第三話 多摩川の河川敷で死にそうになったことを思い出しました
あの日。
数週間前の、やけに空が青かった冬の日。
わたしは家で、ぬくぬくと雑誌を読んでいた。
空襲警報が鳴るまでは。
その日は学校が休校だった。
最近はもう授業はほとんどなくって、学校の工場で勤労奉仕ばっかりだったから、わたしの学力はきっと右肩下がりだ。まあ、元からそんなに高くないからいいんだけど。
で、普通は「警戒警報」が先に鳴る。
「あ、やばいかも?」ってなってから「空襲警報」に切り替わる。
なのにその日は、最初から「空襲警報」
サイレンが、けたたましく鳴りはじめた。
「え、いきなり!?」
家にはわたし一人。
お父さんとお母さんは工場。
小学生の弟――勝己、通称かっちゃんは、友達と多摩川に魚釣りに行っていた。
……多摩川。
川。
ひらけた場所。
飛行機から丸見え。
嫌な予感が、背筋をぞわっと走った。
ちょっとだけ迷った。
正直に言うと、ほんの一瞬、「危ないんじゃ?」って考えた。
でも。
「かっちゃん……」
わたしは防空頭巾をつかんで、家を飛び出した。
途中で、弟といつも一緒に遊んでる子たちに会った。
「まだ河原にいるよ!」
は?
まだ?
なんで!?
「先帰るって言ったのに、一人で残ってた!」
なんでそういうときに限って冒険心発揮するの!?
わたしは全力で走り出した。
防空頭巾、めちゃくちゃ揺れる。
息、もう限界。
土手を駆け上がり、河川敷に出る。
……いた。
遠くに、小さな背中。
釣竿を持っている。
「かっちゃーーーん!!」
わたしは叫びながら走った。
弟も気づいて、慌てて釣竿を片付け始める。
よし、間に合う。
そう思った。
――遅かった。
空が、鳴った。
爆音。
空気が震える。
わたしは反射的に空を見上げた。
青い飛行機。
初めて見る、白い星の印。
急降下してくる。
アメリカ軍の、戦闘機だ。
顔が、ニタニタ笑ってるみたい。
そして、まっすぐ、こっちに。
え!?
これ、狙われてる?
わたしと、かっちゃん?
なんで?
魚釣ってただけだよ!?
その瞬間。
翼が、チカチカと光った。
……光った?
え、それってまさか。
次の瞬間。
バッバッバッッ!!
何かが飛んでくる音。
ドスドスドス!!
地面に突き刺さる音。
土が爆ぜる音。
ヒュン!
何かが空へ弾き飛ぶ音。
音、音、音。
土煙が舞い上がる。
視界が真っ白になる。
わたしはかっちゃんの手を掴んで、覆いかぶさるようにしゃがみ込んだ。
そのとき。
なぜか。
「お父さんお母さんごめんなさい——」
って思った。
なんで謝ったのか、自分でもわからない。
本当に終わったと思った。
そのすぐあと。
頭の上を、飛行機の爆音が突き抜けた。
プロペラの轟音。
それから機関銃のダーーーッという音。
何かが空中でぶつかるような、怒鳴り合うような音。
そして。
ペシャン。
空から、かっちゃんのブリキのバケツが落ちてきた。
ぺしゃんこ。
……魚は?
って今それどころじゃない!
土煙の中、わたしはへたり込んだまま、かっちゃんの手を握っていた。
まだ、温かい。
まだ、握り返してくる。
……生きてる。
生きてる。
口の中がじゃりじゃりする。
土の味。
マッチを擦ったあとみたいな匂い。
でも。
弾は、一発も当たっていなかった。
奇跡。
奇跡って、あるんだ。
「……逃げ……るよ」
自分の声が、びっくりするほど震えていた。
かっちゃんは目を見開いて、何度も何度も頷いた。
立ち上がる。
足がふらつく。
でも、走るしかない。
弟の小さな手を引いて、土手へ向かって駆け出す。
振り返ると、さっきの青い戦闘機が、ゆっくりUターンしていた。
さらにその上を、もう一機が援護するように回っている。
つまり。
もう一回くる。
やめて。
ほんとやめて。
「かっちゃん……すこし……はやく……」
息が続かない。
足がもつれそう。
機関銃の弾で巻き上がった土埃が、風に乗って追いかけてくる。
サイレンが鳴り続ける。
飛行機の爆音が、ドロドロとうなる。
冬の多摩川。
本当なら、ただ寒くて、のんびりしてるだけの場所。
なのに。
その日、そこは戦場になった。
わたしは思った。
お願い。
もう一回だけ。
もう一回だけ、奇跡をください。
元気だけが取り柄の門倉紀依、
このときばかりは、元気なんて一ミリも役に立たなかった。
でも。
それでも。
弟の手だけは、絶対に離さないと決めていた。




