9.天鼠
王城の裏手にある森を、無言のクリフが大股で歩いている。その後ろを小柄なイェリンは、倍程の歩数でちょこちょことついていく。イェリンはまるで親鴨の後を追う子鴨の心境だった。
王城の一角を住まいにしているクリフの部屋から、それほど遠くはない距離だった。
さらに、足どりの速度が上がったようだった。追いつくのが精一杯で、息のあがったイェリンはやむを得ず、無言になる。
クリフは目の前に聳える太い樅の木の前で立ち止まった。
「ここだ」クリフは、高い樅を見上げた。
「会わせたい御方って、まさか……木?」
イェリンは樅を見ながらも、横目でちらちらとクリフを盗み見た。
片方の眉を落とし、馬鹿にしたような視線をクリフが返してきた。
「この木に、天鼬(ルントル)がいる」
天鼬といえば、巨大な生物だ。クリフが乗っていた天鼬は頭から尻尾までで、成人男性が八人ほど縦に連なったぐらいの長さがあった。この巨大なもみの木の中を刳り貫けば、真っ直ぐに天鼬を突っ込めそうだ。毛深かったので、案外細身だったと考慮しても、天鼬にとって寝返りもうてない窮屈な巣だ。
クリフが指笛を吹くと、いきなり赤ん坊の拳ほどの丸く白い綿毛の塊が樅の上からすとんと落ちてきた。クリフの開いた両掌の近くまで来ると、空中に静止しシャボン玉のようにふわっと着地した。
「ルンソルン、古い言葉で天空の勇者って意味だ」
クリフは、小さな生き物の名前を告げた。
固まりは団子虫のように体を伸ばすと、鼠のような姿を現した。いや違う、鼠というよりは鼬、鼬というよりも間違いなく天鼬を手のひらほどの大きさにしたものだった。
「こんにちは、ルンソルン」
既視感から、初めましてという言葉は出なかった。ディーンが子どもの頃に連れていた生き物に、そっくりだからかもしれない。
やがて白い塊だったものは、どんどんと大きくなり、昨日見たときの四分の一になった。
「どうぞ、お姫様」クリフは胸に手をあて、貴婦人にするように、恭しくお辞儀をする。
差し出されたクリフの手にそっと右手を添えて、イェリンはルンソルンに腰を降ろした。
ルンソルンはゆっくりと浮き上がり、もみの木の中ほどまでくると止まった。
木の幹に小さな穴が開いていた。穴の中から、一匹の天鼬が顔を覗かせている。
「ルンソルンのお嫁さん?」
「ああ、ルンルンという。陛下の天鼬だ」
思わぬところで聞いたディーンの話に、イェリンの鼓動がわずかに速まる。イェリンが子どもの頃出会った白い鼠は、ルンルンだったのか。
「ルンルン、私はイェリン、よろしくね」
イェリンの声に反応するように、ルンルンの胸元がもぞもぞと動いた。「プーッ」という甲高い声とともに、ルンルンよりもさらに小さな顔が飛び出した。
「わーっ、可愛い。二人の子どもね」
「そろそろ巣立ちをする歳になる」
子どもは小さな体をイェリンの顔へ伸ばし、鼻をひくつかせている。鼻の動きを止めると、母親の様子をうかがうように振り返った。
あまりの可愛らしい仕草に、イェリンの頬は緩みっぱなしになる。
再び、イェリンへ顔を向けてきた子どもは、巣穴から落ちそうなほどに体を伸ばした。
「顔を近づけてごらん」
クリフに言われるまま、イェリンは子どもに顔を近づけた。摺り寄せるように顔を近づけてきた子どもに、イェリンは思いっきり鼻を噛付かれた。
「痛い!」いきなりの襲撃に大声を上げて、鼻を押さえた。
イェリンの後ろにいたクリフからは、必死に笑いをこらえている振動が伝わってきた。
「嫌われちゃったのかな、私」
淋しくなって、イェリンは呟いた。
「そんなことはない。もう一度、顔を近づけてごらん」
「冗談じゃないわ。二度と噛まれたくないもの」
「大丈夫だよ」
クリフの暖かさのこもった声に「そうかしら?」と、恐る恐る顔を近づけた。
顔を出すのを待っていたかのように、子どもは「プー、プーッ」と鳴きながら、イェリンの鼻を舐め始めた。
「くすぐったい」
「手を出してごらん」
クリフの言葉に従ってイェリンは、子どもに手を差し伸べた。
イェリンの掌にためらうことなく子どもは乗った。前足を掌から離し、後ろ足で立ち上がってイェリンを見つめた。
「この子は、イェリンを仲間と認めてくれたんだ」
クリフの声に合わせるように、ルンソルンはゆっくりと降り始めた。
ルンソルンは地面に着と、まるで消えたかのように一瞬で小さくなった。巣穴から様子を窺っているルンルンのもとへ、ルンソルンは素早く木を昇って行った。
心の準備が出来ていなかったイェリンは、倒れそうになった。ごく自然にクリフがイェリンの両脇から、抱きかかえるように支える。
後ろから抱きすくめられた体勢に、イェリンは恥ずかしくて慌ててクリフの腕を振り払った。
「天鼬が人の鼻を思いっきり噛むのは、気に入った証拠だ。噛むことで相手を試しているのだ。そこでひるまずに顔を出せるということは、噛まれた相手も天鼬を信頼している証になる」
まるで、何事もなかったように、クリフは説明をする。
「そうなの? それにしても痛かったんだからね」
自分だけが取り乱してしまい気恥ずかしくなったイェリンは、少し怒った顔を子どもの天鼬へ向けた。
「彼に名前を付けてあげて欲しい」
「えっ、私が名付け親になってもいいの?」
いきなりの申し出に、信じられなかったイェリンは、クリフを食い入るように見つめた。クリフは照れくさそうに微笑んだ。
「そうだ。こいつは、もう、イェリンの友達だ。巣離れの時期が来たら、一生面倒をみてやるのだぞ」
「それって、私が育ててもいいってこと?」
「当たり前だろ。こいつが選んだのだから」
天鼬に選ばれたと言われても、あまり自覚が湧かなかった。ただ鼻を噛まれただけのような気がする。イェリンと同じことをすれば、だれの鼻でも噛付くのではないか、イェリンはそんな不安を胸に抱いた。
「天鼬って希少価値の高い生き物なのでしょ」
「そうだよ」
「王族しか飼えないのではないの?」
「飼うんじゃない。天鼬が一生を共にする相手を選ぶんだよ。だから、身分なんてどうだっていい」
いくら身分は関係ないと言われても、ディーンの天鼬の子どもを勝手に譲り受けるわけにはいかない。
「王様の許しは?」
「受けてある」
できれば、ディーン本人から受け取りたかった、などと、我儘な考えが浮かぶ。
「プーッ」
「ほら、早く名前を付けろとこいつが催促しているぞ」
「プーッ」鳴きながら、丸く大きな真っ黒い瞳が、じっとイェリンの顔を覗き込んでいる。
「プー……ルンプー。あなたの名前は、ルンプー」
イェリンに命名されると、ルンプーはイェリンの肩に移動した。
「ルンプーか。かわいい名だな。あまり強そうではないが」
肩の上でクリフの話を聞いたルンプーは、「ブーッ、ブーッ」と、小さな牙をむき出して怒った。
「ルンソルンは、王様からいただいたの?」
「陛下が独断でルンソルンに引き合わせてくれた。当時はまだ、九歳の王太子だった」
ディーンが九歳といえば、イェリンが出会った頃だ。
「あなたも、鼻を噛まれたの?」
「そうだ。噛まれて驚いている俺を見て、陛下は大声を上げて笑い出した」
いつも小難しい顔のクリフが、鼻をかまれた姿を想像すると、ディーンならずとも笑いが込み上げてくる。
「王様はよほどあなたを、気に入っていらっしゃるのね。そうでなければ、王室の大切な宝である天鼬を勝手に与えるなんて、なさらないでしょうから」
今の状態がクリフとディーンの関係に似ている。なら、自分もディーンに気に入られているのか、急にイェリンは恥ずかしくなった。
クリフはイェリンの言葉に驚いたような顔をして、しばらく黙り込んでいたが、ゆっくりと話し始めた。
「イェリンのように素直に考えられなかった。餓鬼のくせに、物で人を釣るのかって、腹が立った」
「子どもの頃から、ひねくれていたのね」
イェリンの揶揄に「そうだな」と珍しくしおらしい。
「天鼬をくれなくても、命令すれば済むのにと、俺は卑屈になった。すると『君は命令されなければ、動けないのか』って笑い飛ばされた。それから『やるのではない。天鼬がおまえを選んだのだ』と言われた」
当時は自分も幼く、天鼬の習性など知らなかったので、本当の意味は理解できていなかったのだろうと、クリフは苦笑いした。
「この時、俺はこの人のために、一生尽くそうと思った。とは言っても、実際に陛下に仕えているのは、一年余りだが」
王子なら命令は当たり前だっただろう。あえてやらなかったことにより、掛替えのない友人を得たのだ。
「あなたは選ばれたのかもしれないけれど、ルンプーは私ではなくてもよかったのではないかと……」
なぜルンプーに自分が選ばれたのか、イェリンにはわからなかった。それ以前に、ディーンがクリフを通じて、ルンプーに合わせてくれたこと自体がわからない。
クリフは常に傍にいて、ディーンを助けている。ルンソルンを会わせた時点で、ディーンはクリフが選ばれることを望んでいたに違いない。
ならばイェリンはどうだろう。とうてい、ディーンの役に立つとは思えない。むしろ今の状態は、ディーンやクリフに迷惑を掛けていた。
「天鼬は誰にでも同じことをするのではないか。それより、俺を選ばなかったらどうしたのだろうって、俺も当時は考えた。今になって、本当の陛下の心が理解できた気がする」
「あなたは私などと違って、王様にとって大切な方ですもの、天鼬が選ばないはずがないわ」
力を込めてイェリンは口にした。
最初のクリフとの出会いは最悪だった。だが、冷静になってみれば、すべてイェリンのために悪役を買って出たと思える。ディーンにとって、最高の部下だろう。
イェリンの言葉に眉間にしわを寄せて、クリフがイェリンを見る。
不愉快そうなクリフの表情から視線を逸らすと、イェリンは頭上に衝撃を受けた。
クリフの軽い拳骨に、大げさに痛がりながら、上目遣いに顔色をうかがう。
「痛ーい! なにするのよ」
クリフの瞳に悲しげな色が混ると感じ取ると、怒鳴りかけたイェリンは尻すぼみになる。
冷静沈着で表情を変えない男だと思っていた。暗闇のような漆黒の瞳は、意外と顔よりも雄弁なのかもしれない。
「天鼬はいいかげんな気持ちで友を選ばない。俺にとってもルンプーにとっても、かけがえのない、いや、とにかく、おまえは選ばれたんだ。自信を持て、」
「無理よ」
イェリンの言葉は小さく震えた。
今のイェリンに、自信など持てるはずはなかった。人のためにできるただ一つの雨乞いが、一年前の出来事によって否定されたのだ。
「ちっぽけな自信など、とっくに消えてしまったわ。女神アーシャの御前で聖剣の舞を舞いきる自信などありません」
「どこか遠い国へ逃げるか? 俺と一緒に。天鼬がいればそれも無理ではない」
クリフと逃げる? 考えもしなかった内容に、気が動転した。
冷静になれば、他国へ逃げるなど無理だとわかる。
天鼬に乗れば、異国への道程は容易いだろう。だが、根本的な問題は、解決しない。
「私が逃げれば……」
「せっかく命を取り留めたカールフェルト将軍どころか、一族すべての処刑もありうる。情けをかけた陛下の罪も問われるだろうな」
イェリンが飲み込んだ言葉を、クリフはたやすく口にした。
「あなたは王様を裏切れるの?」
「おまえのためなら」
押し殺して囁かれる言葉は、愛の言葉というよりは胸を裂くほどに苦しげだ。
「どうして、そこまで」
会ったばかりのイェリンに、それほどまで尽くしてくれる理由がわからない。なぜ、王への忠義を語ったその口で、裏切りの言葉を吐けるのか? 情に訴えかけようとしているのか? さまざまな考えが、頭の中を駆け巡る。
クリフに出会ってからこれまでのすべてが、彼の演技なのか?
なぜ?
「雨乞い。あなたも私の雨を降らせる力が欲しいの?」
「俺は生まれてからの大半を神殿で暮らしてきた。だから、俗世には疎い。それでも、おまえの能力が人々にとって喉から手が出るほど欲しいことぐらいわかる」
「神官だったの?」
想像もしていなかったクリフの話に、イェリンは驚いた。
「神官ではないが、生まれてすぐに母が亡くなり、神殿へ預けられた」
何度か父親に連れられて、神殿へ行ったことがあった。幼かった頃に一度だけ、多くの子どもたちが学ぶ姿を神殿の中で目にした。もしかしたらその中に、クリフもいたのかもしれない。
「人の欲望とは果てしないものだ。雨が降らなければ雨を望み、降り過ぎれば雨を呪う。神に仕える者さえ、欲は捨てきれない。おまえが生き残るために、親族を犠牲にしたとしても、誰にも責める資格はない」
イェリンは唇を噛み締めた。いい気になって雨乞いをしていた罰なのだ。イェリンの罪のために他の人達を巻き込むわけにはいかなかった。
「宗教裁判を受けます」
「今さら遅い。おまえ一人が死刑になったところでどうにもならない。国王まで巻き込んでいるんだ」
「私にどうしろというの!?」
「舞え!」
クリフの一喝にイェリンの思考が止まった。
「神官どもに見せつけてやれ。イェリンの願いが、天まで届いているのだ。イェリンこそが、神の使いなのだと」
「怖い……怖いのです。最後まで舞いきる自信がない」
「自信なら殿下が与えてくれる」
「えっ?」
「想い人なのだろ。ニーナに聞いた」
「陛下を信じればいい。陛下がイェリンの力を信じているのだから」




