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第八章:錬金術師の帰還

経済による新しいフランス革命を進めるロベスピエール。財務担当のネッケルと、物流を担当するナポレオンの後押しで現実味を帯び、革命はついに動き出した。

さて、革命は成功するのか?

新しい登場人物にも注目!

三か月で、フランスは変わった。


1789年六月の球戯場の宣言から九月末までの九十日間に起きたことを、後世の歴史家たちは「静かなる地殻変動」と呼ぶことになる。一発の銃声も、一滴の血も流れなかった。バスティーユは陥落しなかった。ヴェルサイユ行進は起きなかった。九月虐殺も、王の処刑も、恐怖政治も——何一つ起きなかった。


代わりに起きたのは、帳簿の上の革命だった。


***


最初の兆候は、パンの値段に現れた。


七月。パリのパン屋が、一軒、また一軒と、フランでの支払いを受け入れ始めた。理由は単純だった。小麦粉の仕入れ先——ボース平野の穀物商人たち——が、フランでの取引に切り替えたからだ。ナポレオンの測量チームがパリ=オルレアン間の街道を新規格で整備し、車輪幅が統一された新型荷馬車が穀物を三割速く運ぶようになった。速く届くということは、鮮度が良いということだ。鮮度が良い小麦粉は高く売れる。高く売れる小麦粉を運ぶ荷馬車は、新規格の車輪を使う。新規格の車輪は、フランでしか買えない。


連鎖だった。


車輪が小麦粉を運び、小麦粉がパンになり、パンがフランで売れる。フランで売れたパンの代金が、次の車輪の購入資金になる。自己増殖する経済の循環。ナポレオンが設計した物流インフラが、ロベスピエールが設計した信用システムに血を送り込み、フランという通貨に心臓の鼓動を与えていた。


八月。ナントの貿易商がロンドンの商会とフラン建ての取引契約を締結した。王室の関税を迂回する直接取引。ロンドンのシティは——タレーランの予言通り——利益のある方に資金を流した。国境に政治があっても、金融に国境はない。フランの信用がロンドンで認知された瞬間、ヨーロッパ中の金融業者が耳を立てた。


九月。パリ=リヨン間の街道整備が完了し、全区間で新規格の車輪が走行可能になった。物流速度は従来の二・五倍。関所は国民議会の管轄に移管され、通行税はフランでのみ徴収された。リーヴルを持って関所に来た商人は、その場でフランへの両替を求められた。両替レートは——ネッケルが裏で操作した——フランに有利な設定だった。


リーヴルの価値が、目に見えて下がり始めた。


***


ヴェルサイユ宮殿の財務局で、帳簿を前にした官吏たちは、信じられない数字を見ていた。


歳入が、落ちている。


毎月の税収が、前月比で七パーセント、八パーセント、十二パーセントと減少していく。理由は明白だった。第三身分の商人や農民が、フランで取引を行うようになり、リーヴル建ての経済活動が縮小しているのだ。リーヴルで行われる取引が減れば、リーヴルで徴収される税も減る。


王室の負債は三十億リーヴル。利払いは年二億リーヴル。だが、その利払いの原資となる税収が——蛇口が絞られるように——月を追うごとに細くなっていく。ネッケルは財務長官として表向きこの事態に対処するふりをしながら、裏では自身の金融ネットワークを通じてフランの流通を加速させていた。王室の金庫番が、王室の金庫に繋がる管を一本ずつ、静かに閉じている。


九月の終わり、ヴェルサイユ宮殿の厨房で、ある異変が起きた。


宮廷料理人が、市場でバターを買えなかった。


パリ中央市場の乳製品商人が、リーヴルでの支払いを拒否したのだ。「フランでお願いします」。その一言が、ヴェルサイユの厨房に衝撃を与えた。国王の食卓に並ぶバターが、国王の通貨では買えない。


ルイ十六世は、この報告を聞いても、鍵師の工房に籠もったままだった。


だが、マリー・アントワネットの反応は違った。


「バターが買えない?この私の——フランス王妃の食卓に、バターがない?」


宮廷の廊下に、オーストリア皇女の怒声が響いた。だが、怒声は何も変えなかった。怒声でバターは買えない。フランでしかバターは買えない。


貴族たちの間にも、不安が広がり始めた。領地からの収入はリーヴル建てだが、リーヴルの購買力が日に日に落ちている。先月までリーヴルで買えたワインが、今月はリーヴルでは買えない。商人が「フランでお願いします」と言う。貴族たちはフランを持っていない。フランは第三身分の通貨だ。国民議会の手形だ。特権階級が使うものではない——はずだった。


だが、パンを買えなければ、特権も意味がない。


十月。貴族の一部が、密かにフランを入手し始めた。リーヴルをフランに両替する闇市場が、ヴェルサイユの路地裏に生まれた。両替レートはリーヴルに壊滅的に不利で、百リーヴルが十フランにしかならない日もあった。


ハイパーインフレの逆転現象。


かつてロベスピエールが経験した未来——アシニア紙幣の暴落と民衆の飢餓——が、今、鏡像のように、王室と貴族の側で再現されていた。紙屑になるのは民衆の通貨ではなく、王室の通貨だった。飢えるのは民衆ではなく、貴族だった。


歴史が、反転していた。


***


フランが国内を席巻していく過程で、ロベスピエールの脳は次の手を打っていた。


通貨の支配は、権力の土台だ。だが、土台だけでは建物は建たない。土台の上に、何を建てるかが問題だ。


ロベスピエールが建てようとしていたのは、テクノロジーだった。


十月のある朝、パリの王立科学アカデミーの近くにある瀟洒な邸宅の扉を、ロベスピエールは叩いた。


扉を開けたのは、召使いではなく、主人自身だった。


アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ。四十六歳。近代化学の父。酸素の命名者。質量保存の法則の発見者。元素の分類体系の構築者。——そして、徴税請負人。


ラヴォアジエは長身で、端正な顔立ちをしていた。科学者というよりは外交官のような物腰で、白いシャツの袖口には化学実験の焦げ跡が微かに残っている。手は大きく、指は長く、試薬瓶を扱う繊細さと天秤を操作する正確さを兼ね備えた手だった。


「何の御用かな。まだ朝食前だが」


「朝食の後では遅い話があります、ラヴォアジエ殿」


ロベスピエールは、招かれるまで待たずに邸宅に入った。


ラヴォアジエの書斎は、科学者の頭脳がそのまま部屋になったような空間だった。壁一面の書棚。天秤と蒸留器が並ぶ実験台。机の上には、窒素と酸素の組成比を記した最新の論文原稿。その隣に、徴税請負人としての帳簿が開いたまま放置されている。科学と金融が、一人の男の中で同居している。


「ラヴォアジエ殿。単刀直入に申し上げる」


「どうぞ」


「あなたを、フラン経済圏の最高技術責任者として迎えたい」


ラヴォアジエの眉が、優雅に上がった。


「最高技術責任者。面白い肩書きだが、具体的には何をするのかね」


「フランスの生産性を、根底から変えていただきたい。あなたの化学の知識で。あなたの科学的方法論で」


「生産性?」


「農業の生産性。工業の生産性。エネルギーの生産性。——すべてだ」


ロベスピエールは、ラヴォアジエの机の前に座った。


「ラヴォアジエ殿。あなたは質量保存の法則を発見した。物質は消えも増えもしない。ただ形を変えるだけだ。——この原理を、農業に応用できないか」


「……何を言っているのかね」


「土壌だ。フランスの農地は、何百年もの間、同じ土地で同じ作物を育て続けてきた。土壌は痩せ、収穫量は減り、農民は飢える。だが、土壌に——化学的に——不足している元素を補給できれば、収穫量は劇的に増えるのではないか」


ラヴォアジエの目が、変わった。


科学者の目が——仮説を提示されたときの、あの特有の光が——灯った。


「化学肥料の概念かね。窒素やリンを——」


「そうだ。あなたは窒素と酸素の組成比を研究している。窒素が植物の成長に不可欠であることを知っている。もし、窒素を含む化合物を人工的に作り、土壌に施すことができれば——」


「理論上は可能だ。だが、大規模な実験と投資が必要になる。現在の王立アカデミーの予算では——」


「予算は無制限に用意する。フランで」


ラヴォアジエは、数秒間、ロベスピエールを見つめた。


「無制限?」


「フラン経済圏は急速に拡大している。資金は潤沢だ。問題は、その資金で何を買うかだ。私は——武器は買わない。軍隊も買わない。私が買うのは、知識だ。科学だ。技術だ。あなたの頭脳だ」


「……なぜ私なのかね。科学者は他にもいる」


ロベスピエールは、一瞬、言葉を選んだ。


この男を——アントワーヌ・ラヴォアジエを——自分は五年後の未来で殺した。正確には、自分が整備した革命裁判所が、「共和国に知識人は不要である」という信じがたい理由で死刑を宣告した。ラグランジュが嘆いた。「あの頭を切り落とすのは一瞬だが、同じ頭が再び現れるには百年かかるだろう」と。


百年。


ギロチンが一秒で破壊したものを、人類が再び手にするのに百年かかる。これほど非効率な行為が、他にあるだろうか。


「あなたしかいない」


ロベスピエールは言った。


「あなたは科学者であると同時に、実業家だ。徴税請負人として財務の実務を知り、科学者として自然法則を知っている。理論と実務の両方を持つ人間は、フランスに——いや、おそらくヨーロッパに——あなた一人しかいない」


「買いかぶりだな」


「事実だ」


沈黙。


ラヴォアジエは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「……一つ聞いていいかね」


「どうぞ」


「君の計画は、王室を経済的に窒息させることだ。フランが国内を席巻すれば、リーヴルは死ぬ。リーヴルが死ねば、王室は崩壊する。——そこまではわかる。だが、その先はどうする。王室が崩壊した後のフランスは、何で食べていくのだ」


「そのために、あなたが必要なのだ」


ロベスピエールが、身を乗り出した。


「通貨の革命は、権力の移行に過ぎない。権力が移行しても、国民の腹は膨れない。パンが増えなければ、新しい体制もやがて崩壊する。——だから、パンを増やす。小麦の収穫量を倍にする。綿花の生産性を三倍にする。鉄の精錬効率を五倍にする。それを可能にするのが、科学だ。化学だ。あなただ」


「蒸気機関はどうだ」


ラヴォアジエが、不意に言った。


「イギリスのワットが改良した蒸気機関。あれの原理を、フランスでも応用できる。ボイラーの熱効率を改善し、動力源として工場に導入すれば——」


「やってくれ」


ロベスピエールが即答した。


「化学肥料。蒸気機関。度量衡の科学的基盤。——すべてだ。あなたの研究室を、フランス最大の研究機関に拡張する。必要な設備、人材、資金、すべてフラン経済圏が負担する。その代わり——」


「代わり?」


「研究の成果は、すべてフランスの生産者に公開していただく。特許で囲い込まず、農民と工場主が自由に使えるようにする。知識は、共有されたとき最大の価値を生む」


ラヴォアジエは、長い沈黙の後、立ち上がった。実験台に歩み寄り、天秤を指で弾いた。精密な天秤が微かに揺れ、やがて平衡に戻る。


「質量保存の法則」


ラヴォアジエが、天秤を見つめながら言った。


「物質は消えも増えもしない。ただ形を変える。——だが、知識は違う。知識は共有すると増える。私が持つ知識を十人に教えれば、世界には十一人分の知識が存在することになる。これは質量保存の法則に反する唯一の現象だ」


「だから、知識こそが最も効率的な投資先なのだ」


「……面白い男だ、君は」


この部屋で「面白い」と言われたのは、これで何人目だろう、とロベスピエールは思った。タレーラン。ネッケル。ナポレオン。そしてラヴォアジエ。それぞれの「面白い」の温度が、まったく違う。ラヴォアジエの「面白い」は——実験結果が仮説を裏付けたときの、あの静かな興奮の声だった。


「引き受けよう」


ラヴォアジエが言った。


「ただし、一つ条件がある」


「何だ」


「私の徴税請負人としての立場を——免責してほしい。新体制が確立された後、旧体制の徴税請負人として裁かれることがないように」


ロベスピエールの胸を、鋭いものが貫いた。


この男は、自分の未来を——本能で——嗅ぎ取っているのだ。科学者の直感が、かつての特権的立場がやがて罪に問われる可能性を、正確に予測している。


「保証する」


ロベスピエールは言った。


今度は、嘘ではなかった。この男だけは、絶対に断頭台に送らない。この頭脳だけは——百年分の価値を持つこの頭脳だけは——何があっても守り抜く。


「ラヴォアジエ殿。あなたの首は、フランスで最も価値のある首だ。誰にも——何があっても——切り落とさせない」


ラヴォアジエは、奇妙な表情でロベスピエールを見た。


「……妙な言い方だな。まるで、誰かが切り落とそうとしたことがあるかのような」


ロベスピエールは、答えなかった。


***


十一月。


ラヴォアジエの研究は、驚異的な速度で成果を上げ始めた。


パリ郊外に設立された「国民科学研究所」——フラン経済圏の資金で運営される、フランス初の公的研究機関——で、ラヴォアジエのチームは三つのプロジェクトを同時に進行させた。


第一。化学肥料の試験的生産。窒素を含む化合物を土壌に施す実験が、イル・ド・フランスの農地で開始された。最初の収穫データは、対照区と比較して二割の増収を示した。二割。たった二割と思うかもしれない。だが、飢えに苦しむ農民にとって、二割の小麦の増収は生死を分ける数字だった。


第二。蒸気機関の改良。ワットの設計を基に、ボイラーの熱効率を改善した試作機が完成した。まだ実用段階ではなかったが、原理の検証は成功していた。動力源としての蒸気の可能性が、フランスの技術者たちの目の前で実証された。


第三。度量衡の科学的基盤の確立。ナポレオンが要求し、タレーランが国民議会に提案した「普遍的な度量衡体系」の定義を、ラヴォアジエが科学的に設計した。地球の子午線の四千万分の一を基本単位とする長さの体系。水の密度を基準とする重さの体系。——後世、これは「メートル法」と呼ばれることになる。


通貨と物流と科学。


ロベスピエール、ナポレオン、ラヴォアジエ。


三つの歯車が噛み合い、フランスという機械が、全く新しい速度で回転し始めていた。


***


1789年十二月。


ヴェルサイユ宮殿の大広間に、異様な光景が広がっていた。


三部会が——再び召集されたのだ。


だが、今回の召集は、五月のそれとは根本的に異なっていた。五月の三部会は、王が臣下に命じて集めたものだった。十二月の三部会は——王が臣下に懇願して開いたものだった。


ルイ十六世には、もはや選択肢がなかった。


リーヴルの価値は崩壊していた。王室の歳入は、六月の半分以下に落ち込んでいた。利払いが滞り、外国の債権者が催促の使者を送ってきた。宮殿の維持費が払えない。軍の給料が払えない。——ネッケルが「既に死んでいる」と言った王室財政は、ついに、本当に、停止した。


心臓が止まった。


だが、体はまだ動いている。死後硬直が始まる前の、最後の痙攣。それが、この三部会の召集だった。


***


大広間に入ったロベスピエールが最初に見たのは、空間の変質だった。


五月の三部会では、大広間は三つの区画に分かれていた。右手に第一身分の聖職者。左手に第二身分の貴族。正面に第三身分。王座は大広間の奥に据えられ、ルイ十六世が全身分を見下ろしていた。権力の地理学。空間の配置そのものが、身分の序列を物語っていた。


十二月の大広間には、その序列が消えていた。


第三身分の議員たちが、大広間の中央と前方を占めていた。六百人。その大半が、フラン経済圏で財を成した商人、銀行家、工場主だった。彼らの服装は五月より明らかに上質になっていた。フランの流通で利益を得た者たちの、自信に満ちた姿勢。


第一身分と第二身分は——大広間の隅に追いやられていた。


聖職者たちは不安げに固まり、貴族たちは青ざめた顔で座っている。彼らの服装は、六か月前の華やかさを失っていた。仕立屋がフラン払いを要求し、リーヴルでは新しい服が作れなくなっていたのだ。マントの裾が擦り切れた侯爵。靴底が減った伯爵。wigかつらの粉が切れて地毛が覗いている子爵。——特権階級の没落が、衣服の劣化として可視化されていた。


そして、王座。


ルイ十六世は、王座に座っていた。だが、その姿には——かつての、のんびりとした善良な国王の風情は——消えていた。目の下に深い隈。頬はこけ、体重が明らかに減っている。宮廷料理人が市場でバターを買えなくなってから三か月。王の食卓も、かつての豪勢さを失っていた。


ロベスピエールは、王座のルイ十六世を見上げた。


五年後の未来で、この男は断頭台に送られる。コンコルド広場で首を落とされ、群衆の歓声の中で死ぬ。——だが、この歴史では、そうはならない。この男は殺さない。殺す必要がない。殺すより、はるかに効率的な方法がある。


***


三部会の議事が始まった。


だが、それは議事というよりも——株主総会だった。


五月の三部会では、議題は「財政赤字の解消」だった。王が臣下に意見を求め、臣下が王に提案する。主従関係の中での議論。


十二月の三部会では、議題は、フランの使用許可だった。


フラン経済圏の外に取り残された王室と特権階級が、フランの使用を認めてもらうために、第三身分に陳情しに来たのだ。主従関係が完全に逆転していた。


最初に発言したのは、第一身分の代表だった。パリ大司教が、聖職者特有の荘厳な口調で——だが、その荘厳さの裏に隠しきれない焦燥を滲ませながら——壇上に立った。


「国民議会の諸君。我々第一身分は——教会は——フランスの精神的支柱として、千年の歴史を持つ。教会の財産は、信徒の寄進によって積み上げられた神聖なものである。しかしながら——」


大司教の声が、かすかに震えた。


「——しかしながら、現下の経済情勢において、教会の運営に支障が生じていることは、認めざるを得ない。教会の収入はリーヴル建てであり、リーヴルの購買力の低下により——率直に申し上げれば——修道院の食糧すら十分に確保できない状況にある」


大広間に、微かなざわめきが走った。第三身分の議員たちの間から。ざわめきの中に、同情はなかった。


「つきましては——我々第一身分は——フラン経済圏への参加を、謹んで申請いたしたい」


大司教は頭を下げた。


千年の歴史を持つフランスの教会が、半年前に生まれた通貨への「参加」を「申請」している。この光景の異常さを、大広間にいるすべての人間が感じていた。


次に発言したのは、第二身分の代表だった。アルトワ伯爵——ルイ十六世の弟であり、最も強硬な保守派として知られていた男——が、壇上に上がった。顔は蒼白で、唇は薄く引き結ばれている。屈辱で拳が震えている。


「我々貴族は——」


アルトワ伯は言いかけて、止まった。数秒間、大広間を見渡した。かつて自分たちが支配していた空間を。今は第三身分が占めている空間を。


「——我々貴族もまた、フラン経済圏への参加を——」


声が、途切れた。


「——申請する」


最後の二文字を絞り出すのに、アルトワ伯は人生で最大の苦痛を味わったに違いなかった。


***


ロベスピエールは、大広間の最前列に座っていた。


国民議会の議長席。六月の球戯場で、バイイから「三分」を借りた男が、今、この場のすべてを支配している。


大司教とアルトワ伯の陳情を聞き終えた後、ロベスピエールは静かに立ち上がった。


大広間が、凍った。


球戯場のときと同じだった。この男が立ち上がると、空間の温度が下がる。五百七十七人の議員が経験した、あの現象。だが今日は、五百七十七人ではなく、三部会の全議員——千二百人が——その温度変化を体験していた。


「第一身分および第二身分の代表から、フラン経済圏への参加申請を受理した」


ロベスピエールの声は、穏やかだった。大広間の天井に届くほど明瞭だが、怒気も激情も含まれていない。帳簿を読み上げるような、事務的な冷静さ。


「参加の条件を、以下の通り提示する」


大広間が、息を止めた。


「第一。王室を——ブルボン家を——フラン経済圏における一私人として登録する。国王としての特権は、経済圏内では適用されない。フラン経済圏において、ルイ・カペーは他のすべてのユーザーと同等の一参加者である」


王座のルイ十六世の顔から、最後の血の気が引いた。


「第二。教会の全資産——土地、建物、美術品、貴金属——を、フラン経済圏の中央準備基金に移管する。移管された資産は、フランの担保として公共の利益のために運用される。教会には、移管資産の評価額に応じたフランが、運営費として支給される」


パリ大司教の顔が、石のように固まった。


「第三。貴族の全封建的権利——領主権、徴税権、裁判権——を、無償で放棄する。貴族の私有地は、土地登記の上でフラン建てに評価替えされ、資産として保全される。ただし、封建的地代の徴収は即座に停止する」


アルトワ伯の拳が、白くなるほど握りしめられた。


「第四。以上の条件に同意する者のみ、フラン経済圏の正規ユーザーとして登録を許可する。同意しない者は——」


ロベスピエールは、一拍置いた。


「——自由だ。リーヴルとともに生きる自由がある。ただし、フラン経済圏の市場へのアクセスは認められない」


沈黙。


大広間を満たした沈黙は、重く、冷たく、絶対的だった。


ロベスピエールが提示したのは、事実上の最後通牒だった。だが、その最後通牒には、一発の銃弾も含まれていなかった。ギロチンの影もなかった。「従わなければ殺す」ではなかった。「従わなければ、置いていく」だった。


殺すのではない。置いていくのだ。


新しい世界に乗せない、という選択肢を突きつけるだけだ。


そして、新しい世界に乗らなければ——パンが買えない。バターが買えない。ワインが買えない。馬車の車輪が買えない。何も買えない。リーヴルしか持たない人間は、フランスという国の中に存在しながら、フランスの経済からは完全に切り離される。


餓死するか、同意するか。


二択だった。


だが——これは、ギロチンによる二択ではなかった。「死か、服従か」ではなく、「旧世界に残るか、新世界に来るか」だった。旧世界に残る自由は保証されている。ただし、旧世界には何もない。


ロベスピエールは、王座のルイ十六世を見た。


「陛下」


その呼びかけに、大広間が揺れた。ロベスピエールが国王を「陛下」と呼んだのだ。敬意は残している。だが、その敬意は——骨董品に対する敬意だった。博物館に飾られた古い王冠に対する敬意。現役の権力者に対する敬意ではなかった。


「陛下のご決断を、お伺いしたい」


ルイ十六世は、王座の上で、長い時間黙っていた。


この善良な男は——鍵師の趣味を持ち、狩猟を愛し、政治よりも機械いじりが好きな、この不器用な国王は——自分の王国が、一発の銃声もなく、一滴の血も流れぬまま、帳簿の上で買収されていくのを、半年間、ただ見ていた。


ルイは、ゆっくりと頷いた。


「……同意する」


三文字だった。


千年のフランス王政を終わらせた言葉が、たった三文字だった。


大広間に、拍手は起きなかった。歓声も起きなかった。代わりに、深い、深い沈黙が——歴史が軌道を変える瞬間の、あの宇宙的な静寂が——大広間を満たした。


ロベスピエールは、頷いた。


それだけだった。


「登録手続きは、明日から中央準備基金の窓口で行う。——以上で本日の議事を終了する」


***


大広間を出たロベスピエールの足は、宮殿の廊下ではなく、庭園に向かった。


十二月のヴェルサイユの庭園は寒かった。吐く息が白い。噴水は止まっている。冬枯れの並木道を、ロベスピエールは一人で歩いた。


終わった。


一滴の血も流さなかった。


バスティーユは陥落しなかった。王は処刑されなかった。マリー・アントワネットは首を落とされなかった。ダントンは死ななかった。デムーランは死ななかった。リュシルは死ななかった。ラヴォアジエは死ななかった。バイイは雨の中のシャン・ド・マルスで「震えているのは寒さのせいだ」と言って死ぬ必要がなかった。


誰も、死ななかった。


ロベスピエールは立ち止まり、冬のヴェルサイユの空を見上げた。


灰色の空だった。六月の青い空ではない。だが、この灰色の空の下には、血の臭いがなかった。処刑囚を載せた荷馬車が通らなかった。ギロチンの刃が陽光を受けて光ることもなかった。


顎に手を当てた。


無傷の顎。砕かれていない顎。包帯の必要がない顎。


この顎で、最後まで語り続けた。剣ではなく言葉で。銃ではなく数字で。ギロチンではなく帳簿で。


目頭が、熱くなった。


マクシミリアン・ロベスピエール——「清廉の人」と呼ばれ、「恐怖政治の元凶」と呼ばれ、「暴君」と呼ばれ、砕けた顎で断頭台に載せられた男——が、ヴェルサイユの庭園で、初めて、泣いた。


声は出さなかった。


涙だけが、冬の冷気の中で、頬を伝って落ちた。


数式のミスは、修正された。


アルゴリズムは、完成した。

なんと無血でフランス革命に成功したロベスピエール。

歴史は大きく変わった。そしてラヴォアジエによる技術開発がフランスを堅固にしていく。

それにあわせてフランス国内外も大きく変化していく。次回をお楽しみに!

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