどまでに不安なのか。セレナは自分の気持ちがわからなくて、ただぎゅっと服の胸元を握りしめた。気味が悪いほど汗が出てくる。

  小さく、バツーたちのいる部屋の中から物音がした。セレナの肩がびくりと揺れる。耳を澄ませても、中から人の出てくる気配はなかった。

  セレナは乱れた呼吸を整えて、静かにその場を離れた。

(いったい……何だというの?)

  一番わからないのは自分の気持ちだ。とめどない怯えと困惑。

  じっとりと額を濡らす汗を拭いながらバツーの家を出た時、道の向こうから歩いてくる人影をみとめてセレナは知らず身を竦めた。ルナティンというあの少年が現れた時のことを鮮明に思い出す。

  その人影は、目を凝らせば丈高い男性だということがわかった。ルナティンとは違い、血にまみれている様子も怪我をしている様子ももちろんなく、きちんとした身なり、しっかりした足取りで歩いていた。

  ほんの少しセレナが違和感を感じたのは、身なりにしろ立ち振る舞いにしろ、まっとうすぎるということだった。二十代前半か、四十代後半か。判別はつかない。歳をとっているようにも見えて、若いようにも見える。わかるのは、彼がセレナの知っているこの町の男たちとは、おそらく違う種類の人間だということだ。

  セレナはその場所から動けなかった。セレナの家は、彼女が進む先、そして男が向かってくる先にある。家に戻るということは、男に向かって歩くということで、セレナはそう考えるとどうしても足が竦んでしまうのだ。

  段々に近づいてくる男と、セレナの目が合った。男はセレナの怯えた表情を見つけると、柔らかい笑みを見せた。

  知らない人は怖い。セレナはあまり人と付き合ったことがない。ユマと、バツーと、ノイヤーと――まともに言葉を交わしたことがあるのはそれくらいだ。時どき街中で擦れ違い、下卑た言葉をかけてくる男たちとは、視線すら合わせないようにしていた。

  なのに、セレナは、近づいて来る男から目が離せない。

(誰……?)

  男はセレナの家の前で歩みを止めた。

  セレナはふらふらと、まるで惹かれるように男の方へ足を踏み出した。心のどこかで警鐘が鳴っている。ルナティンが現れた時も怖かった。流れる血。切り裂かれた服。そんなものに怯えた。

  でも、違う。この男に感じる怯えはそれとは違うもの。男を見ただけでは、怯える要素などセレナにはひとつもないのだ。知らない人に対する恐怖? 違う。

  知らない人なのに、こんなにも惹かれてしまうことに対する恐怖。

「あ、の……」

  男のそばまで近づき、セレナは乾いた声で言った。男が振り返り、少し首を傾げてセレナを見返す。

「……あの、何か……?」

「――ああ」

  男は小さく頷くと、セレナに向き直った。

「セレナ」

  名前を呼ばれてセレナはぎくりとした。見知らぬ男。なぜ自分の名を知っているのか。

「あ……あの……わたし……」

  自分で気づかず、セレナは胸の前でかすかに震える両手を握り込んでいた。

「ごめんなさい、どこかで……?」

  それだけの言葉を発するのに、セレナには膨大な努力が必要だった。声がひきつれて揺れる。そんな自分を恥じる。そしてそれ以上に――怖い。

  男は強張った顔のセレナに向かい、緩やかに口許を綻ばせた。笑うと、何とも言えない雰囲気を醸し出す。まるで見ている相手を骨からとろけさせるような。セレナは魅入られるようにそれを見上げた。

「そうか」

  スッと男の片手が持ち上がり、セレナの髪に触れる。

「覚えていないのだね」

  セレナは息を呑んで、動けなかった。ほつれてこめかみに張りつく髪を、男の指先がつまみ上げた。自分で驚くほどにセレナの鼓動が早まる。

「ごめ……んなさい、わたし……あなたのことを知りません……」

「私はおまえを知っているよ」

  男が髪から手を離すと、セレナは安堵したような、淋しいような、おかしな心地になった。男がセレナの家へ視線を移すと、吸い込まれるようにその横顔をみつめてしまう。

「ユマはどんな様子かな」

「あ……お母さんの、お知り合いですか?」

  戸惑いがちにセレナは問いかけた。母の知り合い。セレナはそんな人間に会ったことが、今まで一度もなかった。

  男はセレナに目を戻し、再び笑った。

「でも今日は、おまえに会いに来たのだけれどね」

「わたし……?」

「そう。おまえは覚えていないかもしれないが、私はおまえのことをよく知っているんだよ。おまえのことも、ユマのことも」

「……」

「私を家の中へ入れてはくれないか?」

「あ、ご、ごめんなさい、気がつかないで」

  ぼんやり男に目を奪われていたセレナは、恥じ入って赤くなりながら、家の門扉に手をかけた。錆びて朽ちかけたこの門を直してくれたのはバツー。庭先の手入れをセレナが欠かしたことはない。それでも男の整った身なりに較べて、自分の家はなんてみすぼらしいのだろうと、セレナは消え入りたい心地になった。

「どうぞ……」

  セレナは俯きがちに扉を開き、男はそれに続こうとした。

  だが、ふと立ち止まったその爪先を見止め、セレナは顔を上げる。

「なるほど」

  ぽつりと男が呟いた。その表情を見てセレナは息を止める。

  男の顔は先刻までの穏やかなものではなく、冷たい、酷薄に見える笑いを浮かべていた。

「結構な仕打ちじゃないか……」

  口調は愉快そうだった。男は困惑げな顔で自分を見上げるセレナに目を移すと、自然、元のような柔らかな笑顔になった。セレナが、今の冷たい微笑は見間違いだったのではと思うほど、ごく自然に。

「今日は日が悪い。また改めて来るとしよう」

「え……? なぜ」

  セレナが問い返すより先に、男は踵を返した。セレナは無意識に男の背中を追って歩く。男が立ち止まり、振り返る。

「最近、変わったことはなかったかい?」

「変わったこと……?」

  男に問われ、セレナはかすかに首を傾げた。男が頷く。

「そう、たとえば――見知らぬ人が現れたとか、今まで知っていたはずの人間が、突然変わってしまったとか」

「……」

  セレナの眉根が、心細く寄せられる。

  胸をよぎったのは、ルナティンと、そして、バツーの姿。

  まるでセレナの胸裡を見透かすように、男は何度か頷いた。

「では、気をつけなければいけないね。おまえの周りには、どうやらおまえをよく思っていないものが取り巻いている」

「よく思っていないもの……」

  おうむ返しに呟いたセレナへ、男は再び頷きを返す。

「おまえの周りには敵が多い。それをわからなくてはいけない。そうしなければ、この先生きては行けないよ」

  不安な表情を作るセレナの頬に、男の冷えた指先が触れた。

「そしてこれも覚えておくんだ。私がおまえの味方であるということを」

「……あの……あなたは、一体……?」

  見上げてくるセレナに、男は目を細めて笑った。

「ジン。それが私の名前だ。私はおまえを救う者。そして解放する者」

  男はセレナの右手を取り、指先に接吻けた。セレナはされるがまま男――ジンをみつめる。

「必要な時はこの名を呼びなさい。私はいつでもおまえの許に現れよう」

  最後にもう一度優しく笑みを作ると、男はそのままセレナの前から立ち去った。今度は、セレナも動かずその後ろ姿を見送る。

(ジン……)

  心の中で、セレナはその名前を呼んでみた。

  口にするのは、なぜか勇気がくじけてできなかった。

「セレナ?」

  名前を呼ばれて、セレナははっと振り返った。先刻セレナが出てきた家の扉から、バツーが顔を覗かせていた。

「どうしたの? 何か……話し声がしたけど」

  セレナは素早く男の歩み去った方を見た。

  男の姿はもうどこにもない。

「何でも……何でもないの」

  セレナが早口に答えると、そう、とバツーが呟く。

  セレナは彼の顔を見る前に、自分の家へ入った。扉を閉め、鍵までかけて、小さく息を吐く。

  何かが動き出し始めている気がした。

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