三話,夢じゃ、ないんだ
遅れましたが更新です。すこしばかり今度の展開にいけるようにしてみました。
「あれ? 何か違う……?」
さっきはよく部屋の中を見ていなかったけど、靴を脱ごうとした瞬間に、早速の違和感。さっき、帰ってきたときとは明らかに室内が違う。
「少々乱雑に物がありましたので、勝手とは思いますが、利便性と実用性を考慮して整理させて頂きました」
「あ、そうなんだ……」
そろそろ掃除をしないといけないとは思っていた。だから整頓された室内に驚きと同時に、ちょっとだけ楽した気分をした気もした。でも、だからって……。
「家具、一人で動かしたの?」
元の室内は、真ん中にテーブルがあって、壁際にテレビがあって、後は適当にボードと小さい収納タンスがあった。それがコーナーボードの上に移動されて、テレビとタンスの位置が明らかに異なる場所にある。俺としては、明らかに慣れるまでは使い勝手が悪いと思えるんだけど、そう言えるほど、この子のことは知らない。
「はい。物体に関しては私が宿す神通力によって物体の移動、修繕、復繕、思念の読力など、色々と自在に操ることが出来ます」
職人と言うか、ロボットの解説を聞いているみたいだ。とりあえず、それがどうかは怪しいけど、この子が一人でタンスを移動させられるようには見えない。アリバイは有る、か。
「お体が冷えてしまわぬ間に、こちらへお着替えをどうぞ」
「あ、うん」
何も言っていないのに差し出される、いつもの部屋着。よく分かったな。
「それでは私は温かいお飲み物をご用意してまいりますので、お着替えをお済ませになってください」
「……ありがとう」
「いいえ」
此乃芽が笑みを残して玄関からの短い廊下にある小さなキッチンへ、ドアを閉めた。そのあまりに自然な動線と言うか、流れに唖然と取り残される。てっきり着替えの時まで傍にいるものだと思っていたから、身の引きの早さに言葉が出てこなかった。
「……着替えるか」
足元がいい加減冷たくなっている。
「このストーブ、どこにあったんだっけ?」
昨日まで、銭湯に行くまで室温はテレビの放熱で主に部屋を暖房していた。でも、今はどこにあったのか、それとも貰ってきたのか、買ってきたのか、紅い小さな一番安いタイプのストーブが点っていた。
「ストーブですか? 押入れを整理させていただいていた時に奥にありましたが、少々型が古く痛んでいたので、私が手を施して、暖を取れるように戻しました。駿さんは物を大切にされているようですので、案外手をかけることも無く治りましたよ」
聞こえていたらしい。ドアの曇りガラスの向こうで此乃芽の黒い髪が動いている。先に下を履き替え、上を着替える。洗濯物を洗濯機に入れようにも、雨音が窓を打ち、ベランダに出られそうも無い。
「お着替えはお済ですか?」
「ああ、うん」
返事を聞いてからドアが開く。両手に持っていたのはココアらしく、香ばしくも甘い香りがした。ちゃっかり自分の分も入れているとは、本格的に話し合うつもりなのか、居座るつもりらしいんだな。
「お洗濯物はそちらのかごへ入れて置いてください。折を見て私が洗濯いたします」
「いやいや、それは自分でするから」
そんな家事を他人に任せてられない。そもそも一体何なんだ、この子は。
「いいえ。家事は女の務めです。妻である私の仕事ですから、駿さんは私に任せて大きく腰を下ろしていてください」
何、その古女房みたいなの。そもそも、妻じゃないし、一人暮らしなんだから家事は自己責任だ。見ず知らずの女の子に自分の洗濯物を洗われるなんて恥ずかしいって。
「いや、俺の家だから、俺がするから。それよりも、ちょっと座ろう」
落ち着いて話をすることが先決のことだ。いきなり人の家に上がりこんで運命の人だ、妻だ、と言い寄られて納得する男はいないだろう。多分。
「お味はいかがですか? 駿さんは少々甘めがお好きですから、甘めに作ってみたのですけれど……」
「あ、うん。美味しいよ。ちょうど良いかな」
「そうですか。良かったです」
早送りで花が開花するようなふんわりとした笑顔。嬉しいのだと分かる。少し心がココアの甘さとこの子の笑顔に落ち着きをもたらす。長らく感じたことのない安らぎと共に。
「って、そうじゃなくて」
「はい?」
何を和んでいるんだ、俺は。違うだろ。自分自身をそう叱咤する。
「君は、誰だ?」
「私は此乃芽と申します。先ほどもご紹介に預かったかと思うのですけれど……」
確かに。名前は聞いた。近所の此乃谷観音からどうのこうと言っていた。別にそれを聞きたいわけじゃない。もう聞いたんだからな。
「……では、何を?」
「どうして俺の部屋にいた? 運命の人って何? 顕現したってどういうこと? その姿は何なんだ? 誰の差し金? それとも本当は泥棒か何かか? どうやって俺の部屋に入った?」
聞きたいことは山ほどある。俺が学校から帰ってきてからの数時間。一体何が起きたのか。この良くできているとは思うが、正体不明の女の子の謎。それを解かないことには解決する道はない。
「? ?? ???」
でも、何故か此乃芽は目をぱちくりさせながら、首を傾げて俺を見る。通じてない?
「あ、あの、もう少し、ゆっくりと、お願い出来ますか? 私、まだ顕現してから時を経ていないので、言葉というものを理解するには、一気にとはさすがに聞き取れずでして……」
今度は泣きそうに、申し訳なさそうに言う。日本語の理解が遅れているのか、それとも単に俺が早口で一気に捲くし立てるように言ってしまったからか、その表情には罪悪感を覚えてしまう。
「はぁ。じゃあ、聞くけど」
「はいっ」
何でそんなに嬉しそう? 急に笑顔で詰め寄られても。
「近くない?」
「いいえ。駿さんの一言一句を聞き逃さない為にも、これでも遠慮しております」
あ、そう。じゃあ図々しいんだね、君って普段。すっごい眩しい。きらっきらした目で見られてる。俺は問いただしたいだけなんだ。別に期待させるようなことは何一つない。
「ま、まぁ。それでさ、えっと、此乃芽、さん」
「此乃芽で構いません」
呼べないって、だから。そこを突っ込むと負けなんだろうな、こういう時。教訓は嫌と言うほど体験している。
「何?」
いちいち聞くのが面倒だから、二文字にまとめてみた。
「何? と申されますと、如何なことでしょうか?」
伝わらない、か。分かっていたんだけど、とりあえずってやつだ。でも、その反応に一つの答えを俺は得た。悠さんや沙奈姉に仕込まれたとあらば、あの二人と似た空気を吸っている可能性が高い。故に、今の問いかけに純粋な返答をすることは望めない。沙奈姉が部屋に急にいて、俺が同じ質問をすれば、恐らく……
《何って、暇だったから、来ちゃった》
とか、
《あ、そうそう。これおすそ分け。今日ね、商店街に行ったらね、お肉屋のおじさんがオマケしてくれたの。あ、それからね、八百屋の……》
とか、聞いてもいない自慢話を言うに違いない。ましてや悠さんなら、ほぼ確実に自信を持って思える一つの答え。
《ナニ? ナニならついてるじゃん。駿のそ・こ・に》
指差しながらの下ネタが返ってくる。間違いない。
どちらかの空気を吸っていれば、きっと何らかの尻尾を見せるはずと思う。それがないとなると、二人との関係性は希薄。俺を見る此乃芽の表情が、ごく普通の疑問を持ってる。見事な一般人反応だ。
しかし、そうなると疑問は深まる。誰の差し金か。柚木夫妻はありえないだろう。薄い壁から聞こえるテレビの音量が大きくなってる。情事でも始めたか? もう慣れたから良いけどさ。こっちは青少年なんだから、気を使うとかして欲しいものだ。
じゃあ、他の人。まことはありえない。別れ際の表情、声色にはいたって普通。むしろこういうことをするに当たっては、
《ちょっと待てっ。何で駿なんだよっ! 俺っ、俺はっ!?》
って言うに違いない。他の部屋の人は最近はあまり見ないから、まずこういうことをすることはないはずだ。良く知らない人もいるし。
「どうして、俺の部屋にいるんだ? 鍵は掛かってたはずだよな?」
一番の疑問から入ることにした。
「はい、そのことでしたら、私は顕現してはいますが自在に壁をすり抜けたり出来るので、この通り……」
放しながら立ち上がり、壁の方へ歩いていく。そっちの壁は柚木夫妻の部屋だ。
「えっ……?」
と思ったのも束の間。此乃芽が何もない場所を歩く感覚のまま、壁の中へ消えた。
「っきゃあぁぁっ!」
「うわっ!? 何っ?」
と思った瞬間、此乃芽が壁の中から走って戻ってきた。顔が真っ赤になっていた。
「しゅ、しゅしゅしゅ、駿さんっ!」
「は、はいっ?」
いきなり目の前に来て、ぺたんと座ったかと思ったら、ずいっとまた顔を近くに寄せて、強く俺を呼ぶ。何故か少し怒った顔で。
「ど、どどど、どうして仰って下さらないんですかっ!?」
「は? へ?」
何のことだか分からないけど、俺が悪いみたいに言われた。
「お、おおおおとなりの方々で、でですっ! あの、その、あの、その……」
目の前で顔を赤くして口ごもられる。その顔が一瞬か可愛いとか思えたけど、その慌てようにすぐにことを理解した。
「あ、あぁ。やってたんだ?」
さっきからテレビのボリュームがやけに大きいし、さっきあんなの見たから想像は容易い。しかも週末だし。
「っ!? や、やややややって……っ、しゅ、駿さんっ! ど、どうして仰って下さらないんですかっ! そ、その……目の当たりにしてしまったじゃないですかっ?」
いや、俺にそんなことを怒ってこられても、自分でそっちに行ったんじゃないか。
「もしかして、気づかれた?」
「い、いえ……その、見られては、いません……けど」
それは良かった。もし目があったりでもしたら大変なことになっただろうな。俺なら、当分顔は合わせられないし。
「って!、そうじゃなくて、今、今、壁をすり抜けたっ!?」
顔を赤くしてため息を漏らす此乃芽を苦笑して見ていたら、現実を思い出した。目の前から壁をすり抜けてたぞ、この子。あ、ありえねぇ……。
「は、話を戻しますけど、私は特別な場所でない限り、あらゆる場を……そ、その、すり抜けられるんです」
思い出したのか落ち着いてきた顔色がまた赤く染まった。俯く仕草が何か可愛い子だ。
「そ、そうなんだ。じゃ、じゃあ、君は何なの? 人間じゃ、ないんだよな?」
「それは何度も申しました通り、私は此乃谷観音菩薩の顕現です。だから、人とはまた異なる存在なのです」
正座して、目を合わせてくる。冗談か何かかと思ったけど、今のすり抜けを目の当たりにした以上、人ではない存在ということは認めないといけないらしい。
「あ、あのさ、もしかして……幽霊とかじゃ、ない?」
「違います」
即答された。そんな一瞬で応えられると、はいそうですか。としか言えない。でも、現実を生きる俺としては幽霊と言うことにする方が納得はいく。恐いけど。そう言う心霊現象の類? は苦手なんだよな、俺。
「ほんとに?」
でも、此乃芽に関しては恐いという気持ちは今は、湧かない。多分、足があるからかも。
「はい。霊的存在の一つであることに違いはありませんが、私は死した魂ではなく、生まれた御霊をこの体と言う器に注ぎ込まれただけですから」
じゃ、じゃあ、人の体に乗り移ったってことだろ? それって、やっぱり……。
「あ、あのさ、とにかく、出て行ってくれない?」
鳥肌が立つことはない。恐怖と言う恐怖はそこまではない。驚きが大きいだけで。
「ど、どうしてですかっ!? 私は駿さんの為に、こうして顕現したんですよ? 駿さんにお仕えする為に、ここにいるんです」
頼んでないし、祈ったこともない。そんないかにも俺が神様にでもお願いした結果、こうなりました。みたいに言われても、困るって。
「とにかくさ、ここにいられると困るんだ」
「え? あ、あの、駿さん? ど、どういうこと……って、あぁっ?!」
立ち上がらせて、背中を押す。玄関まで。裸足だとさすがに可愛そうだったから、悠さんが置いていった女物の靴を履かせて、玄関の外に追い出した。この秋の夜の長雨の中を追い出すのは忍びないとは思う。けど、俺は信じない。
「玄関を出て、三軒隣に大家さんの家があるから、そこで何とかしてくれ」
「え? えぇ? しゅっ、駿さんっ! 開けて下さいっ! 入れて下さいよっ」
無理です。ここは俺の部屋です。あなたの部屋ではありません。
「壁すり抜けて入ってきたら警察呼ぶからな?」
「ひ、ひどいですっ! 駿さんの為に生まれてきたのに、この仕打ちはあんまりですよぉ……」
頼んだならともかく、そんな身勝手を言って居座るほうがあんまりだ。
「とにかく、何かも間違いだから。大家さんに何とかしてもらってくれ」
ドアの向こうからは相変わらず俺に開けてくれと泣き言交じりに聞こえてくるけど、入ってはこない。警察が恐いのか? 保護くらいしてくれるのに。さすがにこの昨今、見知らぬ人間……いや、幽霊みたいなものを大人しく居座らせる人はいない。正直追い出して、自分が緊張なのか、恐怖だったのかを知った。全身から力が抜けた。
「うぅ……駿さん……っ」
ドンドンとドアを叩いていたのが、コンコンに変わり、今度は泣き落としなのか、泣いて縋ってくる。良心が責め立てられるけど、ここは頑なにならないと本当に困る。沙奈姉との面識は乏しいみたいだから、こんな所を見られたら、追い出されかねない。それだけは阻止しないと、行く場所がなくなる。ここが俺にとって最後の楽園なんだ。心を鬼にして鍵をしっかりかけて、部屋に戻った。きっとすぐに諦めてくれるだろう。
「さて、もうこんな時間か」
明日は半ドンで授業がある。ゆっくりする時間がなくなったのは惜しいけど、それでも日課を欠かすことが出来なかった。
勝手に電気を使われていた分、テレビはつけない。それでもやることはある。部屋の一角、俗に言う仏壇というもの。けれど本格的なものを取り揃える余裕はなく、位牌とちょっとした神棚のような作り。後は写真。そこに移る家族は幸せそうで、どれほど楽しい一日を過ごした所で、この時間になるとその高ぶる気持ちは静かになる。
「これは、日課なんだよ。悲しいわけじゃないからなっ」
何か、誰かに見られている気がして、思わず言ってしまう。さっきの此乃芽のこともあって、思わず振り返る。安堵のため息が、当たり前だった数時間前との世界のことが嘘のように思えてしまった。俺の行動音しかしない室内は、微かな肌寒さが立て付けの悪い窓から少しずつ肌に感じる。それが余計に孤独と言う、どんなに楽しいことも、嬉しいことも消えてしまう、たった一つだけの思いを呼び起こし、自分の口から言葉が出ることすらも虚しくなった。
「……承知しておりますよ」
そっとドアに背をもたらせ、此乃芽が外まで聞こえてきたその声に、そっと瞳を閉じた。
「ですから、私はあなたの元へやって参ったのです」
誰もいない室内で、一人で突っ込む駿を、ドアの向こうでは先ほどまでしくしくと中へ入れて欲しいと泣いていた此乃芽が微笑みを今は浮かべていた。
「それにしても……」
閑散とした廊下。裸電球が不気味に静けさを演出し、薄い窓を叩く雨脚の強さが、更なる冷え込みを呼ぶ。
「…………」
微かに聞こえる駿の室内の声と、隣室の生活音が不協和音を奏で、此乃芽の表情が微笑から強張る。
「…………っ」
そっと後ろに伸ばす手。背中越しにドアノブに触れ、恐る恐るドアノブをまわす。しかし、若干の遊びにドアノブは廻るが、一定の所に来ると、鍵にそれ以上の回転を阻まれる。ガチャ、ガチャと此乃芽が動かすが、廻らない。次第に強くなる雨脚に、接続不良なのか、単に電球切れなのか、裸電球が点滅を始める。
「ひっ……」
がたがたがた、とその時強風に窓ガラスが揺れ、廊下に冷たい風が流れていき、此乃芽は思わず小さな悲鳴を漏らした。自分がこの町の菩薩の顕現であるらしいが、幽霊と言うものに対しての耐性はないのか、落ち着きなくドアノブをまわしつつ、辺りをきょろきょろ見ていた。
「あ、あぁ、開けてくださいよぉ、駿さぁ〜んっ」
ぎしぎしと軋む建物に、此乃芽は再び先ほど同様にドアを叩いていた。
走っていた。
「……うぅ、ん……」
あてもなく。けれど救いを求めて。
「……さ、ん……」
どこまで行っても助けはない。けれど走る。逃げるんだ。違う。助けないといけないんだ。
「……さ……ん」
ただ、恐くて逃げる。それはダメだと分かっているから。でも、何も出来なくて、ただ走る。
「だれ……か」
あのままだと、きっともう取り戻せない。分かっているのに、逃げてしまう。生きたい。その唯一つの思いに走る。息が切れているのに、横腹が痛いのに、後ろにいるのに、走る。逃げる。助けを呼ばなくちゃ。助けて。助けて。助けて。気持ちだけはそう強くなって、苦しくなる。追いかけられていないのに、恐怖が背中から襲い掛かってくる。振り返れ。強く思っても、体が拒否する。振り返ってはダメだ。ダメだ、今すぐもドレ。嫌だ、モドらない。
心と体が一致しない。すぐ後ろに何かがいる。すぐ後ろからやってきている。今ならまだ救える。救えるのに、救えないから逃げて、変わりに救えるものを探す。体はそれを強制的に俺を走らせる。
「うぅ……う……」
全てが真っ黒で、何も分からず、何も見えず、走り続ける。
「うっ……」
でも、その足は遅く、幼い。もつれて地面に倒れる。呼吸すらまともに出来ない。足が痛い。おなかが痛い。でも、逃げるしかないんだ。ダメだ。そう叫んでも、体は立ち上がり、逃げ出そうとする。ダメだ。そうしたら、死んでしまう。戻れ。戻れ。戻れ。戻れっ。戻れぇっ! 心が弾けるくらいに叫んだ。それじゃ、あれがまた起きる。俺が壊れても良い。だから戻れ。そう強く叫んだ瞬間、足元から急に吸い込まれるように体がどこかへ落ちた。
「……っ!?」
体が小さく跳ねて、視界が明るくなった。
「私は、いつでもあなたの傍におります。誰よりもあなたを愛し、ここにおります」
見上げた世界には、四角い電灯がぶら下がっていて、眠っていたことを、徐々に思い出す。
「此乃芽はあなたの為に、ここへ参り、今生、あなたの傍で、あなたにお仕えし、あなたを愛します」
「……っ」
同時に、耳元がくすぐったくって、身震いしてしまう。
「いつも隣で見ています。誰よりも深く愛し、如何なる時もあなたをお支えいたします」
気だるさを押さえ、顔を横へ向けると、視界一杯に何かが映る。
「…………」
次第に、今までのは夢であったのだと、心が平常を取り戻し、布団は温かいのに、体が冷たさを訴える。それでも頭はそれを捉えようと、急速に回転を始める。
「あなたは私の運命の人です。常にあなたを考え、あなたを想い、あなたの傍で、あなたをお守りいたします」
どれくらいだろう? 耳元で相変わらず囁かれる、聞いているこっちが恥ずかしい台詞を耳にするのは。それでも、寝起きだからか、その囁きに恥じらいや嬉しさなど湧いてこない。むしろ、言葉も無いと言った方が妥当なくらいに、冷めてくる。
「わたしは、あなたに会―――」
「……何でいる?」
「う……? へ? あ、あぁ、お、おはようございます」
やがて覚醒した頭が、それを認識する。夢であればと後悔の思いと同時に。
「もうお目覚めになられたんですね」
先ほどのゆったりとした時とは違い、急に自らが恥ずかしそうに、慌てて俺から離れ、何事も無かったように言ってくる。
そこにいたのは、やはり此乃芽だった。
「何でいるんだ?」
ゆっくりと体を起こす。まだだるさが抜けきらず、少し体が重い。
「え? あ、あの、それは……」
俺の問いかけに、ばつの悪そうな笑顔になりきれていない笑顔で、視線を逸らす。昨日、勝手に入ってくるなと言ったはずだ。しかも鍵もきちんと掛けた。なのに、此乃芽がいた。俺の枕元でやたらと恥ずかしい台詞を囁きながら。
「お前のせいか?」
「え? えっと、な、何が。ですか?」
ここ最近、夢は見ていない。見たとしても目覚めと同時に忘れている。なのに、今でもはっきりと脳裏に焼きついている夢に、今日は朝の清々しさなど感じられない。むしろ、気持ちは不機嫌だ。
「…………」
「あ、あのぉ、しゅ、駿、さん?」
前に悠さんに聞いたことがあるし、実践させられたことがある。人の夢は外部刺激による影響があるらしい。寝ている人間に外部から刺激を与えることで、その人にとって見る夢が変化するらしいと。だから試してみようと、俺は悠さんに寝て居る時に何かをされた。おかげで、今日見たく、思い出したくもない夢を見た。そして今日、夢見が悪く、目覚めたら此乃芽がいた。出来ることならこっちが夢であって欲しい気分だが、その状況証拠に、他にいうこともないだろう。
「出て行け」
「え、えぇ?」
俺は布団から抜け出すと、俺を見上げる此乃芽を視線で玄関の外へ視線を向ける。
「あ、あの、駿さん?」
伝わらないようだ。ならば仕方が無い。
「え? あ、あの……」
俺は無言で此乃芽を立ち上がらせて、手を引く。いまいち分かっていない此乃芽は、ただ俺についてくる。掴む手が温かくて、柔らかいと一瞬考えてしまうが、今は心を鬼にした。
「もう入ってくるなよ」
「えっ? あのっ、しゅ、駿さんっ!? なっ、ど、どうしてですかっ?!」
玄関から再び追い出す。その時、玄関の鍵が掛かっているか確認したら、案の定鍵はきちんと掛けられたままだった。
ドンドンと、昨夜のことが夢ではなく、現実だったのだと、ドアを叩く音に、ため息が出た。
「まだ、はっきりと覚えていたなんてな……」
いい加減吹っ切れたと思っていたのに、まさかあれほどはっきりと夢に見るとは。朝から気持ちは沈んで、体が重い。
「ど、どうしてですかっ!? 私っ、何かしましたか?」
ドアの向こうから聞こえてくる此乃芽の声。覚えている限り、此乃芽が悠さんのように嫌なことを直接吹き込んだわけじゃない。それどころか、思い出すと恥ずかしくなる、愛の囁きみたいなものを囁いていた。それがどうあの夢に繋がるかは分からない。
「わ、私っ、駿さんに、ただ、愛を囁いてただけなんですよぉ」
でも、原因の一旦であることも間違いないはずだ。おれはいつも通りの生活をしていたんだから。それゆえに、多分、本人は至って普通のことです、見たいに言っているが、恐らくはその愛が歪んでいたんだろう。だから夢見が悪かった。あぁ、そうだ。そうに違いない。
「うぅ〜……駿さぁ〜ん」
勢いよくドアを叩く音が収まると、今度はしくしくと泣く声が聞こえてくる。それはそれで良心の呵責を訴えるけど、ここで開けてしまうと元も子もない。
「ただ、愛する人に愛していると伝えて、どうしてこうなるんですかぁ?」
止めてくれ、そんな押し付け愛は。誰も望んでないっての。ストーカーか? 秦で成仏出来ないからって、俺のところに出てきたのか? いや、そんなことは関係ない。とにかく、勝手に入ってきたら、それこそ、此乃谷観音にでも行って、お払いしてもらおう。それかお札を買うか。そう気を取り直すように一息ついてから、玄関から聞こえてくる声を無視することに徹した。
「とりあえず、支度するか」
洗面台の鏡で寝癖を直し、朝食の支度にかかる。朝の情報番組を付けて着替えを済ませながら、フライパンの上で焼ける目玉焼きの香りと、トースターから跳ね上がるトーストを取り、腰を下ろすと、もうその時には此乃芽のことは頭から離れていた。
「今日は快晴だな」
テレビで芸能情報が流れていて、ふと外の明るさに気づいた。昨日の雨もどこへやら、秋晴れの晴天が少しだけ温かくなってきた。布団を干してから登校するか。朝食後に布団を干しながら、この待ちでは無縁の殺人があったと、遠い県のニュースが流れている時、聞きなれた声がドアの向こうに響いた。
「しゅーんっ! 学校行こう、ぜ? ……あ、あれ? 鍵かかってんのか? おーい、駿。まだ寝てんのかぁー? 起きろー、遅刻すんぞー」
まことの声は、いつもと一緒だった。だからこそ、俺は違和感を覚えた。急いで布団を干し、戸締りをしてからカバンを持ってドアを開ける。
「起きてるぞ」
「おっ、何だよ。起きてるなら鍵開けとけよな」
そこにいたおは、美少女。でも格好は男子制服。幼馴染が迎えに来たとか、状況が似てないわけじゃない。でも、俺の目の前にいるのは、美少女の皮を被ったれっきとした男だった。これが良いことなのか、嫌なことなのか、迷う。これで迎えに来るのがむさくるしい筋肉質の男とかなら、今のまことは全然良いのかもしれない。
「あれ? いない?」
「どうした? きょろついて」
それはともかく、俺は辺りを見回す。毎日のことだから、深く考えることは止めにしたが、それでもやっぱり違和感だけは確認しておきたかった。
「あ、いや……」
どこにもいなくなっていた。どこへ行ったんだ? そんな気に掛ける必要なんてないはずなのに、気になってしまい、何度か廊下を見る。
「うん? まぁいいや。行こうぜ」
「あ、あぁ」
そこにはまことがいるだけで、此乃芽の姿はなかった。さっき、この辺りでないていたと思ったけど、まことの顔を見てもいたって普通だし、多分見てないんだろう。
「何だよ? 人の顔じっと見て」
「あのさ、さっき、誰かいなかったか?」
鍵を掛けながら聞く。
「誰が?」
あれ? 本当に見てないのか? まことの反応に嘘をついている様子はないし、見ていたら間違いなく俺を問いただすはず。消えたのか? 例の壁をすり抜ける能力みたいなもので。
「いや、なんでもない。早く行こう」
「あ、おい、何だよ? 教えろよ」
隣についてくるまことが、俺を見てくる。相変わらずその上目遣いと、揺れる髪が男に思えなくて、ドキッとする。少し気の強い女の子。多分、それで通用しそうだ。
「そういえば、結局昨日は何人だったんだよ?」
答えることなく、俺は話題を変えた。
「あぁ、またそれか。昨日は二人と、こいつだ」
まことには、ほぼ毎週、週末前には恒例行事と化しているイベントがある。それは、年を増すごとに増え、後輩が出来た今年からはまた増えている。
「下駄箱にあったのか?」
まことがカバンの中から取り出した手紙を俺に見せる。
「ったくさぁ、男の下駄箱だって分かってるのかね、こいつらは」
うんざりした顔でまことがため息を吐く。俺はその手紙を読む。内容はどれも共通して、告白文。つまりはラブレター。すぐの返事は良いだとか、待ち合わせやら、回答はそれぞれ求め方が違うが、好きですという共通の文字が入っている。しかも昨日は結局二人からも直接告白された、と。しかも誰もが後輩。同級生と先輩からはない。
「お? これ、女子じゃないのか?」
その中で、目に留まる文体。丸みを帯びていて、他の手紙にはない、上手くはないが、比較的可愛い絵が入っている。そして何より、最後には明らかに女の子の名前が記されていた。
「あー、それか」
いつもなら乗り気なはずのまことが珍しく、それを見ても反応が良くなかった。
「それな、此乃谷公園で遊んでた小学生」
「は? 小学生?」
思わずもう一度手紙を見る。
「そ。この前転んでた女の子がいたから、軽く手当てしてやったんだけど、どうもそれ以来、公園前を通ると駆け寄ってくるんだよ」
まことの反応は嫌ではないようだが、歳の関係上、ゾーンには入っていないらしい。
「あぁ、どうりで」
よくよく見れば、確かに高校生が書くような文じゃない。簡単に、素直に気持ちが書いてある。丸みのある文字は、単に字が下手と言うことか。
「相手は小学生か。それはまた難しいな」
「だろ? 中学とかならまだしもよ、さすがに犯罪者にはなりたくねぇよ」
まことでも、そう言うことを考えているのは少し意外だった。てっきり、
《今のうちから手、つけとけば、将来的にいけるだろ?》
そういう光源氏的な考えをしそうな気がしていた。
「おい、駿。お前、妙なこと考えてないか?」
「いや、気のせいだ」
ともあれ、断るつもりらしい。それはそれで安心した。いや、安心することなのか、微妙なんだけど。しかしまぁ、まことにもそう言う理性があるのには少しばかり驚いた。
「何だよ? やっぱ変なこと考えてんな、お前」
「安心しただけだ」
口ではそう笑い話が出てくる。でも、頭ではどうしても気がかりを探してしまうようで、視線だけは朝陽に古びた貫禄を見せる、軋む廊下を探してしまう。
「何だよ? ゴキブリでも出たのか?」
「違う。それはいつものことだろうが」
ゴキブリなんて日常茶飯事に出てくる。たまに学校で見かけると女子が大騒ぎするが、たかが一匹程度に、さすがに驚くことはない。
「おっ、沙奈姉が来たぞ」
そして、まことは突然話題を変えてくる。興味あるフリしてそうでもないのか? そのさばついた性格は羨ましい限りで、そう言う性格だから、後輩男子にも好かれるんだろうな、と容姿に見事に比例するまことの性格には苦笑しかなかった。
まことと二人、いつか必ず踏んだら壊れそうなくらいに、気持ち悪くへこむ階段を下り、玄関で靴に履き替えると、ドアの向こうに沙奈姉を見かけた。
「おっはよ。駿ちゃん、まこと」
俺たちより少しばかり小さい背。これから大学に行くんだろう。服もお洒落だった。見慣れた格好じゃないけど、それでも誰かは一目。
「おはよう、沙奈姉」
「おはようっす、沙奈姉」
俺とまことは家族でもなんでもないが、沙奈姉と呼ぶ。そして何故か俺はちゃん付けで呼ばれる。まことはまことなのに。
「今日は髪下ろしたんだ?」
「分かる? たまにはこういうのも似合うでしょぉ?」
いつもは結ったりしている長い髪を、今日はロングに流していて、いつもより大人びて見える。
「うんうん、沙奈姉も女の子だねぇ」
まことが笑うが、沙奈姉の視線はそのまことを恨めしそうに見てきた。
「まこと、あんた、何使ってるわけ? 何でそんな枝毛もない、さらさらなのよ?」
沙奈姉の言葉に、まことの髪を見る。確かに沙奈姉に比べると枝毛がない。学校に着くまでは今の沙奈姉同様にストレートに流しているから、すぐに比較できる。まことの方が綺麗な髪をしていた。沙奈姉、悔しいんだ。まことほどじゃないけど、沙奈姉も綺麗だと思うけど。
「別に何もしてないっすよ。髪質じゃないの?」
「……こっちは時間掛けてセットしてこれなのに、何もしてないあんたがそれなんて、腹たってくるわ」
「いや、沙奈姉も綺麗だって。なっ、まこと?」
「え? そ、そお?」
少しくらいフォローをする。
「そうそう。沙奈姉は努力の天才だもんな。良く出来てるって」
そして、俺のフォローもまことの天然発言にどこかへ消えた。
「天然の天才って、どうしてかしら? 物凄くストレス溜まるのよね……」
いかん。朝から沙奈姉の眉間に皺が寄っている。怒らせたら遅刻確定だ。ここは強行でも引き離すしかない。そう思って、俺はまことの手を掴んだ。
「お?」
「沙奈姉、そろそろ行かないと遅刻するから、また後でな」
「あっ、ちょっと、駿ちゃんっ!?」
「沙奈姉はいつも綺麗だよ」
「んじゃぁ、行ってくるっすっ!」
余計な一言も、自分のせいではないとあけすけと手を振るまことをの手を引いて、アパートから離れる。沙奈姉はいきなりのことで呆然とそこにいたし、一応お世辞も言っておいたから多分帰ってきた時には忘れているだろう。此乃芽のことも気になったけど、まぁ多分大丈夫だろう。勝手に室内にいないことを祈って、まことともに学校へ向かった。
「わ、私、綺麗……なんだ」
その頃、一人取り残された沙奈は、駿の去り際の言葉が脳裏を反芻しているのか、次第に表情が緩んでいく。
「えへへっ。駿ちゃんが綺麗だって」
基本的に直情な性格だった。それがまこととの髪質に対する嫉妬を持っていた女性とは思えない笑顔になると駿たちと真逆の方にある此乃谷大学の方へと歩き出す。
「あら、沙奈ちゃん、今日はご機嫌ね?」
「おはようございます、おばさん。分かります?」
家先を掃除していたおばさんが声を掛けると、沙奈は飛びっきりの笑顔でそれに答えた。
「なんだい? また駿ちゃんかい?」
しかし、この近隣の住民の人は、すでにある程度の情報は掴んでいる。特に主婦の間ではその広がりは現代社会の情報網も伊達ではない。
「えへへ、綺麗だって言われちゃった」
「おやまぁ」
そこで笑いが起きる。沙奈は純粋に言葉を受け止め、おばさんは既に知っている情報から導き出した、それがお世辞である可能性の高さを合えて口にしない、同じ笑いでも、どこかが違う笑いで。
「それじゃあ、大学行ってきますね」
「いってらっしゃい」
軽やかな足取りで歩く沙奈の背中を、おばさんは少しだけおかしそうに見つめ、再び掃除に戻っていった。
次回は、青春大賞用更新も終わりましたので、24日前後に「sai」を更新します。