(16)本当の加護
学院のあちこちで奇妙な騒ぎが起き始めた。
階段の踊り場で背中を押され、落ちそうになった従僕が慌てて見回すと、夜の階段には自分以外に誰もいない。
恐ろしい夢にうなされて、夜中に目覚めた侍女が、水を飲もうとして起き上がると、耳元で聞いたことの無い女の声が――――“おまえかぁ”
また別の侍女は、朝目覚めてすぐに、顔を合わせた同室の同僚にけたたましい悲鳴をあげられた。その顔には、べったりと赤い物が……。
粗相をする貴族の侍女や従僕が増えた。何もない所で転ぶ。物を落とす。いきなり変な悲鳴をあげる。
その頃から、学院に1つの噂が広まり始めた。
“女神の呪い”
井戸の女神は、じつはかつて“呪いの女神”と呼ばれていたという。気に入った者には加護を与えるが、気に入らない者には逆に恐ろしい呪いを下す。
その力は王城の離宮を1つ消し飛ばしてしまったほどだとか。嘘だと思うなら調べてみれば良い。資料庫に消えた離宮の記録がちゃんと……。
――――そう言えば、最近様子がおかしかったり妙なことを言っている侍女や従僕たちは、女神のお気に入りの小間使いをいじめていた連中じゃなかったか?
“女神の井戸”の水を求めてやって来る人の数が一気に減った。
“女神の呪い”の噂に恐れをなしたのもあるのだろうが、なにより、井戸の水に特別な効果が見られなかったのだ。
顔を洗っても、特に肌が綺麗になった実感は無い。
持ち帰った水で洗濯をしても、他の井戸の水で洗った物と全然変わらない。これでは、重い思いをして水を持ってくる意味が無い。
『女神は自分を綺麗にしてくれたお気に入りの小間使いにだけ加護を与えたに違いない。むしろ、その小間使いをいじめたら、女神の呪いを受けてひどい目に合うのではないか?』
そう、結論づけられ、人々の足が第5洗濯場から遠ざかった。それにつれて、おかしな出来事もだんだん減って、“女神の呪い”騒動は終息していった。
そして、カリンの日常は元の落ち着きを取り戻したのだ。
お昼時。持ち寄ったお菓子や木の実でカリンはのんびりと休憩中だ。シェリーとライラはカリンの村の乾燥果実を美味しそうにかじっている。
2人とも、カリンの様子がここ最近おかしかったことに対して、とくに何も言わなかった。
ライラは「地方出身者が必ず通る道よ」と笑い飛ばし、シェリーは「早く立ち直ったほうじゃない?」と取って置きのお菓子をカリンに譲ってくれた。
「いやぁー、それにしても“井戸の女神様”詣での連中が来なくなって良かったわね。傲慢だし、うるさいし、仕事の邪魔だし。なにより、人がいっぱいだと、ここでさぼれないし」
ライラはやれやれと肩をすくめて首を振る。
「良かったわね。カリンが辛そうだったもの。ここで小間使いをしていくなら、いつかは貴族様にも関わっていかなきゃならないけど。初めは少しずつ慣れていけば良いのよ」
シェリーは乾燥果実を食べてしまうと、内職の繕い物を取り出した。仲間の繕い物を請け負って稼いだお小遣いは、全て実家に送っているのだ。
学院中に駆け巡った“女神の呪い”の噂について、ライラはとても詳しく知っていた。話し方もとても上手く真に迫っていて、「夜中にトイレに行けなくなったらどうしてくれるのよ」とシェリーが怒っていた。
カリンもライラの話の上手さにドキドキしたが、怖いかと聞かれると……。
(これって、多分パットとジャックの仕業よね)――――チカッ
パットはわからないが、ジャックは不思議な能力を持っているとカリンは思っている。
カリンが魔力感知で探り当てた場所から一瞬で別の場所に移動していたり、何も無い所からいろいろな物を取り出したり、仕舞ったり。
ジャックなら、今ライラが話していた不思議な出来事をしかける事も可能なのではないかと思う。
でも、なぜこんなことを。
(私のため……のわけは無いわね。ただの悪戯?)――――チカッ?
「あのお坊っちゃま(?)に会うことはもう無いわよね……きっと」――――チッカッ?
リンの返事は少し疑わしげだ。
その後、井戸の女神様が元気になるにつれて、井戸の水に女神様の魔力が少しずつ溶け込んで、カリンの目には水がキラキラ金色に光って見えるようになった。
この女神様の魔力が、カリンの魔力同様の働きをしてくれることにはすぐに気づいた。つまり、この井戸の水を使えば、カリンは自分の魔力を使わずに洗濯魔法を使うことができるようになったのだ。
この水が飲むととても美味しい。おまけに休憩中の魔力の回復が早くなるような気がする。
じつは、水と一緒に女神様の魔力を取り込むことで、ほんの少しずつカリンの保有魔力量が増えていたのだが、それに気づくのは、かなりあとのことになる。
◇◆◇◆◇
「“連座”ですか」
「どうやら、自分と関わりのある人々が自分の巻き添えになってしまうことを心配していたようですね」
学院長は、従僕頭執務室の壁1面を占めるたくさんの手配書きを思い出した。
「言葉の意味を教えた時に、もっと詳しく説明していれば、あの子もあんなに悩まずにすんだのでしょう。言葉足らずだったと反省しております」
マシューは学院長に頭を下げた。
そもそも、この国の“連座”の対象になるような大罪人は、王都の門をくぐった時点で捕縛されている。
そして、他国から回ってきた手配書きの場合、我が国に害を及ぼすような罪人でなければ、積極的に捕縛に動くことは無い。
ましてや、知らずに助けた国民を罰することなどあり得ない。
マシューの説明でほっとした様子のカリンに、ここしばらくの彼女の苦しみを思って、マシューは胸を痛めた。
あの子は小さな胸に全てを納めて、たった1人で生きていこうとしていたのだ。
「夜中の仕事は、まだ続いているのですか?」
学院長は眉をしかめている。貴族の侍女や従僕たちの、カリンへの暴言や横暴な振る舞いについてはしっかり報告されている。
カリンが仕事の時間をずらしたのは、魔法を隠すためだったのだろうが、酷い差別が心に影を落としていたことも確かなことだろう。
「それについても、解決に向かいそうです。なにやら、“リシア様”がはりきっておいででした」
「――――ほう。ならば、殿下の悪戯にも目をつぶらねばなりませんね」
「学院長」
マシューにたしなめられて、学院長はくすりと笑った。
「そうですね。まだあの方には、リシア様でいていただかなければなりませんね」




