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ヤーさんのお姫様  作者: 不知火 初子
五章 ひとりでだって強くはなれるよ
322/643

参佰弐拾弐




わたしの行動を止めようとしているのだろう。


けれど悠二くんの伸ばした手が届くことはなく、彼の必死な形相もろとも視界から消えていく。




後ろで何かを叫んでいるのは分かる。


きっと、わたしを案じる言葉だ。


そして勢いを削ぐ言葉でもあるのだろう。


でもここで立ち止まるより、伸ばした手のほうが早く距離を詰めそうだ。




わたしの足は、椎名に向かって一直線に進む。


ただ真っ直ぐに突っ込んでいくこの身で、その後の考えなんて何も抱いていない。



というか、椎名を助け出したあとのことまで考えついていたら、今頃こんな風に駆け出してないと思う。




わたしは器用でもないし、賢くもない。


ひとつのことしか考えられないし、それ以外は何も出来なくなる。



今はただ。


友人を雑に扱ってほしくない。


それだけだった。




「椎名を返して!」




わたしが叫ぶと、このなかで一人だけ、ねっとりした笑みを浮かべる相手の目がこちらに向く。


線で繋げば目が合っていると言えなくもないけれど、彼の意識はこっちじゃあなくて自身の腕のなかだ。




「おい、椎名」




ヒヒッと笑って、涸沼(ひぬ)さんは腕に力を込める。




「お前、物みたいに言われてんぞ。こりゃあ傑作だ! ご主人様の傀儡のお前にはぴったりだぜ! ──そんなに返してほしけりゃあ、やるよ! おら!」




より一層離してくれなさそうな状況に見えたが、その人は唐突に椎名のことを力一杯に突き飛ばした。


このままだと、走り寄るわたしに体をぶつけてしまう。



避けようとして足がもつれた。


そのまま地面に倒れる。


お尻は痛かったけれど、頭や背中に痛みはやってこなかった。




顔をあげると、皮肉屋の友人は抱えるようにしてわたしに腕を回している。


まるで、何かから護ってくれているみたいに。



お互いに急いで立ち上がろうとして、椎名はうずくまった。


彼は足首をおさえて表情を歪める。



無理をして足をくじいてしまったらしい。




ここから逃げ出せそうもない友人の様子に、わたしは涸沼(ひぬ)さんの目線の先に入り、膝をついて椎名を背に庇う。




どうして彼は、こんなことをするのだろう。


椎名が何をしたのだろう。


事情は知らないけれど、怪我をさせてもいいと思える相手だったということだろうか。




……そんなこと、あっていいはずがない。


怪我をしていいなんて思わないでほしい。



椎名だって、傷ついたら痛みを感じるのだ。挫いた足首のように。




「どうしてですか!? こんなことをして、なんで笑ってられるんですか!」


「ああ? 人はなぜ笑うんだろうなあ」




相手は的外れな受け答えをすると、フスン、と鼻を鳴らして口の端をあげる。



こわい。


この人の笑顔は、こわい。



おばけ屋敷で一番悲鳴があがると話題の、床を突き破って出てくる手に足を掴まれるスポットより、よほどこわい。


しかも死体としての再現度を高めるため、冷え性を極めしものたちが集まったかのような冷気をその手は醸し出す。


死体の肌が温かくて柔らかいと、お化け屋敷を楽しみにきたものとしては興醒めもいいところだろう。



涸沼(ひぬ)さんから感じるものは、そういう怖がらせるために演出された恐怖とは別種だ。



心の底で、彼に背を向けたいと思っていることが行動に繋がったのか。


わたしの体は、一歩退きかけた。



だけどソッと背に触れてくる手によって、その場に押し留められる。




「君は、動いちゃあいけない」




椎名の手は熱いくらい温もりがあって、想像より大きく感じる。



わたしが背後に気を取られていると、その一瞬が隙だらけに見えたらしい。



振り向いたら、手にナイフを握る涸沼(ひぬ)さんが迫ってきていた。



溶けかけのチューイングガムを引っ張ったみたいに、時間がのびている気がする。



視界の隅からゆっくり、悠二くんが移動してくる。



そのまま進んできた坊主頭の彼は、わたしの前に背を向けて立った。





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