世界を救った英雄を、私が殺した
序章
世界を救った男を殺すのに、剣はいらないはずだった。
最強の勇者レオン・アルヴェルトの肌は、もう何年も前から刃を通さない。槍も、矢も、炎も、彼の前ではただの祝福に変わる。魔王の爪さえ砕けなかったその体を、ただの鋼が貫けるわけがなかった。
それでも私は剣を腰にまいて、その部屋へ向かっていた。胸には剣よりもずっと重いものを抱えて。
外では鐘が鳴っていた。弔いの鐘ではない。祭りの鐘だ。明日、広場では英雄像の除幕式が行われる。台座にはこう刻まれるという——『世界を救った英雄、ここに永遠なり』。花が運び込まれ、楽団が稽古をし、子どもたちは木剣を振り回して勇者の真似をしている。誰もが幸福だった。
人々は知らない。その英雄が、もう三日も眠れていないことを。夜ごと聖女の墓の前に膝をつき、酒の瓶を抱えて泣いていることを。そして、自分の妻が今どんな顔をして、屋敷の階段を上っているのかを。
誰も知らなくていい。知っているのは、私だけでいい。
私はこの世界に、二度目の生を受けて生まれた。前の世界の名前も、顔も、もうほとんど思い出せない。けれど一つだけ、どうしても消えなかったものがある。——誰かを神にしてはいけない、という感覚だ。人は、神にされた瞬間に、人であることをやめさせられる。罰せられず、疑われず、ただ崇められるだけの存在になる。そうして、自分でも自分を止められなくなる。
この国でそれを知っているのは私だけだった。そして、彼を止められるのもたぶん、私だけだった。
階段を上りきり、扉の前で足が止まった。木の扉一枚の向こうに、かつて私が世界の誰より愛した男がいる。ここから先へ進めば、もう戻れない。彼も、私も。
それでも私は扉に手をかけた。
——どうして、こんなことになったのか。
扉を開ける前に、少しだけ思い出させてほしい。世界が救われ、誰もがもう何も恐れずに済むと信じていたあの平和な日々を。
あの頃の私は、まだ知らなかった。いつか自分のこの手で、愛する人を殺す日が来るなんて。
第一章 平和という名の腐敗
魔王が滅びてから、世界はよく晴れていた。
三百年に一度よみがえる災厄をレオンは退けた。正確には、退けたと人々は信じている。空は青く、畑は黄金色に実り、街道には隊商が戻り、子どもたちは英雄ごっこに夢中になった。戦争を知らない世代が、もうじき生まれてくる。誰もが、怖いものなどもう何一つ残っていないと信じきっていた。
アルヴェルトの屋敷はいつのまにか、王宮にも劣らぬ広さになっていた。魔王討伐の褒賞、各国から届く貢ぎ物、名も知らぬ貴族たちが置いていく贈り物。廊下には勝利の絵画が隙間なく並び、庭には噴水が三つもあった。
私はその屋敷の正妻として、毎朝、夫の武運を祈る花を祭壇に捧げる役目を負っていた。捧げる相手が、もうとうにいなくなっていることにも気づかぬまま。
夫は、いつのまにか何人もの妻を娶っていた。
この世界ではそれは恥ではない。英雄が多くの女を侍らせることは、むしろ繁栄の証とされる。第二夫人も、第三夫人も、まだ年若く、皆おとなしくて、私に過剰なほど礼を尽くした。私は彼女たちを憎めなかった。彼女たちもまた、英雄という名の檻に入れられた者たちだと知っていたから。憎むべき相手は、別にいた。
最初に違和感を覚えたのは、酒の匂いだった。
昔のレオンは、酒を一滴も飲まなかった。
剣の冴えが鈍ると言って、祝勝の宴でさえ杯に口をつける真似をするだけだった。
剣を抜けば誰より速く、笑えば誰より眩しく、仲間の誰かが傷つけば自分のことのように痛がる——そういう男だった。
それが今では、朝から葡萄酒の匂いをまとっている。昼には呂律が回らなくなり、夜は眠れぬまま屋敷をさまよう。
その重く、あてのない足音を、私は毎晩、寝台の中で数えていた。何かから逃げるような、けれど決して逃げきれない足音を。
ときおり、その足音が私の寝室の扉の前で止まることがあった。けれど彼は、決して中には入ってこなかった。ただ、扉一枚を隔てて、長いあいだ立ち尽くしている。
何か言いたいことがあるように。それでいて朝になると、何ごともなかったように、また英雄の顔に戻っているのだった。
その閉じた扉が、私たちのあいだに横たわる距離の、すべてだった。
ある夜、廊下で侍女が皿を落とした。
割れた陶器の音に、レオンが振り返った。その瞬間、侍女の体がびくりと縮こまり、とっさに両腕で頭をかばった。
叩かれることを、頭より先に体が覚えている——そういう動きだった。レオンは何もせず、ただ億劫そうに目をそらして去っていった。
けれど私が見たのは、侍女の怯えだけではない。去っていく彼の背中に、罪悪感のかけらすら浮かんでいなかったことだ。
翌朝、私はその侍女に尋ねた。腕に痣はないか、と。彼女は青ざめて、何度も首を振った。
「奥様、何でもございません。旦那様は世界をお救いになったお方です。私のような者が、不満など……滅相もございません」
不満を口にすること自体が、罪なのだ。英雄に救われた命で、英雄を疑うなど。
彼女は心の底からそう信じていた。それがこの国の人間の、英雄を語るときの顔だった。
私は、自分の手のひらを見つめた。かつてこの手は剣を握り、レオンの背を守って戦った。
魔王の城の最奥で、私たちは互いの命を預け合った。あのとき確かに、彼は世界で一番美しい人間だった。
いつだったか、野営の夜に、彼は焚き火越しに私へ言ったことがある。
「世界を救ったら、お前と二人で、誰も俺を知らない町へ行きたい。畑でも耕して、馬鹿みたいに平凡に暮らすんだ」と。
私は笑って、似合わないと答えた。彼も声を立てて笑った。あの夜の火の色を私はまだ覚えている。彼が夢見たその平凡な暮らしは、世界が彼を英雄にしてしまったせいで、ついに訪れることはなかった。
その人がいつから、こうなってしまったのだろう。いや——違う。問うべきはそこではない。いつから私は、彼を「英雄」と呼ぶことで、それ以上を見ないで済ませてきたのだろう。
前世の感覚が、胸の奥でちりちりと疼いた。神は、罰されない。だから神にされた人間は、どこまででも堕ちていける。誰も手を伸ばさず、誰も叱らず、誰もが許してしまうから。
その夜、私は決めた。見ないふりを、やめようと。たとえその先に、見たくないものしか待っていなかったとしても。
第二章 英雄が踏みつけたもの
調べはじめて最初に分かったのは、屋敷の外に「沈黙」が降り積もっているということだった。
商人が一人、店を畳んで町を出ていた。レオンが酒の代金を踏み倒し、抗議した彼を、衛兵が「英雄への侮辱」の罪で捕らえたのだという。
数日後に解き放たれたとき、その男は片目を失っていた。私が訪ねていくと、彼は震える声で、こう言った。
「奥様。誰も悪くないのです。私が、英雄様のご機嫌を損ねた。ただ、それだけのことでございます」
彼は本心からそう信じていた。世界を救った人に逆らった自分が悪いのだ、と。残った片目で、彼は私に向かって笑ってみせさえした。その笑顔が、何より恐ろしかった。
別の町では、若い兵士が一人、心を病んで除隊していた。英雄の警護を任され、レオンの暴行を間近で見て、止めようとして、逆に「裏切り者」と殴り倒されたのだという。
彼の母親は、息子の名誉のためにと、その話を誰にも漏らさぬよう、私に深く頭を下げた。
話を聞けば聞くほど、同じ形が浮かび上がってきた。奪われた者が、奪った者を庇う。傷つけられた者が、傷つけた者に感謝する。
英雄を疑えば、自分が魔王の側に堕ちてしまう——人々はそう刷り込まれていた。だからレオンの罪は、罪として数えられることがなかった。
煙が立つそばから、信仰がそれを吸い込んで消してしまうのだ。
帰り道、私は何度も足を止めた。彼らの傷の一つ一つに、私の沈黙が塗り込められている気がした。
正妻として、誰よりも近くにいながら、私は何年も「英雄の妻」という役を演じることで、見て見ぬふりを続けてきた。
踏みつけられた人々にとって、私もまた、加害者の側に立っていた人間なのだ。その事実が、鉛のように重く、胸の底へと沈んでいった。
私は、ずっと蓋をしてきた記憶に、ようやく手を伸ばした。五年前。魔王の城、最奥。
あのとき、私たちのパーティには聖女がいた。名をミレイユといった。誰よりも優しく、誰よりも力が弱く、それでいて誰よりも前に出ようとする娘だった。回復の魔法を使い果たすたびに「ごめんね、もう少しだけ頑張るから」と笑う、そういう子だった。レオンは彼女を、本当の妹のように守っていた。戦いのあとはいつも、その頭にぽんと手を置いて、「よくやった」と言うのが彼の癖だった。
魔王の最後の一撃は、レオンを狙った。ミレイユが、間に割って入った。
彼女の体が砕ける、あの音を、私は今でも夢に見る。レオンが上げた、声にならない叫びも。あの瞬間、レオンの中で何かが、魔王よりも先に死んだのだと、今ならわかる。
彼は世界を救って、自分のいちばん大切なものを、救えなかった。
帰還した英雄を、世界は熱狂で迎えた。花びらが舞い、歌が作られ、その名は神々の隣に並べられた。けれど誰も知らなかった。
彼が夜ごと小さな墓の前で夜を明かしていることを。鏡に向かって「お前が生き残ればよかった」と呟いていることを。
英雄は完璧でなければならない。悲しむことすら、許されない。涙を見せれば、人々の希望が崩れてしまうから。
だから彼は、悲しみを酒で溶かし、痛みを権力で殴りつけ、空っぽになった胸を女たちで埋めようとした。
埋まるはずがなかった。埋まらないから、彼はもっと深く堕ちていった。
それでも——と、私は思う。それでも、罪は罪だ。壊れた理由がどれほど切実でも、あの商人の目は二度と戻らない。庇うことと、許すことは違う。理解することと、見逃すことは、まったく違う。
私は、彼が堕ちていった理由を理解してしまった。理解してなお、これは止めなければならないのだと、絶望とともに思い知った。
そして、その絶望が決して引き返せない形を取ったのは、フィリアの一件だった。
第三章 禁呪
フィリア・ヴァルグレイは、大魔導師アストルの、たった一人の娘だった。
明るく、まっすぐで、英雄に憧れていた。
幼い頃から父の隣でレオンの戦いを見て育ち、長じて自らも宮廷魔導師の一人となった。
大人になってなお、勇者のことを語るときだけは、少女のように目を輝かせた。彼女にとってレオンは、信仰そのものだった。
その彼女が、ある夜、屋敷から戻らなかった。
何があったのか、私はここに書かない。書けないのではない。書いてはならないと思うからだ。
彼女が壊された、その壊され方を言葉にすることは、彼女をもう一度踏みつけることになる気がする。だから、結果だけを記す。
数日後にようやく見つかったフィリアは、もう、誰の声にも応えなかった。父が名を呼んでも、見知らぬ人を見るような目をした。
憧れていた英雄の名を耳にすると、声にならない悲鳴をあげて、自分の体をかき抱いた。彼女の中で信じていたものが、根こそぎ引き抜かれていた。理想を打ち砕かれた、という言葉では、到底足りない。打ち砕かれたのは、彼女が世界を信じる力そのものだった。
アストルは、娘を抱きしめたまま、一晩中、声を立てずに泣いた。
翌朝、彼の目から涙は消えていた。代わりに、私が今まで一度も見たことのないものが、そこに宿っていた。
大魔導師アストル・ヴァルグレイは、レオンを息子のように見守ってきた人だった。
まだ少年だったレオンに魔法の基礎を教え、戦地では誰よりも後ろ盾になり、英雄と祭り上げられてからも、ただ一人「レオン」と名前で呼び続けた。「あの子はいい目をしている」と、よく目を細めて言っていた。誰よりも深く彼を信じていた人が、誰よりも深く裏切られたのだ。
いつだったか、酒の席でアストルは、自分には実の息子がいなかったと私に打ち明けたことがある。だからレオンを見ていると、いもしない我が子を見ているようで、つい甘くなるのだ、と。照れたように笑ったその横顔を、私は覚えている。その人がいま、自分の命を削って、息子同然の男を殺すための術を組み上げている。
世界が一人の英雄を生み出すために、いったいどれだけの人間の心を、静かに踏み砕いてきたのだろう。
私が訪ねていくと、アストルは地下の工房にいた。床には見たこともない複雑な術式が描かれ、幾重にも重なった魔法陣の中心で、心臓ほどの大きさの結晶が、脈打つように淡く光っていた。
「これは禁呪だ」
私に背を向けたまま、彼は言った。
「英雄の加護を、ただ一度だけ、無に帰す術。あの男の肌をただの人間の肌に戻す」
私は息を呑んだ。それは、レオンを殺せるということを意味していた。
「だが、対価がいる」
アストルの声は乾ききっていた。
「この術は、運び手の生命を喰う。発動すれば、術を使用した者は必ず死ぬ。しかも——あの男の体に、直接触れていなければ、発動しない」
工房の沈黙のなかで、私はその言葉の意味を、ゆっくりと理解していった。
力ずくでは、誰もレオンに近づけない。怯えた者では、近づけない。彼が決して手を上げず、彼にいちばん近づける人間——それは、世界でただ一人だった。
「すまない、エリシア」
アストルは、ようやく振り返った。その目に、初めて躊躇いが滲んでいた。
「お前にこんなことを頼める道理はない。本来なら、私が自分の手でやるべきだ。だが、私ではあの男に十歩と近づけない。私を見れば、あいつは身構える。……お前を見るときだけ、あいつはまだ、何も持っていない丸腰の手を差し出すんだ」
私は答えなかった。答える代わりに、その脈打つ結晶を両手で受け取った。
冷たいと思った。そして——私自身の心臓とまったく同じ速さで、それは脈を打っていた。
第四章 本音
その夜、私はレオンの部屋を訪ねた。禁呪を抱いて向かうより前に、もう一度だけ、二人で話がしたかった。
彼は窓辺で酒を飲んでいた。月明かりが、痩せた横顔を青く照らしている。
かつて世界を背負ったその肩は、今は何かに押し潰されたように、ひどく丸まっていた。
私が部屋に入っても、彼は振り向かなかった。
「フィリアのことを、聞いたわ」と、私は言った。
杯が、止まった。
長い沈黙のあとで、レオンは笑った。自分を嘲るような、聞いていて胸が痛くなる笑い方だった。「責めに来たのか」
「いいえ。理由を聞きに来たの。あなたが、どうしてここまで来てしまったのか」
「理由なんて、ないさ」
彼は窓の外を見たまま言った。
「ただ、何も感じなくなっただけだ。誰を傷つけても、もう何も痛まない。痛まないから、止まれない。……笑えるだろう。世界を救った英雄が、自分一人すら救えないんだ」
私は、何も言わなかった。彼が言葉を続けるのを、ただ待った。
「覚えてるか、エリシア。初めて会った日のこと」不意に、彼はそう言った。
「お前は俺に剣を向けて、『英雄様だか何だか知らないけど、背中はがら空きよ』って言ったんだ。
誰も俺にそんな口をきかなかった。みんな俺を拝むばかりで。……あのとき初めて、俺は人として見られた気がした。お前だけが、俺を勇者じゃなく、ただのレオンとして話しかけてくれた」
覚えている。忘れるはずがない。あのとき彼は、剣を向けられて、怒るどころか嬉しそうに笑ったのだ。
「いいな、お前。よかったら、ずっと俺の隣にいてくれ」と。それは、私がこの世界で初めて、誰かを本気で好きになった日だった。
神でも、英雄でもない、ただのレオンという一人の男に、私は恋をした。
「ミレイユが死んでから、ずっと考えてる」
レオンの声が少しずつ崩れていった。
「どうしてあいつが死んで、俺が生きてるんだろうって。みんな俺を英雄だと言う。俺が世界を救ったと言う。違うんだ。俺はあいつを盾にして、その死体の上に立ってるだけだ。なのに、誰も俺を罰しない。誰も、俺を責めてくれないんだ、エリシア」
罰してくれない。その言葉に、私は胸を貫かれた。
「英雄は、完璧でいなきゃいけない。悲しんじゃいけない。間違えちゃいけない。だから俺は、わざと間違えてみせた。商人を殴り、兵士を踏みつけ、酒におぼれて、女に逃げた。誰かが俺を止めてくれると思った。誰かが、『お前は最低の屑だ』と、面と向かって言ってくれると思った。……誰も言わなかった。何をしても、みんな笑って許すんだ。許されるたびに、俺の中身は、少しずつ消えていった」
「……毎朝、屋敷の前に人が並ぶんだ。病気の子を抱えた母親や、職をなくした男が、俺を拝みに来る。レオン様、どうかお恵みを、ってな。俺は、その手の一つも握ってやれない。握れば、俺の汚れが、その手に移る気がして。神様なんかじゃないのに。神のふりをして……もう誰一人、救えやしないのに」
彼はようやく私を見た。濁った瞳の、いちばん深いところに、道に迷った少年がうずくまっていた。
「俺はもう、終わりにしたいんだ」
絞り出すように、彼は言った。
「でも、自分じゃ死ねない。英雄は、自害すら許されない。みっともないだろう。……世界を救った男が、一番救ってほしかったのは、自分自身だったなんて」
私は彼の隣に腰を下ろした。昔そうしていたように、その手をとった。剣を捨てて久しいその手は、剣だこの硬さだけはあの頃のままだった。
「レオン」と、私は呼んだ。
「私は、あなたを許さないわ。フィリアのことも、あの商人のことも、あなたが踏みつけてきた全部を、私は絶対に許せない」
彼は、目を伏せた。
「でもね」
私は続けた。声が震えないように、ひとつひとつ、ゆっくりと。
「私は、あなたを今でも愛してる。許せないまま、愛してるの。その二つは、ちゃんと両立するのよ。——少なくとも私の生まれた世界では、人はずっと、そうやって生きてきた」
レオンの目から涙がこぼれた。英雄になってから、彼が人前で泣いたのは、それが初めてだった。
その涙を見て私は決めた。彼を罰せる人間は、世界にただ一人。彼を心から愛している人間も、世界にただ一人。その二つが同じ一人であることから、もう、目を逸らすまいと。
最終章 愛の終幕
——そして、あの夜に戻る。
手のひらの中で禁呪が脈打っている。私の鼓動と同じ速さで。
扉を開けると、レオンはこちらを見た。濁った瞳の奥で、昔の光が、ほんの一瞬だけ揺れた。私を見るときだけ、彼はまだ、勇者になる前の少年に戻れた。
「……エリシア」
彼は私の名を呼んだ。
「こんな時間にどうした」
私は答えなかった。答えれば、声が震えるとわかっていたから。代わりに、一歩、踏み出した。もう一歩。
彼の前に立つ。手を伸ばせば届く距離。世界で私だけが立つことを許された場所。
私は禁呪を胸に抱いたまま、もう一方の手を、彼の胸に当てた。
その瞬間、彼の体が硬直した。手のひらの下で結晶が砕け、熱が走り抜ける。英雄の加護が、剝がれていくのがわかった。
何年も彼を覆っていた神の鎧が、触れた手のひらから、みるみる人間の肌へと戻っていく。
同時に私の中から、何かが静かに抜き取られていくのを感じた。生命だ。私の生命が術の燃料として吸い上げられていく。指の先から順に、冷たくなっていく。
「やめろ」
レオンが初めて取り乱した。私の手首を掴み、引き剝がそうとする。
「やめろ、エリシア、何をした、これは——お前まで死ぬ気か。やめてくれ、頼む、お前だけは、お前だけは——!」
最強の勇者が生まれて初めて、何かに本気で怯えていた。それは、自分の死ではなかった。私の死だった。
私はもう感覚の薄れた指で、彼の頰に手を添えた。
「私は最後まであなたを愛していたわ」
彼の動きが止まった。私の目を見て、私の覚悟を見て——そして、理解したのだと思う。
これが罰であり、これが赦しであり、これが、二人で迎えられるたった一つの終わりなのだと。
もう力の戻らないその腕で、彼は私を抱き寄せた。昔、戦場で互いの背を預け合ったときと、同じ強さで。
「……ありがとう」
息のような声で、彼は言った。
「やっと、終われる。お前と、一緒に」
私は用意していた剣を抜いた。加護を失った彼の体はもう、ただの人間のものだった。
鋼は何の抵抗もなく、重なり合った二人の体を貫いた。
痛みは、なかった。ただ、温かかった。
遠い昔、初めて二人で迎えた朝のことが、なぜか浮かんだ。魔王を倒した翌朝、崩れた城の瓦礫の上で、私たちはただ生きていることを確かめ合った。
何も成し遂げていない、ただの二人だった、あの朝。——結局、私がいちばん愛していたのは、英雄になる前の、あの日の彼だったのだ。
崩れ落ちていく視界のなかで、私が最後に見たのは、レオンの顔だった。
星のようだった金色の瞳が戻っていた。勇者になる前の、私が初めて恋をした、あの日の少年の目で——彼は笑っていた。
世界を救った英雄は、平和になった世界で壊れた。だから私は、最後まで彼を愛したまま、彼を殺した。
それは、断罪ではなかった。愛の終幕だった。
エピローグ 二つの像
それから、数年が過ぎた。
あの夜の真実は、ついに公にされることはなかった。英雄の堕落も、フィリアの悲劇も、踏みつけられた人々の沈黙も、すべては「信仰」という名の柔らかな土の下に、そっと埋められた。
世界は自分が信じたいものだけを選び取って、それを歴史と呼んだ。
今、王都の広場には二つの像が並んで建っている。ひとつは、剣を高く掲げた勇者の像。台座にはこう刻まれている——『世界を救った英雄、レオン・アルヴェルト』。
その隣にもうひとつ。剣を伏せ、静かに目を閉じた女の像。台座にはこう刻まれている——『英雄を裁いた英雄、エリシア・アルヴェルト』。
人々はこの二つの像を見上げて、こう語り継ぐ。気高き勇者が一度だけ道を誤り、それを正義の妻が涙ながらに断罪した、と。悲しい話だが、正しい結末だったのだ、と。子どもたちは、その物語を聞いて育つ。そうして、また新しい英雄を夢見るのだろう。
ただ一人、その物語を語らない男がいる。
大魔導師アストル・ヴァルグレイ。彼は今も、季節が巡るたびに、二つの像の前へ花を供えに来る。勇者の像にでもない。女の像にでもない。その二つの像の、ちょうど間の、何もない空間に。そこにこそ、本当に弔われるべきものが立っているとでも言うように。娘のフィリアは、ゆっくりと、けれど確かに、言葉を取り戻しつつあるという。
彼は誰にもあの夜のことを話さない。話してしまえば、人々の信じる「断罪の物語」が、壊れてしまうから。世界には、信じていたほうが幸せでいられる嘘が確かにある。
けれど——あなたは、もう知っている。あの二つの像が、向かい合ってもいなければ、背を向け合ってもいないことを。
二つの像は、ただ、静かに並んで建っている。まるで、あの戦場で背中を預け合った、若かった二人のように。
これは、英雄を裁いた物語ではない。
世界でたった一人、英雄を「人間」として愛しきった女が、その愛を最期まで貫きとおした物語である。




