表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

返した印箱は、退職後の日付で開けられません

夜明けの薬棚は、まだ閉じていなかった。


 ミナの薬瓶は患者名で棚に戻り、北門二十七番灯にはエルとマリナの帰着未確認欄が残っている。青い保留札は、一晩ぶんの冷気と帰り道を守った。


 けれど、守ったものがあるほど、サラには分かる。


 誰かが、彼女の返した保守印を使って、別の生活手順を閉じようとしている。


「サラ様、こちらを」


 薬師の老女が、棚の下から古い木箱を引き出した。角が欠け、蓋の真鍮に細い傷がある。ヴィント工房の印箱。サラが婚約解消を告げられた晩、鍵と一緒に返したはずのものだ。


 蓋には封紙が貼られていた。


 ――旧保守印箱。退職処理済み。王宮翻訳室確認のうえ、必要箇所へ補完可。


 日付は、サラが退職届を出した翌日だった。


「開ければいいだろう」


 廊下の奥で、ユリウスが短く言った。


「中身を見れば、誰が使ったか分かる。偽物なら偽物、本物なら本物だ。いつまで薬棚の前で芝居をする」


「本物か偽物かの前に、分けます」


 サラは箱へ手を伸ばさなかった。


「印箱という物。何を確認したことにされたのか。いま誰が責任を持っていることにされるのか。その三つを分けないまま開けると、また誰かの薬と帰り道が、閉じたことにされます」


 彼女は白紙を三つに折り、薬棚の横板へ留めた。


 左に、物。


 真ん中に、確認されたはずの内容。


 右に、責任の行き先。


「物は、旧ヴィント工房保守印箱。確認されたはずの内容は、王宮翻訳室による補完可。責任の行き先は――」


 サラはそこで止め、薬棚の最下段を見た。


 桃色の修理済み札が、まだ一枚だけ浮いている。


 リリア名義。西区慈療院薬棚、修理済み。患者名欄、空白。


「この札が閉じようとしているのは、棚板ではありません。ミナの夜薬、老薬師様の温度確認、夜明けまで冷やす責任です」


 老女がうなずき、右欄へ震える字を書いた。


 ――患者名未記載につき、薬棚返却不可。今夜の投与責任は慈療院薬師が保持。


 その一行を書いた瞬間、桃色の札はただの「妹の手柄」ではなくなった。


 薬を飲む舌と、棚を見張る手の間にある、まだ閉じてはいけない責任になった。


「次です」


 サラは北門二十七番灯の返却票を置いた。


 返却済み。王宮倉庫へ戻し可。


 隣に、エルの昨日の字がある。


 ――洗濯組二名と小麦倉庫見習い、翌朝通行未確認。


「返却済みは、帰着済みではありません。この灯りを倉庫へ戻してよいかを確認する責任は、王宮倉庫ではなく、北門で名を呼ばれる人たちにあります」


 北門番の若い男が、帽子を握ったまま前に出た。


「俺、門番帳に書きます。灯りは戻った。けれど、マリナたちが朝番へ戻るまで、帰着灯として門に残す、と」


「ご自分の名で」


「はい」


 彼は右欄へ書いた。


 ――北門番トマ。帰着未確認者のため、返却灯を一晩保留。


 サラは息を吐いた。


 薬棚と返却灯。


 どちらも、物は小さい。けれど、そこに誰の名が残るかで、王宮の大きな命令より重くなる。


 最後に、旧印箱だった。


 ユリウスが苛立ったように靴音を鳴らす。


「まだ開けないのか。サラ、お前の印箱だろう。自分で返したなら、自分で否定すれば済む」


「済みません」


 サラは蓋の封紙を見た。


「私の名を使ったからこそ、私の言葉だけで閉じてはいけません。退職者の否認で終われば、次は『退職者が知らないうちに確認した』と書けます」


「屁理屈だ」


「生活手順です」


 サラは三つ目の右欄に、まだ何も書かなかった。


 代わりに、箱そのものへ青い保留札を結んだ。


 ――旧保守印箱。退職後日付につき、本人使用未確認。生活影響明細未添付。薬師、北門番、旧工房記録係立会いまで開封保留。


「記録係だと?」


「工房に、印箱の欠けを毎月写す台帳があります。印の欠けは犯人の名前ではありません。どの生活手順を誰の責任として閉じたかを読む入口です」


 薬師の老女が薬棚の鍵を腰に戻した。


「うちの棚は、今夜までここで見張るよ」


 北門番トマが返却票を胸に抱えた。


「二十七番灯も、門に戻します。倉庫に戻すなら、全員の帰着名を書いてからです」


 旧工房の見習い記録係、ノエルは、震える手で小さな台帳を差し出した。サラが辞めたあとも、印箱の貸出欄を写せと言われていた少年だ。


「これ、昨日の写しです。サラ様の印箱、王宮翻訳室確認済みの箱と一緒に、補完可棚へ移されていました。でも、貸出人の欄が……」


 空白だった。


 サラはその空白を、急いで埋めなかった。


「ノエルさん。ここへ、見たままを書いてください。誰が借りたか分からない、ではなく、貸出人欄が空白のまま移された、と」


 ノエルはうなずき、台帳へ線を引いた。


 ――貸出人欄空白。旧保守印箱、補完可棚へ移動。本人確認なし。


 それで初めて、サラは箱を手に取った。


 開けない。


 薬棚、北門灯、旧印箱。三つを同じ棚板の上に並べる。


 そこは証拠棚ではなく、生活を閉じない棚だった。


「この箱は、私の名誉を取り戻すために開けません」


 サラは静かに言った。


「薬を飲む人、帰る人、印を押したことにされた人の責任が読めるまで、閉じないために残します」


 そのとき、印箱の底板が、かすかに鳴った。


 ノエルが顔を上げる。


「サラ様。底が二重です」


 ユリウスの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。


 サラは青札を外さず、老薬師と北門番に目で確認を取ってから、底板の隙間だけを開いた。


 中から、薄い青紙が数枚滑り出る。


 すべて、王宮翻訳室確認済み補完命令。


 すべて、生活影響欄が空白。


 すべて、退職後の日付。


 最後の一枚には、こう書かれていた。


 ――サラ旧保守印により、本人確認欄を後日補完可。


 サラは紙を破らなかった。


 ただ、青い保留札をもう一枚重ねる。


「返した印箱は、退職後の日付で開けられません」


 そして、空白の貸出人欄を指先で押さえた。


「けれど、開けた者の責任欄は、まだ空白です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ