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ずっと忘れていたあの時の記憶、今、あの時のことがハッキリと思い出される。
自分はあの時、既に『伽音』と名乗るこの少女に出会っていた。
それなのに、なぜ、あの時のことをすっかり忘れてしまっていたのだろう。
それも含めて彼女の力なのか。
その少女が今、目の前にいる。さっき、この少女は自らを『魔化』であると言った。そして、音無雅緋と向かい合っている。
雅緋が伽音のことをどこまで知っているのか、それはわからない。だが、確実に伽音を敵として認識している。いや、敵どころか憎悪の対象として見ているのが感じられる。彼女にとって大切な存在だった美月ふみのの死の原因が伽音であると思っているに違いない。
呉明沙羅という最強の霊体をその身に宿す雅緋は、瑠樺から見ても頼もしい存在だった。『妖夢』と化した一条春影の力をいとも簡単に打ち破るほどの力を持っていたし、『堕ち神』となった矢塚冬陽をも打ち倒すだけの力がある。
その雅緋が伽音に向かって近づいていく。
しかし、今、この伽音という少女は、その雅緋を前にしても決して怯んでいるようには見えなかった。落ち着き払った態度で雅緋の動きを見つめている。
それでも伽音は戦いを避けるように大きく飛び退いた。そして、笑み浮かべて、そのまま背を向けて闇の中へと消えていく。
(違う)
あれは雅緋を恐れての行動ではない。むしろ、雅緋を誘っているかのように見える。
今の雅緋は怒りで我を忘れている。
雅緋が伽音を追っていく。その姿が一瞬、狼に見えた。
「待って」
瑠樺は雅緋を止めようとした。だが、それは声にならなかった。
あっという間に伽音の姿も、それを追っていった音無雅緋の姿も見えなくなっていった。
雅緋を追わなければいけない。そう思いながらも身体が動かなかった。
既に伽音の姿が見えなくなったというのに、まだ身体が震えている。
恐怖だけの問題ではない。何かが身体のなかに入り込んで蠢いているように感じる。これはーー
(邪気)
胸が苦しい。
その邪気によって、自分という人間が黒く変色していくような感覚がしてくる。
瑠樺は大きく息を吸い込み、自らの中の邪気を消そうと試みた。少しずつ、少しずつ、身体のなかの黒いものが消えていく。
これも彼女の力なのだろうか。恐ろしい力だ。
追っていった雅緋は大丈夫だろうか。雅緋ならば、彼女に勝てるのだろうか。
やっと呼吸の乱れが整ってくる。
その時、誰かが近づいてくる気配を感じた。
(雅緋さん?)
一瞬、雅緋が戻ってきたのかと、瑠樺は顔をあげた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたのは蓮華芽衣子だった。
「蓮華さん、どうしてここに?」
「さっき千波が帰ってきたので、一条家に行けばお嬢様がいられると思ったのです。何かあったのですか?」
蓮華は瑠樺の身体を抱き起こした。
「さっき、伽音さんがここに」
「え? 伽音?」
やはり蓮華はその名を知らないようだった。だが、今は詳しい事情を説明している時間はない。
「ありがとう。それより早く雅緋さんを」
「雅緋さん?」
「雅緋さんが伽音さんを追っていきました。早く追わないと」
急いで雅緋たちを追いかけようとした。だが、まだ身体の自由が効かず、ガクリと倒れてしまいそうになるのを蓮華が支える。
「どうしたんですか? 伽音って誰のことです?」
「あれは……『魔化』です。彼女が裏で動いていたんです。雅緋さんは彼女を倒すために追いかけていきました」
「『魔化』?」
「そう。私、忘れていたんです」
「忘れていた?」
「ええ、すっかり忘れていたんです。彼女の顔も名前も、そして、会ったことすら」
「待ってください」
蓮華が何かを思い出したように言った。「私も知っています。その人に……伽音に会っています」
「本当ですか?」
「はい、どうして忘れていたんでしょう? そうです。草薙君に会いに行った時です。彼と別れた直後に会ってるんです。あの人は危険です。危険な人です。それなのに忘れてしまっていまいた」
蓮華の声がわずかに震えている。
「蓮華さんも? やっぱりそれも彼女の力の一つなのかもしれません。やっぱり雅緋さんを止めないと」
「どこへ行ったのかわかるんですか?」
「いえ……」
「一度、一条に行きましょう。誰かの手を借りないと」
瑠樺は蓮華の肩を借りて立ち上がった。