(34)ザゾ、ドロンペルペン宮殿、3月9日午前10時10分
アンナ・カーニエは危地を脱した。脳外科手術は成功、昨夜半に意識が回復したらしい。なんて悪運の強いやつだ?
宮殿敷地に立つラトス陸軍大将は、突貫工事をする車両を苦々しく思いながら見つめていた。多くの車両が、本日開かれる閲兵式のために、工事をしていたのである。河川敷で「女帝御自らが閲兵なさる」と、彼は聞いている。……あのような大手術を受けていて、すぐに閲兵をしようというのか。無茶である。だが、彼にとっては好都合。見るかぎり、即席のお立ち台には、防弾ガラスなどが施されていない。一個大隊が、閲兵中に、お立ち台に向かって機関銃を乱射してやれば、いかに強靭な者といえども、命を落とすだろう。……今度こそ失敗は許されない。
「おいラトス、ラトスじゃないか」
彼は、なれなれしい声の主を見る。旧知の顔。
「ああ、イクシェメールか……。待て、お前、なぜここに?」
「コンパーヌ方面軍ごと、ここに呼ばれたのだ」
「閲兵式に?」
「そう」
ラトスは工事車両を見直す。すべて、コンパーヌ方面軍の工兵隊の車両。突如、後ろからラトスは呼びかけられた。
「ラトス陸軍大将、女帝陛下がお呼びです」
ラトスはイクシェメールに「じゃあな」と言って別れる。彼を呼びにきた侍従に従って歩こうとして、彼は足を止める。
「それから、君。私を呼ぶときには、『陸軍大将』ではなく、『総督閣下』と呼びたまえ」
侍従はおおげさに驚いてみせた。
「これはこれは失礼しました、『総督閣下』どの」と皮肉に満ちた口調で言い返す。ラトスは心の中で舌打ちする。……アンナ・カーニエよりも、まず、こいつを毒殺してやろうか。
侍従は階段を上がり、執務室の前に来る。
「こちらでございますが」
執務室? 病室ではなく?
侍従は総督閣下の怪訝そうな表情をすぐに読み取った。
「ええ、女帝陛下は、もう、執務室で政務を執っていらっしゃいます」彼はドアをノックしようとして付け加えた、「おちおち寝ていられないとかで」
「どうぞ」と、はりのある声が中から応じた。侍従は「失礼します」とドアを開け、女帝に報告する、「ガモイ・ラトス陸軍大将をお連れしました」
アンナ・カーニエは顔を上げた。頭に巻かれた包帯が痛々しい。
「ありがとう」と女帝は目で侍従を下がらせる、「お茶でもいかが?」
「いえ、結構」
アンナ・カーニエは机の上の書類に目を落とし、そして、にっこりとほほ笑んで視線をラトスに向ける。
「今朝、フロイデントゥクから辞令がファクシミリで届きました。この辞令は、私が手渡した方が良かろうと思いまして……」
アンナ・カーニエは辞令を手渡す。
「辞令。ガモイ・ラトス陸軍大将。2階級降格のうえ、ザゾ経済特別区総督職を解任する。連邦行政委員会主席(自署)連邦政府軍務大臣(自署)」
自署の後に、軍務大臣の走り書きが付け加えられてあった。「早急に、フロイデントゥク軍法会議に出席せよ!」
ラトス(今は少将)は顔をひきつらせて、辞令を凝視していた。ゆっくりと顔を上げる。
「どういう事ですかな?」
女帝はこめかみに左手を持っていき、「ばあん」と(声にはださずに口だけ動かして)拳銃を撃つまねをした。
「女帝陛下暗殺……未遂の責任を取れ、と仰せなのですか。あんまりではないですか。それに、後任は誰を任命するのですか」
「そう……」女帝は遠い目付きをする、「イクシェメール大将あたりかしら」
イクシェメールだと!
「そんな事よりも。ミゼレン出身のMさん」と女帝、「白状しちゃいなさいな」
「M? 私の事ですかな? 臣に何を言上せよと仰せでしょうか?」
女帝は引き出しからテープレコーダーを取り出した。
「諸国民の名において、これは緊急な用件です。われらが同志M」「そ、その名前で呼ぶな」彼女は「一時停止」を押してテープを巻き戻した。「諸国民の名において、これは緊急な用件です。われらが同志M」「そ、その名前で呼ぶな……」
アンナ・カーニエは、にっこりと笑ってラトスを見る、「これは、あなたの声ですよね。否定なさるのならば、声紋鑑定してもらいますが」
ラトスは無意識のうちに自分の髭をなでる。「盗聴行為は公的情報侵害罪になりますぞ、アンナ・カーニエどの」
「では、認めるのですね?」
「……しかし、そのテープを証拠とするならば、アンナ・カーニエどの、あなたは法の裁きを受けねばなりませんぞ」
「私ならば、いつでも被告席に立ちましょう。必要ならば、牢屋にも入りましょう。それでも、あなたに聞きたい。これは、あなたの声ですよね?」
「否定はせぬ」
女帝は、くすっと笑う、「『否定はせぬ』ではなくて、否定できない。そうでしょう?」
再び彼女は頭に巻かれた包帯に左手を向けた、「そして、あなたは私を殺そうとした。そうですね?」
「ちょっと待った!」とラトス、「私はそんな事、一言も言っていないぞ!」
アンナ・カーニエは引き出しから新しいテープを取り出した、「ツェデクレム社のシャラジオさんは今朝3時に自供を始めましてね」彼女はレコーダーの外に置かれたテープを示す、「あなたがNなる人物の命令を受けて私を暗殺しようとした事。その自供内容が録音されています。これでも、あなたが私を殺そうとした事の証拠になりませんか?」
ラトスは答えない。
「もう一つ、証拠があります」
彼女は引き出しから写真を取り出す。軍服を着たラトスが空港で、親指を地面に向けている写真である。三月七日の午後五時すぎ。Mが何度も「暗殺実行」の合図を連絡者たちに送った瞬間である。
「多くの人が、あなたのこの動作を目撃しています」彼女は意味ありげに付け加えた、「その目撃者の中には私も含まれています」
ふふっと彼女は笑いながら、自分の包帯を手早くほどいていく。その際、ぱさっと頭を一振りして、乱れた金髪を整える。ラトスの目は大きく見開かれる。脳外科手術をするときは、頭髪を剃り落とすはずだ! 彼女は口元に相変わらず笑みを浮かべているが、彼女の大きく深い緑灰色の瞳は笑っていない。女帝は何げなく髪をかきあげ、無傷なこめかみをそっとラトスに向けた。
「そう。私は予め、飛行機の中から出ていたのです。そして、タラップの陰に、あなたが立っているのを見ました。私は、そのまま、整備員のふりをして、作業を続けるかたわら」抽斗から小型カメラを取り出す、「あなたの姿を撮影したのです。もう一度訊ねます。今回、暗殺指令を出したのは、ミゼレン出身のMことガモイ・ラトス、すなわちあなたですね?」
ガモイ・ラトスはうなだれている。彼がふと見上げたとき、壁にかけられた先帝トロウス・ゴルティの肖像画が視界に入る。彼は、女帝を見ず、肖像画を見たまま答える、「そうです、私です、陛下」
ごとっ、と重い音がした。見ると、大きく、無骨な感じの軍用拳銃が、机の上に置かれている。
「先帝陛下の形見、軍用拳銃です」女帝は立ち上がる。「それで、私を撃ちなさい」
えっ?
彼女はラトスに背を向けた。
「Nなる人物の命令を受けて私を暗殺しようとした事を、私は知っています。しかし、おそらくあなたと同様、そのNなる人物は単なるメッセンジャーに過ぎない事も……。本当の黒幕は誰ですか? それを教えてくれさえすれば、あなたにかけられる大逆罪について赦免するよう口添えいたしましょう。……教えてくださらないというのならば、今ここで、その拳銃で私を撃ちなさい」
アンナ・カーニエは、窓から、大河イェダを照らす朝日を見つめている。だが、全神経は背後の暗殺者に向けられている。ラトスは机の上の拳銃を取り、安全装置を解除した。目を閉じたアンナ・カーニエの体は、小刻みに震える。……この震えがラトスの目につかなければ良いが。
銃声。女帝は振り返った。ラトスは拳銃を口にくわえて床に倒れている。彼は第三の選択を取ったのだった。すなわち、銃口を自分に向けたのである。彼女は手早く包帯を頭に巻きつけて、再び窓の方を向く。
銃声を聞き付けた侍従が執務室に駆け込んでくる。不注意にドアを開けた彼は、ラトスの死体に驚く前に、ラトスの脳漿を踏みつけてしまう。
ラトスが警備上の不手際を詫びるべく自殺をしたと、侍従は誤解した。窓際の女帝の体が震えている。……ラトスの死を惜しんで涙を流されているのであろう。これも誤解である。彼女を暗殺しようとする組織の末端が自殺しただけであり、組織の、彼女を殺そうという意向に変化があるとは思われない。彼女は母国語ルブソールで「怖い」と呟いた。そう、暗殺者は次から次へとやってくるだろう。
侍従はルブソール語の「怖い」をシルニェ語の「既に」と聞き違えた。
「ええ、既に、息絶えておられます」
「丁重に葬ってやって……」
「はい」侍従は一礼し、ドアを開けたまま人を呼びに出る。
彼女は、その隙に、訴えるような目で、肖像画を見上げた。
「私、怖い」
彼女の夫の絵は、しかし、「怖い物などない」と言いたそうに、毅然とした表情を妻に向けていた。