(61)フロイディア連邦、首都フロイデントゥク近郊、某所、3月20日午後0時30分
ポルダン・アレーランは困惑していた。死ぬほどの思いをして、やっと目的の人物に会えたのであった。
ところが、目的の人物「W」と名乗る者は、予想外の歓待でグラゼウンスパイのアレーランを迎えた。「午餐」の名に相応しい、たっぷりとした豪勢な食事。おまけに、食後の楽しみとして、カラーテレビを鑑賞させている。……ここで、こんな事をしていて良いのだろうか?
思えば、Wに面会するために、フロイディアの公安局と何回もカーチェースを展開しなければならなかった。食うや食わずの思いをしたり、恐怖に震えつつ下水溝の中に隠れたり、わずかな物音にも脅えなければならなかった。そんな日を思うと、まるで夢のようである。
「どうか寛いでくれたまえ」
堅い表情のままテレビを凝視するアレーランに、Wは優しそうに声をかけた。
「しかし、私は、一刻も早く、シジャービーに戻らなければ……」
「30分ぐらいここで休憩していっても、だれも君を咎めはすまい」
「では、お言葉に甘えまして……」彼はソファーのクッションに体を預けて、テレビに見入る。
テレビのスピーカーは民衆の歓声を伝える。アンナ・カーニエが首都フロイデントゥクに帰ってきたのである。首都の民は、「アンナ・カーニエがザゾに遷都するのではないか」と不安がっていた。ザゾに宮殿を築き、しかも首都にふさわしい都市計画が実施されていたからである。……だが、アンナ・カーニエは戻って来た。フロイディアの首都はフロイデントゥク以外にありえない、首都の民を見捨てたりしないと、アンナ・カーニエは意思表示してくれたのである。歓呼の声も、自然とあがろうというもの。
防弾処置の施されたクロイゼドラウグ宮殿バルコニーに、アンナ・カーニエが立つ。
「ありがとう」と、お立ち台のスピーカーは、マイクを通じて伝えられる女帝の声を増幅する。歓呼の声は止まない。
「ありがとう」
歓呼の声は静まっていく。女帝の手に紙片を見た群衆は、アンナ・カーニエが何か民に語りかけようとしているという様子に、気が付いた。テレビで見ていたWは、思わず体を起こす。……今度は何をする気だ?
女帝のそばには、いかつい大男が、困惑しながら立っていた。彼の名はロンラッド・カルバドス。元ミゼレン刑務所所長。彼は、なぜこんな所に呼ばれたのか分からない。
「私は今日の日を晴れがましく思います。ムルドスのジョンゴンは討滅され、ジェグズイは降伏して連邦政府の傘下に入りました。しかし、もっと晴れがましいお話があります」
女帝は、カルバドスに、もっとお立ち台の方に寄れと、手招きする。困惑に満ちた人物が、群衆の目にさらされる。……何者だ、あれは?
「ボルストンの民の皆さん。われらには、800年ほど昔、ある著名な政府機関がありました。が、侵略者にして破壊者たるアンモンス、グラゼウンの祖先たちのおかげで、ボルストンの民は史上に名高い『テオティワケンへの遷都』を行わなければなりませんでした。そしてその政府機関は無意味となって解消され、以後、長きにわたって、われわれは忍従の生活を強いられてきました。私は、誇りをもって宣言します。もはや、忍従の生活は終焉した、と」
民衆の反応は鈍い。何をもって、忍従は終焉したというのか。その政府機関か?
「私はその機関を連邦政府に設立・復活させる事を宣言し、その初代長官に、ロンラッド・カルバドス氏を任命いたします」
だから、何の政府機関の長官だというのだ?
女帝は手の紙片を読み上げ始めた、「われらが帝国連邦はここに宣言する(オウエサ・ラポポミソイ・センテラズ・エ―レル)……」
「待ってください」とカルバドス、「シルニェ語で」
アンナ・カーニエは、「後代(トゥアネンウィン)公用テントロイ―トス語」で書かれた任命書に目を落とし、カルバドスを見上げた。
カルバドスは、さらに女帝に質問する、「それに、何の長官に任命すると仰るのですか」
「ああ!」とアンナ・カーニエ、民衆の方に振り向く、「まだ、言っておりませんでしたわね。ごめんなさい。でも、私、不勉強なので、その言葉を正しいシルニェ語に翻訳する自信がありませんの。ヴァストリアントゥオの、すべての軍のなんとか、というのですが」
テレビを見ていたWは、ソファーのひじ掛けをつかむ。その手が震えている。
アンナ・カーニエは、任命書の最後の方を読み上げる、「原語では、ヴァストリアントゥオントゥアジェー・タリトゥケル・エフェロッディオンと申しますが」
ぶちっ、とWはリモコンのスイッチを押した。テレビのスイッチは切られ、画像は残像を残して消失する。
「なんのことですか? テントロイートス語は、さっぱり分かりませんので……」とアレーラン。
「シルニェ語に直すと、ヴァストリアントゥオ大総督府といったところか」Wの双眸から涙がこぼれ出る、「まさか、こんな、悪夢のような歴史的瞬間を見なければならないとは。ああ、長生きしたばかりに」
「あの……それが、泣かねばならないような事なのですか? ザゾの総督府や各地の軍政庁を統括する総督府を作ったというだけではないですか」
「その程度の事で、800年前云々の話を、アンナ・カーニエが出すと思うか?」
「さあ……」
Wは目をつぶり、立ち上がる、「その昔、古代トゥアネンウィンには、ヴァストリアントゥオの貿易・軍政・経営を一括する政府機関があった。それが、ヴァストリアントゥオ大総督府だ。その機関の目的は、ヴァストリアントゥオのすべての統括。文字どおり、すべて、だ」
「だから、どうしたというのです」
「つまり、こういうことだ。私と君すなわち、われわれの未来は、二通りしか、ない。君たちグラゼウンがフロイディア・ボルストンの民を全滅させ、アンモンスの栄光を再現させる。あるいは、アンナ・カーニエが目論むように、グラゼウンを地上から抹消し、ヴァストリアントゥオ全土が彼女の物になってしまうか。いずれか、だ」Wは力なくソファーに倒れ込む、「それが、ヴァストリアントゥオ大総督府設立の意味だ」
「それは、最初から予想できていたのですがね」
「甘い。今日、この時間をもって、フロイディアとグラゼウンの間に、『白旗』は機能しなくなってしまった。『降伏』『人道的捕虜処遇』『生存権』などという甘ったるい言葉は、過去の物となってしまった。もはや、戦闘に『騎士道』が反映されないだろう。ただ、ただ、虐殺の応酬にあけくれるようになるだけだ。そう。刑務所長の総督への任命自体が、象徴的ですらある。もはや、ヴァストリアントゥオ人民は、刑務所長の下に喘ぐ死刑囚と同等になってしまったのだ! ああ、フロイディアに、そんな事をする権利などないというのに……」
「あの、ルオイ……」
「その先を言うな!」とW、「その先を言うのではない!」
ルオイはシルニェ語の二人称代名詞、ただし、所有格である。この後に「高さ」「麗しさ」「偉大さ」などの形容名詞をつけて、呼びかけの称号になる。たとえば、「卓抜」の語をつけて「閣下」となるように。
「では、ウォイ(あなた)」
「その語の方が望ましい」
「……われわれへの援助の話はどうなったのですか?」
「無駄だと思うがね。どんなに援助をしても、君たちの実力では、フロイディア全土を制圧できない。逆に制圧されるのがオチだ。そう、アンナ・カーニエからラルテニアを奪わぬかぎりは、な……」
そうだ、その手があったか!
「あの……ルオイじゃなかった、ウォイ。無駄かどうかは、こちらで判断させていただきます。それで、援助を是非……」
Wはアレーランを見る。「もう、私には、これだけの援助しかしてやれない」彼は小冊子をアレーランに投げてよこす。どの頁にもWのサインが入った金額欄空白のジペニア銀行小切手帳。
「おお、これはこれは、大変助かります!」
「もっともジペニア人の君たちへの信用が、どこまで保つかは疑問だが」
「大丈夫です」とアレーランは退室しようとする。
「気を付けて帰れ」
「大丈夫です」とアレーランは請け負った。
裏口から敷地の外に出て数歩。アレーランの足取りが止まる。何者かが発した銃弾が、アレーランの額を砕き割ったのである。アレーランは馬糞で汚れた歩道に倒れ伏し、絶命する。風にそよぐ木の葉が、陽光を緑色に反射している。風は、塵埃を舞い上げ、アレーランの死体を覆う。閑散とした住宅地に、鳥の鳴き声だけが聞こえる。何者にも気づかれぬ死体は、そのまま、夕方まで放置されていた。