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その少女と初めて出会ったのは、矢塚の屋敷に向かう途中だった。
当時、妖かしに異変が起こりつつあり、それについて矢塚に意見を訊いてみるつもりだった。
その向こう側から、軽やかな足取りで踊るかのように真っ白な可愛らしいワンピースを着た少女が歩いてきた。
矢塚の住む屋敷は山の中腹にあって、周囲には寺や墓地があるものの葬儀や墓参りの時は車で訪れる人がほとんどで、そんなところを歩いている人の姿を見るのは滅多に見ることはなかった。
「あれぇ、そこにいるのは二宮瑠樺さんじゃありませんかあ」
瑠樺を見るなり、少女は少しわざとらしいような高い声を出した。そして、跳ねるような足取りで瑠樺に近づいてくる。
少女はピョンと大きく飛び跳ねて、両足を揃えて瑠樺の前に立った。それはとても可愛らしい仕草であったが、なぜか瑠樺は可愛さどころかわずかな怖さを感じた。
「あなたは?」
「伽音です。双葉伽音と言います」
瑠樺の前に立ったその少女はそう名乗った。その姿からは同年代のように見えるが、その雰囲気からは正確なところがまるでわからない。
「伽音さん? どこかで会いましたか? どうして私のことを?」
その少女に瑠樺はまったく見覚えがなかった。だが、どこかで会ったことがあるかのような、なぜか懐かしい感じがしている。
「あなたは有名ですから」
「ごめんなさい。私、あなたのことはーー」
「いえいえ、お気遣いなく。今のあなたの知る必要のないことですから」
「必要がない?」
「こちらの話です」
どこか含みを持った言い方が気になる。
「では、私に何か?」
「おや、冷たいですね。ずっとお話してみたいと思っていたのですよ。私はあなたに興味があるのです」
「興味? どうして?」
伽音の言葉は一つ一つが気になるものだった。
「だって、あなたは特別な人ではありませんか?」
この少女は何を言っているのだろう? 特別……それは『妖かしの一族』のことを言っているのだろうか。
「私は普通ですよ。普通の高校生です。あなたはどうなんですか?」
「私ですか? あなたが普通なら私も普通。でも、私たちはとても普通とは言えないんじゃありませんか?」
やはりこの少女は『妖かしの一族』のことを知っているようだ。だが、それを訊いて、彼女は素直に答えるだろうか。そういう女性には見えない。
「伽音さん……っていいましたね。こんなところで何をしているんですか?」
「道に迷いました」
「道に?」
「はい、迷いました。道を歩くのは難しいものですね」
「ここは一本道ですよ。山に登るか、山を降りるか」
「いえ、それは目に見えている道でしょう。確かにあなたに道など必要ない。なんといってもあなたは『和彩の一族』だ。道などなくても飛んでいける。私のような者とは違います」
薄い笑いを浮かべて伽音が言う。
「伽音さん、と言いましたよね。あなたは何を言っているんですか?」
「私はあなたたち一族のことを話しているのですよ。恍けるのは止めましょう」
いったいどちらが惚けているというのだろう。
「あなたは誰なんです?」
「あれ? さっき名乗ったはずですが。早くも忘れてしまいましたか? もう一度、名乗りましょうか?」
「名前は聞きました。双葉伽音さん、でしたよね。知りたいのはあなたの存在です」
「存在ですか。それは難しい質問です。それは私が聞きたいくらいですよ。人は誰でも自分が何者か悩むものですからね」
「いえ、そんな哲学的なものじゃなくて、私が言っているのはーー」
「『樽一杯のワインに一滴の泥水を入れればそれは樽一杯の泥水になるが、樽一杯の泥水にワインを一滴入れてもそれは樽一杯の泥水である』」
一瞬、伽音が何を言ったのか、瑠樺には理解が出来なかった。
「え?」
「そういう言葉があるのをご存知ないですか?」
「聞いたことはあったかも」
瑠樺はその言葉を思い出そうとした。だが、それはわずかに耳にしたことがあるような気がするだけで、それをいつ聞いたのか、どんな意味だったかも思い出せなかった。
「あなたは自分をどちらだと思われます? ワイン? それとも泥?」
「そんな質問にどんな意味があるんです?」
あまり答えたいとは思えるものではなかった。
「私の存在をあなたは聞いたじゃありませんか。だからこうして話しているのです」
「人を泥扱いするなんて、私は好きじゃありません」
「おやおや、らしくないですねぇ。あなた、和彩なのでしょう? いや、本当は一沙でしたか。字を変えると中身も変わってしまうのでしょうか」
ハッキリとした理由はないが、彼女の言葉には不快な感じがする。
「何を言っているの?」
「あなたたち一族の本質は『和』ではなく『一』だと言っているのですよ。一人であり、一番であり、唯一無二の存在である。それがあなたたちの本質なのではないのですか」
彼女の口調はおとなしい。だが、その言葉のなかにはどこかしら強い攻撃性を持っている。そして、それは意識的なものだ。だからこそ、彼女の言葉は不快に感じるのだ。
「あなたは誰なの?」
「またその質問ですか? それは私こそが知りたいのですよ。あなたがそれを教えてくれるんじゃないかと期待すらしているのですよ」
「今日出会ったばかりの私がですか? それならもっとちゃんとあなたという人がどういう人なのかを伝えてもらわないと」
「私を理解しようというのですか?」
「理解出来なきゃ、あなたが誰なのか教えてあげられないじゃありませんか」
少しムキになって瑠樺は言った。彼女に言い負けたくない、そんな気持ちになっていた。
「あなたは大きいですねぇ。こんな私のことをも理解しようと、受け入れようと思うのですか。でも、遠慮しておきましょう。とりあえず今日はこの辺で止めておきましょう。では、またいずれお会いしましょう」
伽音はそう言って、再び踊るような足取りで去っていく。その後姿を見送りながら、瑠樺は奇妙な不安を憶えていた。
(あれは?)
何か悪いことが起きそうな予感がしている。
彼女は『妖かしの一族』を知っている。矢塚ならば、彼女のことを知っているだろうか? 矢塚に聞いてみようと思った。
だが、その思い長くは続かなかった。
瑠樺は、それから間もなく彼女のことを忘れてしまったからだ。