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酒は飲んでも呑まれるな

作者: 彼方

 ある夏の日、僕は連休中とあって一人で温泉までやって来ていた。その廊下を歩きながら、十時を回ったところでロビーまで赴き、ビールを買おうと思っていた。

 普段あまり飲まない性質たちだが、今日はたくさん飲んで日頃のストレスを発散させたかった。僕は軽く口笛を吹きながら、ふと母のことを思った。連休中に家に顔を出そうかな、とそんなことを考えていた。

 そのホテルはとても綺麗で、隅々まで整えられているのだが、少し部屋からエレベーターまでの距離が長く、かなり暑かった。廊下には誰もおらず、しんとしていて、少し薄ら寒い空気が漂っていたのだ。

 母は、あまり酒は飲みすぎるなよ、と忠告することがあった。そんなに飲まないのに、何故かそれだけに拘るのだ。

 エレベーターに乗ってロビーへと赴くと、僕は自販機でビールを三本と、煙草を一箱買った。

 さて、テレビでも見ながら一杯やるか、と鼻歌を唄いながらロビーを出ようとした時、ふと人影が前方に見えた。目を向けると、一人の老人がこちらをじっと見つめていた。

 僕は一瞬気圧されそうになった。老人が僕とビールを交互に見つめて、本当に険しい顔をしていたからだ。

 僕は何だろう、と思ったが、すぐに気にした様子もなく、その横を通り過ぎようとした。だが、その時――。

「気を付けろよ」

 その低い唸るような声が聞こえて、僕は驚き振り返ったが、そこで思わず立ち止まってしまった。誰もいなかったのだ、その場所には……。僕はぞっとして、すぐにエレベーターへと駆け込んだ。

 確かにそこにいたはずなのに、どこにも人影はなかった。どこかで聞いたことがあるような声だった。何だったんだろう、と僕は四階へと上がりながら、心臓が跳ね回るのを抑えきれず、たった今起きた出来事について思い返していた。

 だが、廊下に出て歩き出す頃には、少しだけ落ち着いてきた。いや、あの老人、僕より少し離れたところにいたし、どこかへと歩いて行ってしまったのかもしれない。僕の勘違いで、不思議なことなど何一つなかったんだろう。

 そう思うと、少しほっとした。僕は自分の部屋に戻ると、窓辺の椅子に座って、ビールの口を開けた。そうしてしばらく飲んでいると、先ほどのことなどすっかり忘れてしまう。

 僕はほろ酔い気分でテレビを見ていたが、どうにも部屋に冷房が効きにくく、我慢できなくなって窓を開いた。すぐに心地良い風が入ってくる。

 そのままビールを飲み続けてぼんやりとしてきた時、ふと椅子から体が傾いて倒れそうになった。半分夢に浸かっていた僕は、頭を窓枠にぶつけて、その痛みに手を枠へと伸ばした。

 そして、その瞬間、先ほどの老人の言葉が頭を掠めた。


 ――気を付けろよ。


 僕ははっと目を見開き、手を付いた拍子に首が窓枠に挟まれ、息が止まるのがわかった。だが、酔いから醒めた僕は、咄嗟に窓を開き、床へと滑り落ちた。

 危なかった、と僕は息を切らしながら窓を見上げる。

 あの老人の言葉が、頭の中を重い響きを唸らせながら駆け巡った。

「本当に……」

 母の言っていたことが頭を過り、やっぱりあまり飲みすぎるのはよくないな、と心底思った。あの老人があの時僕に言ってくれなかったら、どうなっていたんだろう、とふと思った。


 *


 自宅のマンションに帰って一息ついた後、僕は実家にいる母へと電話をかけた。母がすぐに出て、休み中に帰ってくるのかを問い掛けてきた。

「ああ、明日ぐらいに行くよ。それより、昨日温泉に入ったんだけど、ちょっと不思議なことがあったんだ」

 僕はそのホテルでの出来事を、少し声を潜めて彼女に囁いた。すると、母はしばらく押し黙っていて、そして、「そうなのね」と神妙な様子でつぶやいた。

「その老人、どんな外見をしてた?」

「とにかく目が細くて、鋭かったよ。頭が薄くて口髭だけがたくさんあって……真っ白だった。身長は僕とそう変わらないぐらいで……」

 細かくその老人の容姿を伝えていくと、彼女は大きな吐息をついて、震える声を零した。

「それはね公康、亡くなったあんたの、おじいちゃんかもしれないね」

「……え?」

 僕は心臓を素手で鷲掴みにされたような、衝撃を受けた。母は涙ぐんでいるのか、ぐずついた声で言った。

「あんたのおじいちゃんはね、酒の飲み過ぎでころっといっちまったんだよ。だから、酒だけは飲みすぎるなってあんたに何度も言っていたんだけど。そうねえ、死んだおじいちゃんがあんたのことを、守ってくれたんだろうねえ」

 母はそう感慨深げに語った。僕は未だにそれが信じられず呆然としていたが、やがてうなずき、母に言った。

「最近そう言えば、墓参りにもしばらく行っていなかったな。また、じいちゃんに顔を見せるよ」

 僕が生まれる前に死んでしまった祖父だが、天国からずっと見守ってくれていたのかもしれない。

 母はうなずき、「行ってあげなさい」と笑った。

 僕とは関係ないと思っていたご先祖だけれど、しっかりとその縁は今でも続いているんだな。そう思えたことがとても不思議であり、そして感慨深かった。


 了


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― 新着の感想 ―
[一言] お酒か~。 呑まれるなとは言っても呑まれてる本人は自覚できないんだけどねw 突然すいませんw
2015/11/11 21:18 退会済み
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