(17)フロイデントゥク、クロイゼドラウグ宮、3月6日午後8時40分
細長い食卓の上座には車椅子の老人、下座には女性。ウエイターは二人のグラスに白ワインを満たして、外へと出る。二人はグラスを掲げた。
「公爵閣下のご健康のために」と女性。
「女帝陛下のご健康のために」と老人。
二人とも酒はあまり飲めない。それゆえ二人とも、口をつけただけで、テーブルにグラスを戻す。
ラルガイン公爵はテーブルを眺める。フォアグラのテリーヌ、キャビア添え。サフラン風味のコンソメスープ。鱒のバターソテー、温野菜添え。そして、デザートにはバナナのムース。レフ・ヒヴェデップ・ラルガインは、それらの料理を無視して、まず、パンを手にした。
「また、料理をご自分で作られたのですね」
彼はパンをちぎって、一口、口にする。
「おまけに、パンまで手作りときている」
彼はバター皿を指さした。
「まさか、バターまで手作りというのじゃあるまいな? 女帝陛下には、とてもじゃないが、そのような雑事をしている暇はないはずですぞ」
「今度いらっしゃるときは、バターとチーズも作っておきますわね」とアンナ・カーニエ、「でも、その機会はあるかどうか疑問ですけれども」
「ははは、タミトル・トニャヤス(至高の聖人)、神君、聖ユビウスよ。私も長生きしたからなあ……」
「いえ」とアンナ・カーニエ、「私の方が先に死ぬかもしれません」
「……どうやら、私を呼んでくれたのは、その辺に話がありそうだね」
アンナ・カーニエは、手にしていたスプーンを、元の位置に戻した、「そのとおりです、お父様」
アンナ・カーニエの実父ラルガインは頷き、自身の娘に続きを促した。
「私、ヴァストリアントゥオのザゾへと参ります」
「戦況の視察か」
「いえ、向こうで政務を執ります。既に、宮殿として利用するつもりの館も確保してあります」
「おいおい。そんな事をしたら、政府が混乱してしまうぞ」
「ですから、政務のほとんどは、アーリア・ライラに代行してもらうつもりです」
「アーリア・ライラに? そりゃ、まだ無理だよ」
「書類に、言われた通り署名するだけですのよ。字を書くだけなら、小学生でもできますわ」
「しかし、勅令はどうするね」ラルガインは二つ目のパンを受け皿に取る、「お前はよく、勅令を出しているみたいだが、アーリア・ライラみたいな小さな女の子に、それができるのだろうかね」
「ええ、フロイデントゥクの代行者でできるか、それとも私がやらなければならない事かを判断する人が必要です」
ラルガインはもてあそんでいたパンを受け皿に置いた、「それを私にやって欲しいというのだな」
「いけませんか」
「あまり良くないね。まるで私が外戚としての専横をほしいままにしているようではないか」
「でも、頼める人は、お父様しかいないのですよ。他の者は政治的に色分けされているから、頼めないのです……」
「私は過去の人だからな」とラルガインは苦笑する、「資産も地位もなく、ただ爵位と名誉、ささやかな過去のみを持つ伯爵……。おっと、失礼、もう公爵だったかな。まあ、どうでも良いが、私など否応なしに、政治的に中立になってしまうというわけだ」
「お願いします」とアンナ・カーニエ、「アーリア・ライラを守ってやってください」
「いっそ、ヴァストリアントゥオ行きをやめれば、どうだ?」
「お父様……。お父様は宮廷に仕えていらっしゃったので、お解りでしょう。宮廷という所は、策略の舞台となっているのです」
「まさか」
「私は、既に、政治的に中立な立場ではありません」
「おい」ラルガインは溜め息をつく、「あれほど、陰謀に加担するなといっておいたではないか」
「でも、お父様、自分の命を4回も狙われて、娘の命を3回も狙われてごらんなさい。政治的に中立な立場などと言っていられませんでしょう。私の命ならともかく……」
娘の命と言おうとして、彼女は言うのを止めた。そして、父親を見る。父ラルガイン公爵は渋い顔をして、溜め息をついた。
「よし、わかった。引き受けよう。摂政でも何でも任命してくれ。だが、一つだけ言っておく」
「なんですか?」と女帝は身構えた。
「あまり無理はするなよ」
アンナ・カーニエは苦笑して「気をつけます」と答えた。