フランス発の産業革命——イギリスの絶望——
そして、ロベスピエールの最後の一手が、打たれた。
パリのルイ・カペー——元国王ルイ十六世——の工房に、ロベスピエールが訪問した。
ルイは相変わらず歯車と旋盤と格闘していた。エプロンは油で汚れ、指先には金属粉が付着していた。ロベスピエールを見ると、嬉しそうに顔を上げた。
「ロベスピエール。ちょうど良かった。この新しい懐中時計を見てくれないか。オーストリアの皇后陛下からの注文で——」
「ルイ・カペー殿。依頼があります」
「依頼?」
「ヨーロッパ各国の王室に、時計を届けていただきたいのです。これまで通り」
「ああ。それならいつでも」
「ただし、今回は、時計と一緒に、別の贈り物も届けていただきます」
ロベスピエールが、侍従に合図した。侍従が、大きな木箱を運び入れた。箱の蓋を開けると、中には、色鮮やかな布が畳まれて入っていた。深い紫。鮮やかな赤。宝石のような青。
ルアーブルの工場で染められた、最高級の絹織物。
「これは——美しいな」
ルイが、無邪気に布に触れた。
「見たことのない色だ。こんな鮮やかな紫は、どうやって——」
「ラヴォアジエ殿の新技術です。詳細は企業秘密ですが——この布を、各国の王妃や皇后に、贈り物として届けていただきたい。オーストリアのマリア・テレーザに。スペインのマリア・ルイサに。プロイセンの王妃に。ロシアのエカチェリーナ二世に。——あなたが直接、時計とともに献上する」
「喜んで」
ルイが、即答した。
この善良な元国王は、相変わらず、自分がフランスの外交戦略の重要な駒であることに、無自覚だった。彼にとって、外国の宮廷を訪問することは、単なる趣味の延長だった。美しい時計を作り、それを王室の友人たちに届ける。彼らが喜ぶ顔を見る。——それだけが、ルイの幸福だった。
ロベスピエールは、その無自覚な善良さを利用していた。
ルイが届けるからこそ、意味があるのだ。フランス共和国の商務官が届ければ、それは商取引だ。警戒される。敬遠される。
だが、ルイ・カペーが、かつての王という立場で、友情の贈り物として届ければ、それは政治的意味を剥奪され、純粋な贈り物になる。各国の王妃たちは、素直に喜び、素直に身につける。
そして、身につけられた「フラン・ファッション」のドレスは、無言のプロパガンダとしてヨーロッパの宮廷社交界に影響を及ぼす。
一か月後、ルイの馬車はヨーロッパの主要な宮廷を巡回した。
ウィーン、ベルリン、マドリード、サンクトペテルブルク、ナポリ——そして、ロンドン。
* * *
ロンドン。ダウニング街十番地。
ウィリアム・ピット首相(小ピット)は、その夜、執務室で一人だった。
机の上には、大量の報告書が積まれていた。フランスの新しい染料。ルアーブルの工場。イタリアとの繊維提携。各国王室への贈答。——ヨーロッパ中の情報網が、同じ出来事を、異なる角度から報告していた。
ピットは、最後の報告書を手に取った。
イギリス国内の繊維産業からの陳情書だった。
「——我々イギリスの染色業者は、絶望的な状況にあります。フランス製の合成染料は、我々が使用している天然染料の十分の一以下の価格で、遥かに優れた品質の布を生産しています。既に、ロンドンの高級洋装店の多くが、インド産インディゴで染めた英国製の布よりも、フランス製の『フラン・ファッション』を仕入れることを選んでいます。我々の顧客は、我々を見捨てつつあります——」
次の報告書は、東インド会社からだった。
「——インドからのインディゴ輸入が、過去六か月で四十パーセント減少しました。原因は、フランスの合成染料の台頭です。インディゴの国際価格は暴落しており、我々のインド貿易の収益は、壊滅的な打撃を受けています——」
次は、リヴァプールの港湾業者からだった。
次は、マンチェスターの紡績業者からだった。
次は、ロンドン・シティの金融業者からだった。
——すべてが、同じメッセージを伝えていた。
イギリスの繊維産業が、崩壊しつつある。
イギリスの植民地貿易が、崩壊しつつある。
イギリスの金融業界が、フラン建ての取引に流れている。
すべてが、フランスに流れている。
* * *
ピットは、立ち上がった。
机の上の報告書を、一つ、また一つと床に投げ捨てた。紙が、執務室の絨毯の上に散乱した。
「あの——」
ピットの声が、怒りで震えていた。
「——あの、悪魔め!我々を二重に殺すつもりか!」
拳が、机を叩いた。
激しく、何度も。
机の上のインク壺が揺れ、羽根ペンが床に落ち、ランプの炎が激しく揺らいだ。
「布!染料!両方だ!布も染料も、両方ともフランスから供給されている!イギリスの繊維産業は、原料も技術も、両方ともに失った!我々は、自国の得意分野で、完全に敗北したのだ!」
ピットは、肩で息をしながら、壁に掛けられた世界地図の前に立った。
ブリタニカ。大英帝国。インドから、北米から、カリブから、アフリカから——世界中の原料を集め、ランカシャーとマンチェスターの工場で加工し、ヨーロッパと世界中に輸出する。それが、イギリスの経済モデルだった。産業革命の心臓部。世界を支配する力の源泉。
だが、そのモデルが今、崩壊しつつあった。
フランスが、産業革命の主導権をイギリスから奪いつつあった。
しかも、武力ではなく——化学で。
ピットは、地図のフランスの部分を拳で叩いた。
「……あのロベスピエールは、どうやって、あの染料の発明をラヴォアジエにさせたのだ。偶然ではない。絶対に偶然ではない。あの男は、知っていた…そうに違いない!」
ピットの背筋に冷たいものが走った。
ピットは優秀な政治家だった。二十四歳で首相に就任した天才。イギリスの歴史上、最も若くして首相になった男。だが、今、彼が直面しているのは、通常の政治的対立ではなかった。まるで、未来を知っている敵と戦っているような、説明のつかない感覚。
ピットは、窓際に歩み寄った。
ロンドンの夜。霧の中に、街灯の光が滲んでいる。テムズ川の向こうに、シティの金融街のシルエットが浮かんでいる。
あのシティで、今夜も、商人たちはフラン建てで取引をしている。
フラン。
パリから来た通貨。
パリから来た布。
パリから来た染料。
パリから来た——静かな侵略。
「……関税障壁を、さらに強化する」
ピットは、机に戻った。新しい紙を広げ、羽根ペンを取った。
「イギリス国内のフラン建て取引を禁止する。『フラン・ファッション』の輸入に、百パーセントの関税を課す。インド産インディゴの価格を、政府が補助する。フランス産製品のイギリス市場への流入を、あらゆる手段で阻止する——」
ピットのペンが、怒りと恐怖の中で、走った。
だが、書きながら、ピットは知っていた。
これらの政策は、すべて、対症療法に過ぎない。根本的な解決にはならない。なぜなら、イギリスの市場がフラン経済圏から遮断されても、フラン経済圏は、イギリス以外のヨーロッパ全土と地中海全域で拡大し続けるからだ。イギリスが孤立するだけだ。大英帝国が、自らの海峡の内側に閉じ込められるだけだ。
産業革命の覇権は既にフランスに移りつつある。
ペンを握るピットの手が、震え始めた。
怒りではなかった。恐怖ではなかった。——絶望だった。
* * *
同じ夜。パリ。ロベスピエールの執務室。
タレーランが、ロンドンからの最新報告書を持参していた。イギリス議会の動向。ピット首相の政策。繊維業界の反応。——すべてが、ロベスピエールの予想通りに進行していた。
ロベスピエールは報告書を読み終えると、静かに閉じた。
「ピット首相は、関税障壁の強化で対抗するつもりだ」
「そうだろう」
「効果は、あるか」
「短期的には、ある。イギリス国内市場は守れる。だが、長期的には無意味だ。イギリスが関税で自国を守れば守るほど、イギリス以外のヨーロッパと世界は、フラン経済圏に組み込まれていく。イギリスは孤立する」
タレーランが、杖を突いて、窓際に歩み寄った。
「ロベスピエール。君は、イギリスを屈服させようとしているのか。それとも、無害化しようとしているのか」
「屈服させる必要はない。無害化で十分だ」
ロベスピエールが、淡々と答えた。
「イギリスが自国の関税障壁の内側に閉じこもる限り、我々の脅威ではない。海軍力は持っている。だが、経済力を失えば、海軍を維持する予算も、徐々に削られていく。百年後、二百年後、大英帝国は、静かに衰退するだろう。武力で叩き潰す必要はない。時間が、すべてを解決する」
「時間が解決する。君の好きなフレーズだな」
「タレーラン。我々のシステムの最大の武器は、時間だ。武力での征服は、速いが、脆い。反乱を生み、憎悪を生み、長期的には崩壊する。だが、経済的な浸透は、遅いが、抗いがたい。一度組み込まれたシステムからは、抜け出せない。抜け出そうとする者は、自滅する」
「ピットの怒りが、自滅を早める」
「そうだ」
ロベスピエールは立ち上がり、窓の外のパリを見下ろした。
ガス灯の光が街路を照らしている。セーヌ川が夜の光を反射している。遠くで、ルアーブルへの物流路を行き交う荷馬車の音が、かすかに聞こえる。
パリから、ルアーブルへ。
ルアーブルから、ヨーロッパ全土へ。
フランスで発明された染料が、イタリアで織られた布を染め、フランス共和国の元国王が運び、ヨーロッパ中の王妃たちを飾る。
それが、フラン経済圏の完成形だった。
武力ではない。威嚇でもない。ただ、素晴らしい製品を、魅力的な価格で、完璧な物流で、届ける。それだけで、世界は、フランスに引き寄せられる。
フランス発の産業革命が始まっていた。
そして、その革命は、一滴の血も流さずにヨーロッパの経済秩序を、根底から書き換えていた。




