クラゲ男
ゆらゆらゆら。
人工的に作られた水流に乗って、クラゲが揺れていた。クラゲには、脳も心臓もない。それならば、彼らの実体は、どこにあるのだろう。水槽の前に座り込みながら、智也は思う。
「ちょっと、そこのクラゲ男さん」
キッチンから優しく呼びかけるのは、恋人の夕だ。狭いアパートに水槽を置き、暇さえあれば眺めている智也を、彼女はいつも愛情を込めてそう呼ぶのだ。
「そろそろ、出勤の時間じゃないの?」
夕に言われて、時計を見上げると、午後の五時になろうとしていた。
「人が寝ているときに働くなんて。大変な仕事よね、バーテンダーって」
スエットから綿パンに履き替える智也に、パーカーを差し出しながら、夕が言った。夕は、美人ではないが、愛嬌のある女だ。世話を焼きたがるところも母親に似ている、と智也は思う。そこが可愛くもあるし、ウンザリもしていた。
「徹夜には慣れたよ。僕、朝弱いしさ」
恋人に嘘をついていることにも、智也は慣れてきた。
「夕が起きる頃には、帰るよ」
アパートから一歩外に出ると、冬の凍てつく空気が、肌を刺した。職場までは、電車で一時間ほどかかる。電車の窓に映る顔を眺めながら、自分を作り替えていく。「クラゲ男さん」からカジノのディーラーへと。
その場所は、駅裏のじめじめとした薄暗い路地の迷路の先にあった。迷路の先は、灯りが一つもない地下へと続く階段だ。
「お客様、チップをどうぞ」
白のカラーシャツに黒いベストを着て、蝶ネクタイをした智也が声をかけた。目の前に座った恰幅のよい白髪の男性が頷いた。目から鼻にかけて顔の上半分をアイマスクで隠しているため、彼の素顔は、分からない。
「では、ルーレットを回します」
智也は、指先まで神経の行き届いた鮮やかな手つきで、白いボールをルーレットへ投げ入れた。左手は、テーブルの下のつまみへ。
「ノーモアベッド」
智也は、賭け終了の合図と共に、つまみを回し、ルーレット盤を操作した。
「あぁ。最初のゲームはいけてたんだけどな。ついてないね。今夜は、引き上げよう」
男性は、溜め息と共に立ち上がった。
「またのお越しをお待ちしています」
智也は、人好きのする笑顔で言った。
「また、ボーナス上乗せっスね」
バックヤードに下がると、後輩の裕樹が、右手の親指を立てながら、声をかけてきた。
「先輩のテクと度胸、憧れっス」
年上の馴れ馴れしく智也に接してくる裕樹だが、裕樹の賛辞に悪い気はしない。
「お前も早く大金を稼げよ」
裕樹にニヒルな顔を向けながら、智也は、パーカーとスエットに着替えた。そして、カジノの裏口から、地上への階段を昇った。冬の朝日は、まだ上がっていない。火照った体が、口から吐く白い息で急速に冷やされていった。アパートに帰れば、炊き立てのご飯に、温かい味噌汁が待っているはずだ。夕のニコニコとした顔を思い浮かべながら、アパートに帰った。そこには、知らない女がいた。
「朝早くから、ごめんなさい。彼女、私の友達なの」
夕が紹介したその女は、泣き腫らした赤い目をしていた。
「彼氏のところを追い出されたらしくて……」
おっとりとした夕とは、真逆な雰囲気を醸し出す女だった。泣き腫らしていてもその目は、冷静さを失っていないように見えた。智也には、分かった。演技だ。彼氏に振られ、女友達を頼ってきたようなフリ。相手を騙す時は、半分嘘を織り混ぜるのがコツ。女の友情を利用し、狙っている獲物は、多分、自分。智也の背筋に興奮が走った。穏やかさと相反する刺激に智也は、惹かれた。
「冗談じゃなくてさ、今帰ったらアイツに殺されちゃうかも」
俯いた女は、弱々しい声で言った。目を見開く、夕。
「でも、迷惑だよね。夕は仕事に行っちゃうし、このままここに居座るわけには……」
「僕は構わないよ。寝室で、少し休んでいくといいよ。僕は、リビングにいるから」
智也は、耳を撫でるような優しい声で言った。そして、夕には、目を細めたアイコンタクトで安心していいよと。
夕が仕事に出かけると、間を置かずして、寝室のドアが開いた。
「私みたいな美人が、彼氏に振られているのに、平々凡々な夕なんかに男がいるなんて、許せないじゃない?」
女は、ソファへ腰掛ける智也の膝の上に、向かい合わせに座った。智也は、女のブラウスの下へ滑らかに手を滑らせた。
ドサリという物音で目を覚ますと、夕が直立不動で立っていた。その顔は、朝帰りを繰り返す父親に、母親が向けていた顔にそっくりだった。ちっ、智也は冷たく舌打ちした。ソファに一人寝そべる智也の唇は、赤く濡れていた。
「このクラゲ男!」
夕は、床に落としたバッグを拾い上げ、投げた。ガツンと、クラゲの水槽に当たり、その衝撃で出来た水の波紋にクラゲが揺れた。
ゆらゆらゆら。
智也の視線が宙を漂う。
僕の実体は、どこにあるんだろう。