(28)ヴァストリアントゥオ、ザゾ総督公邸、3月7日午後10時15分
ナイトガウンを着てブランデーグラスを片手にもった総督ラトスは、かなり酔っていた。グラスのツラナの飲み過ぎである。ドアの呼び鈴が鳴る。
「こんな時間にやってくるとは、どういう料簡だ?」
「諸国民の名において、これは緊急な用件です。われらが同志、M」
ガモイ・ラトスの酔いは、すぐに吹っ飛ぶ。
「そ……その名前で呼ぶな!」
「なぜです? ここには私とあなたの他には誰もおりませんが」
ラトスは首を横に振り、シャラジオの耳元でささやく。
「甘い。甘いぞ。ここには、少なくとも3つの盗聴器が仕掛けられていると考えたほうが良い」
シャラジオは、華奢な体を小心そうに震わせ、周囲を見る。
「お、驚かしっこなしにしてくださいよ」
お返しだ、といわんばかりに、ラトスは笑う。
「さて」ラトスはビンを開け、もう一つのグラスにツラナを注ぎ込む。「何の御用かな、ツェデクレム社のザゾ支社長どの?」
シャラジオはグラスに手をつけず、ソファーに座り込む。
「ジョンゴン軍の、わが組織の者から連絡がありました。それによると、ジョンゴン軍の作戦計画が、フロイディアに漏れている形跡がある、と」
「スパイなら、どこにでもいるだろうに。……その程度の話が、『緊急な用件』なのか?」
シャラジオは黙っている。
「近いうち……。いや、明日の朝早くに、ジョンゴン軍が大規模な作戦を実施するのだな? やつらは、どこを攻略するのかね」
「ガンツィットへ上陸」
ガモイ・ラトスは、むせる。「……大河イェダの北岸じゃないか!」
「そのとおり」
「そんな話は聞いていないぞ。イェダの南岸をジョンゴン領の境界線とするようになっていたのではなかったのか」
「これでも、大幅に譲歩させたのですよ。やつらは最初、イェダの支流ナコラッシュ川以南を領土として主張していましたからね」
「…………」
ラトス総督には、発すべき言葉がない。ナコラッシュ以南とは、ミゼリア、ザゾ、コンパーヌ地方すなわちヴァストリアントゥオ北部全域を指すのである。
「まあ、わがツェデクレム社としては、ヴァストリアントゥオ北部全域をジョンゴンが制圧してくれたほうが、ありがたいのですが」
「ちょっと待て!」
「……組織の事を考えると、そういうわけにもいきません。ガンツィットとチテチマニを献上する条件で我慢してもらいました」
「きさま、ジョンゴンに、いくら貰った?」
「1フロインはおろか、1ミトリムだって貰っちゃいませんよ」
シャラジオはツラナに口をつける。アルコール度数45パーセントの、強い香りのある蒸留酒に、彼はむせる。
「ただし、書類に署名していただきましたがね」
シャラジオは契約書をテーブルの上に置いた。ラトスはツェデクレム社とジョンゴン政府との契約書を見る。左から右に読もうとして、彼はセレシア語で書かれている事に気づく。
「何が書かれてあるのだ?」
シャラジオは契約書を右から左に読んでいき、内容を要約する。
「ジョンゴン政府は、以後、国内の工場建設、車両生産、車両の販売について、ツェデクレム・ツェバン社に一任する。その代わり、当社は武器を含む当社製品を貸与する……」
「やってくれたな」
「まあ、これは仕方のない話ですよ。ソルポック、レヴォルなどの強豪がヴァストリアントゥオでのシェア拡大を目指している中で、『航空王』のリファノイ・レノッドカム社まで車両生産に踏み切られては、ね。老舗のツェデクレムとしては、業界トップとしてのシェアを維持したいと……」
「シェアの維持ではなくて、独占だろう」
「で、ここからが『緊急の用件』になるのですが。ガンツィットおよびチテチマニに展開しているフロイディア軍を、即刻、軍政庁のあるミゼレンまで、撤退させていただきたい」
「無理だな」
「できるはずです」とシャラジオ、ツラナを一口で飲み込む。「できるはずです。いや、やってもらわないと困ります」
「君がどう困ろうと、できぬものは、できん。そもそも、ガンツィットはミゼレンの軍政庁の管轄にある。陸軍大将としては、まず、納得のできる理由をつけた指令書をミゼレンの軍政庁に届け、なおかつそこからガンツィットの軍を移動させるとなると……」
ガモイ・ラトスは壁時計を見る。「そう、いくら早くても、移動し始めるのが明朝になるな」
シャラジオは頭を抱える。「なんとしても、今晩中に動いてもらわないと、困るのです」
「困るものか。……いや、どう困るのかね」
「ジョンゴン軍では、事態を重く見ております。もし、今回の作戦が失敗したときには、スパイの容疑者を全員粛清する……と」
Mことラトスは、グラスを空け、10杯目のツラナを注ぐ。「つまり、ジョンゴンへの連絡員がその中にいて、スパイの嫌疑をかけられているのだな」
「ええ、全員が二重スパイではないかと疑われています。最悪の場合には、全員が処刑される可能性があります。私がしょっちゅうジョンゴンの元に出入りするのは憚られますから……」
「われわれからの連絡が途絶えるという事態に陥る、のだな」
彼はグラスを持ったまま立ち上がり、シャラジオに背を向ける。壁の先々帝の肖像画が彼の目に入る。
「私にも立場というものがある」とラトス。「ザゾ経済特別区の総督として、私は他の者に干渉されにくい権限を奮ってきた。だが、それも、組織のためにやってきた事だ。今、強引にガンツィットとチテチマニのフロイディア軍を撤収させると、私の立場が危うくなる。ジョンゴンへの連絡員が消えるのと、私というフロイディア・ヴァストリアントゥオ間の中継点がなくなるのと、いずれが良いのかね? 私は、そのような命令は出さないぞ。出せるわけがなかろう!」
シャラジオは溜め息をつく。「分かりました、おいとましましょう」彼はグラスをテーブルに置いて立ち上がる。「どうもおじゃましました」
ガモイ・ラトスは答えない。
「そうだ、こちらの方が閣下には緊急な用件かもしれません」シャラジオはラトスに歩み寄る。「アンナ・カーニエは、どうやら助かりそうです」
「そんなばかな!」
「来る途中で、ザゾ空軍病院に立ち寄ったのですがね。外科医が8人、4人ずつ交替で、女帝の頭部の弾丸摘出手術を続けているそうです。当然、報道陣はシャットアウトだったのですが、偶然、先生の一人とお話しができましてね。大変難しい手術ではあるが、見通しは明るいと」
ラトスのグラスを持つ指が震える。
「ただし……。生命は助かるが、このまま意識が回復しない可能性が高い、と」
ラトスは安堵の息をつく。「ただ呼吸して、脈があるだけ、か」彼は、グラスの中のツラナを飲み干す、「女帝はすぐに廃位されるようになろう」
そうはならなかった。