(8)フロイディア、首都近郊ドンパロイ街道、3月4日午後5時53分
政務を終えた女帝は、愛娘の待つパレッケルク離宮へと急いでいた。今は亡き皇帝トロウス・ゴルティの一人娘のアーリア・ライラは学校の寄宿舎で生活している。が、週に一度、ドンパロイの学校からパレッケルク離宮へやってきて母アンナ・カーニエと共に食事する習慣になっていた。今日がその日である。……急がなくては遅れてしまう。
首都フロイデントゥクから郊外のパレッケルクへ向かうとき、標高差の関係上、ずっと下り坂になる。位置エネルギーを利用すれば、自動車の速度は放っておいてもどんどん速くなる。……いや、速すぎる。
まず、女帝の車の前をいく騎兵の馬2頭が、異変に気づいた。続いて、自動車の後ろの護衛を努める騎兵の後ろの白バイ警官二人が異変に気づく。自動車の運転手は恐慌状態に陥っている。自動車が坂道を降りる前にブレーキを壊しておくというのは古典的常套手段ではあるが、護衛の騎兵4人、白バイ4人計8人にとって、笑い事ではすまされない。
運転手はサイドブレーキを試みた。レバーは動くが、機能している様子は皆無。運転手は脱出しようとして、ドアを開けようとする。……開かない。事情を察した騎兵の一人が、手持ちのサーベルでドアをこじ開けようとする。急カーブ。運転手は慌ててハンドルを切った。後輪が馬に当たりそうになり、馬が棹だちになろうとする。白バイ警官はなすすべもなく、いらいらと見ているしか手がない。警棒ではこじ開けるのにとっかかりがない。ただ、はらはらと見ながら祈るしかなかった。皮肉な話であるが、防弾ガラスを嵌めた上に爆発の衝撃に耐えられる頑丈な構造が、中の要人の救出を妨げている。もはや車はセンターラインを守るどころか、走っているのがやっとという状態になった。
何回目かの幸運な打撃が、ドアのしんばり棒を外した。白バイ警官が騎兵に代わって、車の側に近寄る。ヘッドライトにカーブミラーが浮かび上がる。また急カーブだ。だが、護衛は要人の救出態勢にあり、中の要人も運転手も、もはやハンドルを切れない。白バイ警官は運転手を車から引きずり出した。危ない。騎兵は四人とも手綱を引いた。騎兵と白バイ警官はカーブの直前で止まった。運転手は警官に抱えられたまま、震えている。女帝は……?
車はガードレールを吹き飛ばし、下の崖へと落ちていく。爆発音。崖のうえで、運転手、警官、騎兵たちは、どんな夜風もこれほどまでに凍えさせられないというような顔をしていた。谷底では、自動車の残骸がガソリンの匂いを発しながら、もうもうと燃え上がっている。
騎兵の一人が馬を降りる、「乗りなさい」と運転手に。
「しかし」
ここからパレッケルクまで利用できる乗り物は馬かオートバイ。しかもその白バイは二人乗りができるような構造になっていない。
「この中で、一番体重が軽いのは私でしょう。二人乗りをするなら、私と一緒です」
運転手はまだ渋っている。
「まさか、あなたをこんな真冬の空の下で置き去りにしたり走らせたりするわけにはいかないでしょうしね」
運転手は二人乗りを承諾した、「おそれいります、女帝陛下」
近衛騎兵の軍服を着て男装していたアンナ・カーニエは、にっこりほほ笑んで運転手を自分の前に乗せ、パレッケルク離宮へと急いだ。