(48)ヴァストリアントゥオ、ザゾ、ドロンペルペン宮殿、3月12日午前6時30分
侍従は、おそるおそるドアをノックした。
「どうぞ」と女帝の張りのある声が応じる。
「緊急事態が発生しました。執務室へおいでください」
執務室にはイクシェメール陸軍大将が待っていた。
「こんなに朝早くから、どうしました?」
「ちょっと困った事態になりまして」彼は執務室の壁に広げられたヴァストリアントゥオ方面の地図の一点を示す。
「ナコラッシュ川の河口、ソイディア本土ですわね。それが何か?」
「実は、その」イクシェメールは言い淀む、「この地点に、グラゼウン軍の大部隊が上陸しているとの連絡を受け取りまして……」
「なんですって?」
「ソイディア本土にグラゼウン軍が上陸しました。最悪の場合、ソイディア首都サーゲムの陥落をも考慮いたしませんと」
ふと、アンナ・カーニエは言外の意味に気づいた。
「グラゼウン軍はコンパーヌと西ザジエン地方を通過して、ソイディア本土に上陸した、そういう事?」
「ええ、まあ」
「私が、コンパーヌ方面軍をザゾへ移したから、軍事的空白をつかれたと言いたいのね、イクシェメール閣下は」
「いや、その、あの」
「一つ、断っておきましょう。あなたは連邦統合軍の陸軍大将ですよね」
「そうです」
「では、あなたはソイディアの軍隊には所属しないですよね」
「しかし、連邦には加盟国ソイディアを守る義務が……」
「逆ですわ、イクシェメール閣下」女帝は微笑を浮かべる、「ソイディアには連邦統合軍維持のために拠出金を出す義務があります。しかし、連邦統合軍を動かすのは、連邦政府です。ソイディアではありません。いま、連邦統合軍はヴァストリアントゥオ問題に全力を傾注しています。ソイディアの国内問題にまで考慮せねばならないのならば、連邦政府は安心して連邦統合軍を動かせないではありませんか? そうなると連邦統合軍の意味がなくなるでしょう」
「しかし……」
「イクシェメール閣下に、ソイディア政府が何か言ったのですね?」
「コンパーヌに戻れ、と」
「『できない(ナクトン)』、いいえ、『ならない(ツムトン)』と言っておやりなさい」
「しかし!」
「それとも、私がソイディア皇帝に申しましょうか? 『救援のため、ラルテニア帝国軍をサーゲムに派遣する』とでも」
女帝の言外の意味に気づいたイクシェメールの顔は、青ざめる。女帝は、さらに、ストレートに陸軍大将に告げる。
「ラルテニアがソイディアを併合しても良いのか、ともね」
女帝の言葉はハッタリではない。現に彼女は、即位直後に、コニギアを併合している。
「わかりました。ソイディアに、ヴァストリアントゥオ問題のため、そちらには行けないと伝えましょう」イクシェメールは退出した。
アンナ・カーニエは地図を凝視する。……ソイディア海軍は何をしていたのかしら?
彼女は思い出す。ラフゾイグ方面とテンペス方面に集中していて、ナコラッシュ方面は手薄だったのである。彼女は電話を取った。
「執務室のアンナです。朝早くからすみません。近衛軍参謀本部をお願いしたいのですが。……では、起きられたら電話をください」
今回の件で、ソイディアは、ヴァストリアントゥオ問題について、『手を引く』などと言いだすかもしれない。そうなれば、アンナ・カーニエの足を引っ張るようになる。そうは、させない。彼女は、近衛軍をナコラッシュ川の河口に空挺降下させ、ソイディアに侵入したグラゼウン軍を撃退するつもりでいる。
「負けやしないわよ(アイエン・トリエムス)」
彼女は虚空の一点を睨みつけ、ルブソール語で呟いた。