(38)フロイデントゥク近郊、パレッケルク映画館、3月9日午後9時45分
深夜映画上映まであと15分。フロイデントゥク市内の映画館ならばともかく、郊外の閑散とした住宅地の映画館は、この時間帯、客はまばらである。男が一人、トイレに入る。男子小用便器の前に立った彼は、その姿勢のまま、立ち続ける。
トイレ入口ドアが開く。二人目の男は、先客とは一つ離れた小用便器の前に立つ。
「お招き、ありがとう」と二人目の男、先客に、「しかし、映画なんて40年ぶりだ」
「後をつけられませんでしたか」と先客のノタンノス、あとから来たWに。
「いや、大丈夫だろう」
ノタンノスは、隣の隣から聞こえる水の流れる音を聞き、一呼吸おいて話を切り出す。
「ザゾでの女帝の閲兵式は、かなり盛大な様子だったようで」
「らしいな」
「微動だにせず敬礼をする女帝の、頭の包帯が痛々しく、風になびく長い金髪が美しかったそうです。南の空を指さし『リュィック・ルドルフェヴァイオイ(砂賊を撃て(ママ))!』との檄に兵士たちが感動し、一斉に唱和した、とか」
「君の部下には文学青年が多いのかね?」
「……確かに、大学文学部出身の者は多いですが」
「そんな事よりも、早くやれ」
「は?」
「閲兵式は絶好のチャンスだったのだぞ。それを見逃すとは……。一刻も早く、アンナ・カーニエを取り除け!」
「しっ!」ノタンノスは制止した。彼の視線の先は、扉が閉じられた大便用の小部屋。彼は護身用拳銃を上着のポケットから取り出し、閉じられた小部屋に近寄る。小部屋のドアには、「故障中」と書かれた紙。
ノタンノスはドアを蹴り開けた。閉じられた便座、こわれたレバー。他には、何もない。生理用品入れや備付のペーパーすらも。
「失礼しました」
「早く、アンナ・カーニエを殺せ」とW、繰り返す。「こうしている間にも、ヴァストリアントゥオ人が次々に殺されているのだ」
「まさか、東部方面軍まで動員するとは思いませんでしたからな」
「そう。だから、早くせねばならぬ」
「失礼ですが。もはや、暗殺を計画する必要もないと思うのですが?」
「何だと?」
「我々の暗殺は、ことごとく失敗しています。ところが、暗殺の失敗は、ほかならぬ女帝本人に、思わぬ効果をもたらしているみたいですよ」
「……話せ」
「この一年、女帝は、夜、ろくに眠っておられないみたいです。では、昼に寝ているのか? 否」
「…………?」
「どうやら、本当に寝ていないみたいですな、これが」
「そんなばかな!」
「まあ、昼間に目を開けて寝ているならば話は別ですが。しかし、毎日盗聴テープを聞いていても分からないが、1か月おきに聞くと分かる事実があります」
ノタンノスはもったいぶって、間をおく、「女帝の心理的平衡が失われてきている事です。女帝の心を壊す前に行うべきのは、女帝の暗殺ではありません」
ノタンノスは便器の前を離れ、洗面台で手を洗う。
「女帝に譲位を要請するのです。これならば、女帝暗殺などよりもスマートに事が運ぶでしょう」
「誰に譲位させるつもりだ?」
「当然、アーリア・ライラ殿下に、です」
「あの子か……」
「そうです。あの子ならば、既に国事代行をしているし、アンナ・カーニエ本人も賛成するでしょう。そのうえ都合の良い事に、われわれの言うことを聞きやすそうだ」
「アンナ・カーニエも、結婚当初、『言うことを聞きやすそうだ』と言われていたぞ」
「女帝が先帝陛下に嫁がれた時は、今のあの子よりも10歳近く年をとっていましたよ。アーリア・ライラは、11歳。まだまだ子供です。いずれが、われわれに好都合かは、明らかでしょう」
「だが、譲位もいかん。アンナ・カーニエの政治的影響力が消し去れない。執務室のアンナが影響力を奮うようでは困るのだ」
「……やはり、暗殺するしかないのですか。しかし、暗殺に失敗する度に、有能なMのような人材を失うのでは、組織としてやっていけませんが」
Wは考え込みながら、洗面台へと向かう。液体状石鹸をよく塗り付けて手を洗い、湯を使ってよく泡を落とす。
「ここで、発想の転換をしようではないか。われわれと女帝は、チェスをやっている。われわれは王手を取ろうと、いろいろ手を打って、失敗、手駒も結構失った。だが、この際、王手を取りに行かず、敵の手駒を奪うようにしていけば、どうなのか。いかなる名人といえども、盤上に王が一つだけならば、勝ち目はあるまい」
「普通、名人相手にそんな指し手で対戦すれば、こちらがボロボロになるのですがね。それに敵の駒は、同時に、われわれの駒でもあるのですよ。不用意に事を進めると、かえって失敗するのでは……」
「だから、最も有効な者をつぶすのだ。たとえば、王立学院とか……」
「待ってください! 何ですって? 王立学院? あっ。まさか、私の手の者を使ってアルトノーミ宅を爆破させたのは……」
「私だ。レーダーに映らない飛行機などという物を考え出す技術者を片っ端から消せば、フロイディアの技術水準もヴァストリアントゥオ並になるだろう。そうなれば、鉱物資源に恵まれたヴァストリアントゥオにもチャンスはある」
「冗談ではないですよ。そんな事になれば、わが国は一巻の終わりではないですか」
「いやかね」
「ああ……。こうしましょう。まず、アルトノーミを消しましょう。王立学院の人間を消せば、われわれの意図は分かるでしょう。そして、その時、われわれの意図が分からない人間だけを消すのです。それでいきましょう、それで」
「仕方がない、それで手を打とう……。待て」
「まだ何かあるのですか?」
「アクスープは、どうするかね」
「……何とかする必要はありますね。しかし、奴は、体制監査委員会を取り込んでいます。つまり、この道のプロを抱えているという意味になります。あまり、面と向かって敵対したくないですね」
「だが、放っておくわけにもいくまい」
「なんとかするには、こちら側のカードを一枚、見せてやる必要がありますが」
「役の高い絵札を一枚、かね?」
「そうです」
Wは、もう大分乾いている自分の手をハンカチで拭う。
「そのカードを見てアクスープがどう動くかが問題だが。……まあ、いい。やってみたまえ」
「では、早速、新聞社に連絡を」
「別に急がなくても、映画が終わってからでも、明日の朝刊には間に合うだろう」
「まあ、かろうじて、といったところですが」
「では、後にしろ。……ところで、この『狼の舞踏』とかいう映画、面白いのだろうな?」
「前評判は、かなり良い映画ですよ。話はエフレーデ・カルデラの開拓物語ですし、わが国トップスターたちが競演していますし」
しかし、その映画は二人にとって、決して「面白い」代物ではなかった。