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幸運貸しの令嬢

婚約破棄された幸運貸しの令嬢ですが、庶民の幸運が盗まれていたので返していただきます

作者: 宇多川マチ
掲載日:2026/06/28

 黒革の手帳に、知らない少年の名前が焼きついた。


 マルコ・ハント。

 晴天時に発熱。

 貸与元、ハントパン工房。

 貸与先、クラウディア王宮祝福式。

 返却条件、空欄。


 最後の一行だけ、紙の端が薄く焦げていた。


「返却条件なし?」


 思わず声に出すと、机の向かいで書類を読んでいたローレンツ卿が顔を上げた。


 彼はヴァルシュタイン公国契約庁の監査役で、私の婚約破棄のあと、この部屋に招いてくれた人でもある。部屋はまだ新しい木の匂いがする。窓辺には乾ききらないインク壺と、昨日届いたばかりの書類箱が整然と並べられている。クラウディア王宮の私室よりずっと狭いが、誰かの嘘で息苦しくなることはない。


「また厄介な記録ですか?」

「厄介というより、気味が悪いです」

「気味が悪い?」

「幸運を借りておいて、返す場所が書かれていません」


 ローレンツ卿は椅子から立ち上がり、私の手帳を覗き込んだ。勝手に手帳に触れないところがこの方らしい。私は手帳を少しだけ彼の方へ向けた。


 私はルディア・ルシュフォード。少し前まで、クラウディア王国の王太子ヴェルナルドの婚約者だった。婚約破棄を告げられた夜、ルシュフォード家が王家へ七十年貸していた幸運を回収した。その後、ヴェルナルドは王太子の位を失い、私はいま、隣国ヴァルシュタイン公国の契約庁で黒革の手帳とにらめっこをしている。


 私は幸運を生み出す令嬢ではない。約束を守る、火元を見に戻る、雨の日でも店を開ける。そういう行いの端に少しずつ残るものを、契約として読み、必要な場所へ流し、返すべき場所へ返すのがルシュフォード家の役目だ。


 幸運を扱う術そのものは、我が家だけのものではない。祝福冠、奉仕名簿、古い貸与印。形だけなら王宮にも似たことはできる。けれど、集めるだけでは幸運貸しとは呼べない。誰が積み、何のために借り、いつどこへ返すのか。そこまで管理して、ようやく貸与契約と呼べる形になる。


 この黒革の手帳は、世界中の幸運を何でも映しだす道具ではない。正式な幸運貸しが結んだ契約でなくても、契約や儀式で束ねられた幸運がその履歴管理としてこの手帳に記録されていく。いわば、この世の幸運貸しの全てを記録する目録だ。その中でも特に目立つのが、契約不履行ともいえる返し先のない幸運貸しで、それは事故記録のように目立って現れる。


 借りたものは返さなければならない。


「クラウディア王宮祝福式」

 ローレンツ卿が手帳の文字を低く読み上げた。「ヴェルナルド王太子殿下の失脚で傾いた王宮の威信を、祝福式で立て直すつもりでしょうね」

「もう王太子殿下ではありません」

「失礼。『元』王太子殿下」

「はい」


 返事をしてから、少しだけ息が詰まった。婚約は破棄されても、思い出まで破棄されるわけではない。婚約破棄の夜の扇の陰の笑い声、濡れた廊下、床に膝をついた王太子だった人の手。今でもまだ、昨日のことのようにありありと脳裏に浮かべることができた。


 ローレンツ卿はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、机の上に一通の封書を置いた。


「ちょうど今朝、招待状が届いています」

「招待状?」

「クラウディア王宮から、ヴァルシュタイン契約庁へ。王家再興の祝福式に、監査役として出席してほしいそうです」

「ずいぶん都合のいい招待ですね」

「ええ。しかも私宛てではなく、あなた宛てでもない。契約庁宛てです。差出人は、宰相府になっています」


 封蝋には王家の紋章が押されていた。その縁に、薄い金色の印が重ねられている。ただの飾りではない。祝福式へ関わる者を、奉仕名簿に結びつけるための印だ。


 私は封蝋を黒革の手帳へ近づけた。


 じわり、と紙が熱を持った。


「貸与印です」

「招待状に?」

「はい。これを受け取った者を、祝福式の契約に結びつけるためのものです」

「王家への幸運貸与は、あなたが終わらせたはずでは?」

「終わらせました。けれど、祝福冠や奉仕名簿があれば、幸運を集めること自体はできます。返す先を書かずに集めれば、こうなりますが」

「では、王宮は新たに幸運貸しと契約したのですか?」

「集める仕組みがあるだけです。返すところまで管理できなければ、幸運貸しではありません」


 手帳の上で、マルコ・ハントという名前がもう一度濃くなった。晴天時に発熱。晴れている日にだけ熱を出す少年、ということか。彼が不幸になることで、王宮の祝福式がうまくいく図式だ。


「行きます」

 私が言うと、ローレンツ卿はすぐには頷かなかった。

「クラウディア王宮へ戻ることになりますが」

「はい」

「あなたにとって、あそこは楽な場所ではありません」

「それでも、王家が私との契約を失ったからといって、町の人たちが不幸になるのは見過ごせません」


 ローレンツ卿は少しだけ困ったように笑った。


「では私も行きます」

「監査役としてですか?」

「あなたの帰り道を確保する者としてですよ」


 さらりと言われると、こちらが困る。私は手帳を閉じ、首から下げた銀の鍵を服の内側へ戻した。


 銀の鍵は貸与契約を大きく開け閉めするためのものだ。小さな幸運は、条件が満たされていれば、手帳に結ばれた範囲で流れる。けれど今回のように返却条件そのものが抜け落ちている記録は、放っておくと持ち主に戻されなくなる。


 返せない幸運は、いずれ不運に変わる。私はその焦げた一行を、もう一度指でなぞった。


 翌日の午後、クラウディア王都は晴れていた。


 晴れすぎている、と言ったほうが近い。雲一つない空の下、王宮へ向かう大通りには白い布が張られ、花籠が吊るされ、祝福式のための飾りが風もないのに揺れていた。王太子が失脚してから一か月。王都の人々は、王宮の前で足を止めるたび、以前より少しだけ声を落とすようになった。


 王家はそれを嫌ったのだろう。


 祝福式は、王家が神にも民にも見捨てられていないと示すための式典だ。雨が降らず、鐘が鳴り、聖火が消えず、参列者が笑う。その全てが揃えば王宮は再度「やはり王家には祝福がある」と胸を張れる。


 ただ、その晴天の下でパン屋の少年は寝込んでいた。


 ハントのパン工房は、王宮へ続く坂道の途中にあった。看板は煤けているが、隅々まで丁寧に磨かれていた。店先の敷石には水が撒かれ、ごみ一つ落ちていない。奥から焼きたてのパンの匂いがした。悪い店ではない。むしろ、きちんとした店だ。


「いらっしゃい。すみませんね、今日は王宮への納めの分で、手が離せなくて」


 店の奥から出てきた男は、腕まくりをしたまま頭を下げた。大きな手には小麦粉がついている。おそらく彼がステイト・ハント。手帳に載っていた工房主だ。


「ルディア・ルシュフォードと申します。こちらはヴァルシュタイン契約庁のローレンツ卿です」

「契約庁? うちの店、何かやらかしましたか?」

「いいえ。息子さんのことで伺いました」


 ステイトさんの顔色が変わった。


「マルコのことですか」

「晴れの日だけ熱を出す、と聞いています」

「誰から聞いたんですか、それ」


 手帳にそう書かれています、とは言えない。ステイトさんは一瞬、私を怪しむ顔をした。当然だ。初対面の娘が来て、突然息子の病を言い当てる。私だって不気味に思うかもしれない。


 沈黙を破ったのは奥の部屋からのかすれ声だった。


「父ちゃん。王宮の人?」

「違う。寝てろ」

「晴れてる?」

「寝てろって言ってるだろ」


 ステイトさんは大きな体を小さくして、私たちを奥へ通した。狭い寝台に、十歳ほどの少年が横になっていた。髪は汗で額に貼りつき、頬は赤い。窓には薄い布が掛けられていたが、その向こうは憎らしいほどの晴天で明るい。


「俺、サボってないよ」

 マルコはこちらを見るなりそう言った。


「誰もそうは言っていませんよ」

「晴れの日だけ、俺、だめになるんだ。雨の日は平気なんだけどさ。昨日も婆ちゃんのところまでパンを持っていけたし」

「婆ちゃん?」

「裏通りの婆ちゃん。膝が悪いから、雨の日は外に出られないんだ」


 ステイトさんが少し困った顔をした。

「売れ残りを届けているだけです。大したことじゃありません」


 大したことじゃない。そう言う人ほど、手帳にはよくその名が載る。


 私は黒革の手帳を開いた。マルコの名前の下に、小さな記録が並んでいく。


 雨の日、裏通りの老婦人へパンを届ける。

 夜明け前、窯の火を父に代わって見る。

 焦げたパンの焦げたほうを自分で食べる。

 粉袋の破れに気づき、すぐに補強する。


 その手帳に書かれた内容を見て、マルコは目を丸くした。


「な、なんで知ってるんだ?」

「幸運の記録です」

「俺、運なんか良くないよ」

「今は盗まれているからです」


 言った瞬間、部屋の空気が変わった。ステイトさんが、こぶしを握る音がした。マルコは熱で潤んだ目を瞬かせた。


「盗まれてる?」

「あなたが積んだ小さな幸運が、王宮の祝福式へ流れています。晴天、聖火、王宮へ納めるパンの焼き上がり。火と晴れに関わる幸運が、少しずつ」

「俺、王宮のために熱を出してるの?」


 私はすぐに答えられなかった。


 そうです、と言うのは簡単だ。けれど、寝台の上で汗をかいている子どもに向かって、それを正しい言葉のように渡したくなかった。


「あなたの同意なしに、使われています」

「同意って、奉仕名簿なら書いたぞ」


 ステイトさんが棚から紙を持ってきた。王宮祝福式への納品確認書だ。パン工房の名前、数、納品時間。最後に小さく、王家奉仕名簿への登録に同意する、という一文があった。


 幸運貸与の説明はどこにもない。


「これでは同意になりません」

 ローレンツ卿の声は静かだった。「奉仕名簿と幸運貸与契約は、まったく別のものです」


「でも王宮の方は、祝福式に関われるのは名誉だって」

 ステイトさんは紙を握りしめた。「マルコも張り切っていたんです。王宮に納めるパンだから、いつもより早く起きるって。それなのに、晴れるたびに倒れて」


 寝台の上で、マルコが唇を噛んだ。

「俺が弱いからだと思ってた」


 その一言で、胸の奥がきゅっと縮んだ。この子は熱を出すたび、自分が悪いと思っていたのだ。初対面の私にまで「サボってない」と言わずにはいられないほどに。


 私は手帳を閉じた。


「マルコさん。あなたの幸運は、今日中に返します」

「本当に?」

「はい。ただ、少しだけ待ってください。持ち主へ返すには、奪った方の名前も、皆の前で明らかにする必要があります」

「皆の前って?」

「祝福式の壇上です」


 ステイトさんが息を呑んだ。ローレンツ卿は、私の横で小さく笑った。


「私の出番も、そこですね」

「出世に響きますか?」

「まあ、隣国の大事な式典ですから」

「では、やめておきますか?」

「まさか」

 ローレンツ卿は、店先の方へ目を向けた。焼き上がったパンが、白い布の下で湯気を立てている。「見なかったことにすれば、私はクラウディア王宮に貸しを作れる。けれど、その貸しであなたの顔を見られなくなるほうが困ります」


 ステイトさんが咳払いをした。マルコが熱で赤い顔のまま、にやっと笑った。


「では、祝福式へ向かいましょう」

「王宮へ納めるパンは?」

「私が届けますよ」

 ローレンツ卿が言った。「契約庁監査役の馬車なら、王宮前で止められません。納品の籠も一緒に運べます」

 ステイトさんは迷ったあと、店の奥から一番大きな籠を抱えてきた。

「これを。形のいいやつだけ入ってます」

「形の悪いものは?」

「うちで食べます」

 マルコが寝台から口を挟んだ。「俺が食べる。焦げてるやつも」

「今日は寝てろ」

 親子の声を背中に聞きながら、私は店を出た。外はまだ、腹立たしいほど晴れている。


 王宮前広場には、すでに多くの人が集まっていた。白い天幕、金糸の垂れ幕、祝福の花環。中央には、王家の紋章を刻んだ壇がしつらえられている。王太子の件で沈んだ空気を、無理やり白い布で覆ったような式典だ。


 その壇のそばで、ひときわ大きな声がした。


「そちらの花環はもっと高く。見栄えが悪いわ。王家再興の式典なのですよ」


 見覚えがあった。イザベラ・モントレイユ侯爵夫人だ。モントレイユ家は代々、王宮の祝祭と貴族婚礼に祝福の名を添えてきた家だ。夫人は淡い金色のドレスに、真新しい祝福冠を載せていた。年齢より若く見える笑みを浮かべているが、作業員を見る目は少しも笑っていない。おそらく彼女が、この祝福式の責任者なのだろう。


 彼女の足元で、若い仕立屋の娘が落としたリボンを拾おうとしていた。


「遅い」


 侯爵夫人が扇を振る。その拍子に、壇の横に積んであった白い布が滑り落ちた。布の下から、飾りに使うはずの銀杯が転がる。一つ、二つ、三つ。最後の一つが侯爵夫人の靴先に当たり、白い靴に黒い煤がついた。


 広場が、ほんの少し静かになった。


「誰ですか? こんなところに煤のついた杯を混ぜたのは」

「申し訳ございません、侯爵夫人。昨夜、聖火台のそばに」

「言い訳は結構」


 侯爵夫人は靴先を引いた。けれど、今度はドレスの裾が壇の釘にひっかかった。びり、と嫌な音がする。


 ローレンツ卿が、私の隣で小声で言った。


「ひょっとして、もう始まっていますか?」

「返却条件が空欄の幸運は、ほんの少しの綻びで崩れます。あれはまだ、序の口です」

「本番は?」

「これからです」


 侯爵夫人がこちらに気づいた。


「まあ。ルディア・ルシュフォード様ではありませんか」


 その声は甘かった。甘すぎて、焦げた砂糖みたいだった。


「契約庁の監査役として参りました」

「ええ。招待状は契約庁へ出しましたわ。けれど、あなたがいらっしゃるだろうとは思っておりました」

「私を?」

「王宮への幸運貸与を打ち切りこの王家を滅茶苦茶にしたご本人が、王家再興の祝福式をどのようなお顔でご覧になるのか。少し、興味がありましたの」


 周囲の貴族たちが、ちらちらとこちらを見た。婚約破棄の夜、私を笑った顔も、いくつか混じっている。彼らは今度は笑わなかった。学習したらしい。


「王家の幸運は、もう私の手帳にはありません」

「ええ。ですから、私どもは別の形で祝福を集めました。民が王家に捧げる奉仕の心。とても美しいでしょう?」


 侯爵夫人は、壇の下に並ぶ町人たちを扇で示した。パン屋、仕立屋、馬具職人、灯火係、花売りの少女。誰もが祝福式のために働いている。名誉だと言われ、王宮の役に立てると言われ、いつもより早く起き、いつもより丁寧に仕事をした人たちだ。


「この方々は、パンを納め、花を飾り、鐘を直すために来たのです」

「それが奉仕でしょう」

「はい。ですが、晴れの日に熱を出すことや、腰を痛めることまで引き受けたわけではありません」

「奉仕名簿に皆さま署名しておりますわ」

「パンや花や鐘の仕事に対してですよね」

「同じことでしょう。王家に奉仕するのですから」

「違います。その名簿には、幸運を貸すとは書かれていません」


 私がそう言うと、侯爵夫人は初めて声を少し硬くした。


「ルディア様。あなたはご自分の家の古い契約にこだわるあまり、民の忠誠まで疑うのですか?」

「忠誠ではなく、手続きの話です」

「祝福に手続きなど……」

「ありますよ」


 ローレンツ卿が一歩前に出た。王宮の衛兵が反応するより早く、彼は懐から契約庁の銀印を出した。


「ヴァルシュタイン公国契約庁の監査役として申し上げます。本日の祝福式には、第三者の幸運を無断で担保にした疑いがあります。式典開始前に契約記録を確認します」

「外国の役人が、クラウディア王宮の大事な式典に口を出すおつもり?」

「招待状を出したのはそのクラウディア王宮ですが」

「監査役として招いただけです。式を止める権利までは……」

「止めなければ、監査の意味がありませんよ」


 侯爵夫人の扇が、ぴたりと止まった。


「ローレンツ卿。あなたの今のお言葉、クラウディアとの通商にも響きますわよ」

「でしょうね」

「よろしいの?」

「よろしくはありません」

 彼は少しだけ肩をすくめた。「今日ここで黙れっていれば、私は楽に出世できたでしょう」


 ざわめきが広がった。私は彼の横顔を見た。整った顔なのに、不器用ないい草だ。こういうところで、妙に嘘がない。


 侯爵夫人は唇を引き結んだ。


「式を始めます」

 彼女が合図をすると、鐘楼の下に控えていた係が縄を引いた。


 鳴らなかった。


 もう一度、縄が引かれる。重い鐘は、かすれた音を一つ落としただけだった。広場にいた子どもが、きょとんと空を見上げる。楽師たちが慌てて笛を構えたが、最初の音が裏返った。


 侯爵夫人の頬がひきつる。


「続けなさい」


 聖火台に火が入れられた。火はついた。けれど、まっすぐ上がるはずの炎が、横へ倒れるように揺れた。風はない。天幕も動いていない。


 私は黒革の手帳を開いた。


「イザベラ・モントレイユ侯爵夫人」

「何を」

「貸与記録を確認します」


 黒革の手帳の紙面に、名前が浮かんだ。


 マルコ・ハント。火の番、納品補助、近隣扶助。貸与先、祝福式晴天維持および聖火安定。返却条件、空欄。

 ステイト・ハント。夜間窯番、納品準備。貸与先、祝福式供物成功。返却条件、空欄。

 イーナ・ベル。花環縫製、無償修繕。貸与先、祝福式装飾維持。返却条件、空欄。

 トマ・リード。鐘楼整備、雨漏り補修。貸与先、祝福式鐘鳴安定。返却条件、空欄。


 名前を読み上げるたび、広場のどこかで人が息を呑んだ。


「イーナって、うちの娘だ」

「トマ爺さん、先週から腰を痛めてたのに」

「ハントの坊主、今日も熱を出してるって」


 ざわめきが大きくなる。侯爵夫人は扇を閉じた。


「やめなさい」

「まだあります」

「やめなさいと言っているのです」

「この方々は、パンを焼き、花を直し、鐘を整えました。だからといって、その仕事で積まれた幸運まで王家へ差し出したことにはなりません」


 私は手帳を持つ手に力を込めた。


「返却条件のない貸与は、ただの横領です」


 侯爵夫人の顔から、笑みが消えた。


「王家が傾けば、町も傾くのです。鐘が鳴らず、聖火も保てず、民が王宮を見限れば、パン屋の窯も仕立屋の針も無事では済みませんわ」

「だから、町の人々の幸運を勝手に使ったのですか?」

「勝手に? 祝福式に名を連ねる名誉を与えたでしょう。たかが町人の小さな幸運など、ひとつでは何にもなりません。王宮が束ねて、晴天や聖火にしてやっているのです。それの何が悪いのですか?」


 侯爵夫人の言葉に、広場の空気がすっと冷えた。町人たちの顔がこわばる。貴族たちの何人かは、目を逸らした。聞かなかったことにしたいのだろう。だが、もう遅い。


「火を見に戻ったのはマルコさんです。鐘楼を直したのはトマさんです。花を縫い直したのはイーナさんです」

 私は首から銀の鍵を外した。「あなたが積んでいない幸運を、王家の祝福として使わせるわけにはいきません」


 手帳に鍵穴はない。ただ、返却条件の空欄に鍵の先を触れさせる。焦げていた紙が、ぱり、と乾いた音を立てた。


「返却条件を追記します。無断で流した分は持ち主へ。もう使ってしまった分は、祝福式責任者の名で補いなさい」

「そんな条件、認めません」

「最初の契約を勝手に結んだ方が、今さら条件の公平をおっしゃいますか」


 鍵が紙の上でかちりと鳴った。


 指先からすっと熱が抜けた。銀の鍵を使うたび、体の奥から力が抜ける。


 その瞬間、聖火が消えた。


 派手な音はしなかった。ただ、すっと消えた。白い煙が細く上がる。祝福冠にはめ込まれていた宝石が、曇った窓のように光を失った。壇の花環から白い花びらが一斉に落ちる。枝は枯れていない。ただ、無理に見栄えよく結ばれていた糸がほどけたのだ。


 侯爵夫人は一歩下がった。そこに、先ほど落ちた銀杯が靴の踵が当たり、彼女は壇の手すりにつかまる。頭に載せていた祝福冠が斜めにずれ、額にかかった。


 誰も笑わなかった。笑うには、あまりにも静かだった。


 広場の外から、走ってくる足音が聞こえた。ハントパン工房の若い職人だった。息を切らし、籠を抱えたまま何かを叫んでいる。


「親方ぁ!マルコの熱が下がりました」


 ステイトさんが、壇の下で膝をついた。祈るためではない。力が抜けたのだ。


「本当か」

「はい。店先に出るって聞かなくて」

「馬鹿、寝かせておけ」


 ステイトさんは怒り声なのに、泣きそうな顔をしていた。


 手帳の上で、マルコの名前の焦げが消えていく。次に、花売りの少女の名前、鐘楼職人の名前、仕立屋の娘の名前。返却済み、という銀の印が、ひとつずつ灯る。


「これは式典妨害です。王宮の威信を傷つける行為ですわ!」

 侯爵夫人が叫んだ。まだ諦めていないようだ。


「威信は、盗んだ幸運で飾るものではありません」

「ルディア様、あなたは王家に恨みがあるだけでしょう!?」


 その言葉だけは、少し刺さった。


 恨みがないと言えば嘘になる。王宮の床も、広間の灯りも、あの夜の笑い声も、まだ私の中に残っている。戻ってきたくなかった。二度と関わりたくないと、どこかで思っていた。


 でも、寝台の上で「俺はサボってない」と言った少年の声は、それとは別だ。


「恨みならあります」


 広場が静かになった。ローレンツ卿が視線だけこちらに向けた。


「ですが、今日ここへ来たのは、そのためではありません」


 私は手帳を閉じた。


「マルコさんが、晴れの日に寝込まなくて済むように。イーナさんやトマさんの仕事が、王家の飾りにされないように。そのために来ました」


 侯爵夫人が何か言い返そうとしたとき、王宮側の扉が開いた。宰相が数人の書記官を連れて出てくる。国王ではない。けれど王宮の実務を預かるこの人には、式典を止める権限がある。


「イザベラ侯爵夫人。あなたの祝福式責任者の任を解く」

「宰相閣下、お待ちください。私は王家のために」

「ならばなおさら、民の名簿を盗みの道具にしてはならない」


 宰相が手を上げると、書記官が進み出た。


「祝福冠、奉仕名簿、関連帳簿を預かる。無断貸与が確認された者には、王宮から補償する」


 侯爵夫人は冠を押さえた。だが、宝石はもう曇り、金の縁も薄い鍍金にしか見えない。やがて指が離れ、祝福冠は白い布の上に置かれた。続いて、奉仕名簿と関連帳簿が壇の上に積まれていく。


 祝福式は中止になった。


 白い天幕は外され、花環は町の人々へ返された。広場の端には補償の帳場が置かれ、書記官が一人ずつ名前を呼んでいく。仕立屋の娘は、手渡された硬貨を見て「糸代まで」と小さく呟いた。鐘楼職人の老人は、腰をさすりながら、照れたように帽子を取った。


 王宮に納める予定だったパンは、広場で配られることになった。ステイトさんは最初、王宮用だからと渋ったが、宰相が「王宮が買い取る。配る相手を変えるだけだ」と言ったので、ようやく頷いた。


 ローレンツ卿は、契約庁の印章をしまいながらため息をついた。


「これで、私の出世は少し遠のきました」

「少し、ですか?」

「かなりと言うと、あなたが気にするでしょう」

「それは気にしますよ」

「では、少しです」


 この人は優しいのか、頑固なのか、ときどきわからない。


「でも、ありがとうございました」

「礼を言われるほどでは。監査役の業務の一つです」

「ローレンツ卿」

「はい」

「そういうところ、少しだけ私に似ています」


 彼は驚いたように瞬き、それから笑った。


「それはかなり光栄ですね」


 夕方、私たちはハントパン工房へ戻った。


 店先には、マルコがいた。椅子に座らされ、父親に肩を押さえられている。まだ顔色は白い。けれど彼は、まぶしそうに空を見ていた。


「寝ていなさいと言われませんでしたか?」

「晴れてるのに、立てるか確かめたかった」


 ステイトさんが叱ろうとして、口を閉じた。目元が赤い。


 マルコは店の奥から、小さなパンを一つ持ってきた。半分だけ形が崩れている。焦げてはいないが、丸とは言いにくい。


「これ、失敗したやつ」

「いただいても?」

「売り物じゃない。今回のお礼」

「では、いただきます。次は買いに来ます」


 ローレンツ卿が、私の手元を見た。


「このパンも、幸運ですか?」

「いいえ。ステイトさんが昨夜三度窯を見に戻って、マルコさんが形の悪いパンを捨てなかった味です」


 マルコは胸を張りかけて、照れたようにパン籠を抱え直した。


「次は、俺が焼いたのをあげるよ」

「楽しみにしています」


 夕方の風が、私の頬を撫でた。朝の不自然な晴れとは違う、少し雲のある空だった。


「晴れてる」

 マルコが、その空を見上げて小さく言った。


 その日の晴れは、ようやくマルコに返ってきた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


お時間あれば前作、次作ももぜひ!

「婚約破棄ありがとうございます。では、王家に貸していた幸運を返していただきます」

https://ncode.syosetu.com/n7837mj/

「婚約破棄された幸運貸しの令嬢ですが、祝福の花嫁が盗んだ幸運を返していただきます」

https://ncode.syosetu.com/n0649mk/


次回はローレンツ卿視点の短編の予定です。いつも冷静な監査役が、実は初対面からルディアをどう見ていたのか。本編では見せない心の声が、少しだけ大変なことになっています。

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