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第十章:トロイの木馬

1790年。九月。


ザクセンのピルニッツ城は、エルベ川を見下ろす丘の上に建っていた。


中国趣味の装飾が施された離宮の応接室で、二人の君主が向かい合っている。神聖ローマ皇帝レオポルト二世と、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世。テーブルの上には、ザクセンのマイセン磁器に注がれた紅茶と、広げられたヨーロッパの地図。そして、一通の報告書。


報告書の表題は、「フランスにおける王権消滅の経緯と影響に関する覚書」。


レオポルトが、報告書から顔を上げた。


「信じられるか」


五十三歳の皇帝の声は、怒りではなく——困惑で満ちていた。啓蒙君主として名高いレオポルト二世は、トスカーナ大公時代に刑事司法改革を成し遂げ、理性と法の支配を信じる人間だった。だが、今、彼の理性は——フランスから届く報告書の内容を、処理しきれずにいた。


「一発の銃声もなく、一滴の血も流さず、フランス王室が——ブルボン家が、ただの一貴族に降格された。戦争もなく。革命もなく。暴動もなく。——帳簿の上で」


「帳簿の上、だと?」


フリードリヒ・ヴィルヘルムが、オウム返しに言った。四十六歳のプロイセン国王は、レオポルトとは対照的に、啓蒙思想より軍事に関心のある男だった。伯父のフリードリヒ大王から受け継いだプロイセン軍の精強さが、この男の自負の源泉だった。


「帳簿で王権が消えるなどということが、あり得るのか」


「あり得た。現に起きている」


レオポルトが地図の上のフランスを指で叩いた。


「この報告書によれば、フランと呼ばれるフランスの新しい通貨が、国内の経済活動の七割以上を支配している。王室のリーヴルは事実上の紙屑だ。ルイは——私の妹の夫は——王冠を外され、名誉職を与えられ、時計を作って暮らしている」


「時計?」


「時計だ。錠前と機械式時計。彼の趣味だ。——先月、ルイ本人がウィーンに来た。護衛付きだが、拘束はされていない。笑顔で、自作の時計を私に贈ってくれた。脱進機の仕組みを二時間かけて説明してくれた。——二時間だ。私の宮廷技師がメモを取り切れなかったほどの、精緻な技術解説を」


「それで——妹君は」


「アントワネットか。アントワネットは——」


レオポルトの表情が、複雑に歪んだ。


「——幸せそうだと聞いた」


沈黙。


「幸せそう、とは」


「ヴェルサイユの庭園で菜園を営み、チーズを作り、農婦たちとレシピを交換している、と嬉々として語っていたらしい。顔色が良く、パリの宮廷にいた頃より明らかに健康そうだった、と。シャルルも健康そうで、弟や妹たちと一緒に庭で遊び回っているそうだ——私は、妹を救出するつもりでいた。軍を動かしてでも。だが——」


「救出する相手が、救出を望んでいない」


「そうだ」


レオポルトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「これが、最も厄介な点だ。フランスの新体制は、ルイを殺さなかった。投獄もしなかった。拷問もしなかった。代わりに——工房を与えた。趣味を保障した。生活費を支給した。ルイは幸福で、アントワネットも幸福だ。——この状態で、私がフランスに軍を向ければ、私は何になる?」


「幸福な妹夫婦の家に、軍靴で踏み込む兄になる」


「その通りだ」


***


だが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは、レオポルトほど繊細ではなかった。


「王権の消滅は、王権の消滅だ。ルイが幸福かどうかは問題ではない」


プロイセン国王が、紅茶のカップを置いた。


「問題は、この伝染だ。フランスで王権が帳簿の上で消えたなら、同じことがプロイセンでも、オーストリアでも、起こり得る。フランスの新しい通貨がヨーロッパに広がれば、我々の通貨も、我々の王権も、同じように帳簿の上で消される。——これは、戦争よりも危険だ」


「だからこそ、対応が難しい」


レオポルトが溜息をついた。


「戦争なら対処できる。軍を動員し、国境で迎撃し、砲火を交えれば良い。だが、これは戦争ではない。通貨と物流と——何と呼ぶべきか——経済的な浸透だ。ロンドンのシティが、すでにフランとの取引を開始しているという報告もある」


「イギリスが裏切ったのか」


「イギリスは裏切らない。イギリスは常に、利益のある方に流れる。ピット首相は分かっているだろう。だが、シティの金融業者たちは政府の命令では動かない。利益で動く」


フリードリヒ・ヴィルヘルムが、地図の上のフランスを睨んだ。


「ならば——宣言を出そう。フランス国王の権威の回復を要求し、革命政府に圧力をかける。外交的に」


「それは——」


「私はやるつもりだ。レオポルト。あなたはどうする」


皇帝は、長い沈黙の後、頷いた。


「出そう。ただし、慎重にだ。実際に軍を動かすつもりはない。あくまで外交的な圧力。警告だ。フランスの共和政府が、これ以上王権を侵害するならば、ヨーロッパの全君主が共同で行動する——という姿勢を示すだけでいい」


1790年九月のピルニッツ宣言は、こうして生まれた。


史実より一年早かった。ヴァレンヌ逃亡事件が起きなかった代わりに、王権そのものの消滅が刺激となったからだ。だが、宣言の本質は史実と同じ、口先だけの外交辞令。レオポルトは戦争を望んでいない。フリードリヒ・ヴィルヘルムの関心も、実はポーランド分割の方にある。宣言は、亡命貴族をなだめ、革命政府から譲歩を引き出すためのブラフだった。


だが、ブラフを見破れない者は、ブラフに踊らされる。


***


パリ。国民議会。


ピルニッツ宣言の報が届いた瞬間、議場は沸騰した。


「宣戦布告だ!」


「オーストリアとプロイセンが軍を動かすぞ!」


「先手を打て!武器を取れ!」


球戯場の光景が——一年前のあの光景が——再現されようとしていた。恐怖が攻撃性に転換される、あの動物的な反射。議員たちは立ち上がり、拳を振り上げ、開戦を叫んでいる。


ロベスピエールは、議長席に座ったまま、冷笑した。


球戯場のときと同じ笑みだった。ビッグバンの瞬間を観測する天文学者の表情。あるいは、同じバグが二度目に発生したことを確認したプログラマーの表情。


「静粛に」


ロベスピエールの声は大きくなかった。だが、議場は条件反射のように静まった。この一年で、議員たちはこの男の声の温度を学習していた。あの声が冷たくなるとき、逆らうことは得策ではないと。


「諸君。ピルニッツ宣言を読んだか。全文を」


沈黙。


「読んでいないな。読んでいたら、この程度の脅迫で騒ぎはしない。——宣言の条件を読み上げよう。『ヨーロッパの主要国の君主が全員介入することを条件として、両国王は必要な武力を用いて行動を起こす決心をした』。——全員だ。ヨーロッパの全君主が参加しなければ、オーストリアもプロイセンも動かない」


「しかし——」


「イギリスは参加しない」


ロベスピエールが断言した。


「ピット首相はフランスの混乱を歓迎している。フランスが弱体化すれば、イギリスの大陸における影響力が増す。わざわざフランスを救う理由がない。スペインもナポリも同様だ。ロシアのエカチェリーナは関心があるかもしれないが、距離が遠すぎる。——つまり、ピルニッツ宣言は、実行される見込みのない条件を付した、空手形だ。ブラフだ。我々を怯えさせるための、紙切れだ」


議場が、静まり返った。


「だが——」


ロベスピエールの声が、変わった。冷笑が消え、代わりに鋼のような硬さが現れた。


「——ブラフであっても、無視はしない。ブラフを無視すれば、次は本物が来る。ブラフに対しては、ブラフを上回る現実で応答する。武力ではなく。経済でもなく。——人間で」


「人間?」


「市民アントワネットとタレーランを、ウィーンに派遣する」


***


ウィーン。ホーフブルク宮殿。十月。


マリー・アントワネット——市民アントワネット——が、兄レオポルト二世の宮殿の大階段を上っていった。


彼女の姿を見たウィーンの廷臣たちは、二重の衝撃を受けた。


第一の衝撃。マリー・アントワネットが、生きていること。しかも、健康で、美しく、笑顔であること。報告書の内容はさておき、パリからの風説では、フランスの王妃は囚人同然の暮らしを強いられているはずだった。だが、目の前のアントワネットは——プチ・トリアノンの陽光を浴びて日焼けした肌と、菜園仕事で鍛えられた引き締まった体と、何よりも、宮廷時代には見せたことのない穏やかな笑顔を纏っていた。


第二の衝撃。彼女の衣装。


かつてのアントワネットは、ヴェルサイユの鏡の回廊を歩くとき、頭にそびえ立つ巨大なかつらと、裾を引く絹のローブと、首飾りが二百万リーヴルの光を放つ姿で現れたものだった。今日のアントワネットは、フランス製の麻のドレスを着ていた。シンプルで、上品で、だが明らかに質素な衣装。首元には宝石はなく、代わりにプチ・トリアノンの庭で摘んだラベンダーの小さな花束が飾られていた。


「兄上!」


アントワネットが、大階段の上で待つレオポルトに駆け寄った。三十五歳のフランス元王妃は、少女のように兄に抱きついた。


「お元気そうで何よりです、兄上。——見てください、この絹。リヨンの新しい織元が開発した技術で、従来の半分の糸量で同じ強度が出るんです。ラヴォアジエ殿の化学チームが染料の改良にも成功して——ほら、この色、美しいでしょう?天然の藍なんです。フランスの農場で栽培された——」


レオポルトは、妹の腕の中で、困惑していた。


この女は——本当に幸福なのだ。演技ではない。アントワネットは演技のできる女ではなかった。宮廷で嘘をつくことすら下手だった女が、この笑顔を作れるはずがない。


「アントワネット。少し落ち着いて——」


「ああ、ごめんなさい。フランスの話をするとつい興奮してしまって。——それから、兄上、リヨンの絹織物の見本帳を持ってきました。ウィーンの宮廷でもきっと気に入っていただけると思います。価格もロンバルディア産の半額です」


レオポルトの目が、一瞬、細くなった。


妹の笑顔の裏に——いや、笑顔そのものの中に——何か別のものが仕込まれている。妹は無邪気に絹織物の見本帳を差し出しているが、その見本帳は——フランスの経済力を、オーストリアの宮廷に浸透させるための、トロイの木馬ではないか。


だが、レオポルトの疑念は、妹の笑顔の前で溶けた。


これがソフトパワーだった。


軍艦でも大砲でもなく、笑顔と絹織物と、ラベンダーの花束で——ハプスブルクの宮廷の警戒心を、溶かしていく。


***


アントワネットがウィーンの宮廷を魅了している間、タレーランは宮殿の裏の応接室で、まったく別の仕事をしていた。


相手は、オーストリア宰相カウニッツ伯爵の秘書官。七十九歳のカウニッツ自身は病床にあり、実務は秘書官に委ねられていた。


「ハプスブルク家の権益を保証する、と」


秘書官が、タレーランの提案書を読み上げた。


「そうだ」


タレーランは、椅子に深く座り、杖を膝に立てかけ、薄い唇で微笑んでいた。


「フランス共和国は、ハプスブルク家のヨーロッパにおける領土と権益を尊重する。オーストリア領ネーデルラント、ロンバルディア、ハンガリー——いずれの領土にも、フランスは手を出さない。フランスは革命を輸出しない。共和制をヨーロッパに押し広げる意図はない」


「その代わりに?」


「不可侵条約だ。オーストリアはフランスの内政に干渉しない。ピルニッツ宣言を事実上撤回する」


「宣言の撤回は——公式には難しい。レオポルト陛下の面子がある」


「公式に撤回する必要はない」


タレーランの声が、さらに低くなった。応接室の壁に耳がないことを確認するかのように。


「宣言は放置すればいい。実行しなければ、宣言は紙切れのまま風化する。我々が求めているのは、撤回ではない。不実行の保証だ」


秘書官は、タレーランの目を見た。


跛行の外交官の目には、知性があった。だが、それだけではなかった。知性の奥に——深い闇の中に——何か巨大な計算が回転しているのが見えた。この男は、今この部屋で話している言葉の十手先を、すでに読んでいる。


「……フランス共和国は、本当に革命を輸出しないのか」


「しない」


タレーランが即答した。


「我々の革命は、通貨の革命だ。通貨は輸出するものではない。流通するものだ。——市場が求めれば、フランは国境を越える。だが、それは輸出ではない。需要と供給だ。オーストリアの商人がフラン建ての取引を望むなら、我々はそれを拒まない。だが、強制もしない」


秘書官の顔に、微かな不安が走った。


この男が言っていることは、形式的には正しい。だが、実質的には——「通貨は輸出しない、流通させるだけだ」というのは、「軍隊は侵略しない、ただ国境の向こうを歩くだけだ」というのと、どれほど違うのか。


だが、秘書官にはそれ以上追及する権限がなかった。カウニッツ伯の指示は明確だった。「レオポルト陛下の妹君が幸福であることが確認でき、ハプスブルク家の領土が保全されるならば、フランスの内政に介入する理由はない」


「条約案を、カウニッツ伯に上申する」


「感謝する」


タレーランが立ち上がった。杖を突き、内反足を庇いながら、扉に向かった。


扉の手前で、振り向いた。


「ああ、もう一つ」


「何だ」


「この応接室の隅に立っている若い男。——学生かな。先ほどから私の話を一言も漏らさず聞いていたようだが」


秘書官が、ぎくりとした。


応接室の隅に、一人の青年が立っていた。十七歳。長身で、端正な顔立ち。ストラスブール大学から休暇で帰省中の、カウニッツ伯の遠縁の若者。名を——クレメンス・フォン・メッテルニヒといった。


メッテルニヒは、タレーランの視線を受けて、一歩も引かなかった。


「失礼しました。退出いたします」


「いや、いい。構わない」


タレーランが、若者の目を見た。そして——何かを認めたように——かすかに頷いた。


「君は、外交を学んでいるのかね」


「政治と法学を」


「なるほど。——今日、君がここで見たことを、よく覚えておくといい」


「何を覚えておけばよいのでしょう」


「交渉とは、相手に何かを与えたように見せて、実際には何も与えないことだ。我々はオーストリアに『領土の保全』を約束した。だが、領土の保全など、もともと脅かすつもりはなかった。存在しない脅威を取り除く約束をして、実在する譲歩を勝ち取った。——これが、外交だ」


メッテルニヒの目が、見開かれた。


それからゆっくりと、十七歳の青年は、頭を下げた。


「勉強になりました」


タレーランは微笑み、応接室を出た。


二十年後、この若者がヨーロッパ外交の頂点に立ち、ウィーン会議を主宰し、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される大陸秩序を設計するとき——タレーランの今日の一言を、彼は骨の髄まで覚えていた。


***


同じ十月。ベルリン。


ミラボーが、プロイセン宮廷にいた。


国民議会の特使として——だが、実質的にはロベスピエールの密使として——フリードリヒ・ヴィルヘルム二世との非公式会談に臨んでいた。


ミラボーは、プロイセンを知っていた。1786年から87年にかけて外交使節としてベルリンに滞在し、『ベルリン王国論』を書いた男だ。プロイセン宮廷の力学を——誰が権力を持ち、誰が野心を持ち、誰が買収可能か——熟知していた。


史実では、この男はルイ十六世に買収される男だった。王室の秘密資金を受け取り、王権の維持のために裏で動く二重スパイ。1791年に謎の死を遂げ、死後に裏切りの証拠が発覚する。パンテオンから棺が引きずり出され、汚物と共に無縁墓地に捨てられる。


だが、この時間軸では——ロベスピエールが、ミラボーの裏切りの体質を逆用していた。


裏切る才能を持つ男は、相手を裏切らせる才能も持っている。ミラボーの雄弁と人心掌握力を、敵国の宮廷で使わせれば——買収される側ではなく、買収する側にすれば——この男は最強の外交兵器になる。


「陛下」


ミラボーが、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の前で、あの太い体を折り曲げて一礼した。だが、その一礼には臣下の恭順はなかった。対等な相手への、演劇的な敬意だった。


「フランス共和国は、プロイセン王国と戦う意思を持ちません」


「当然だ。そちらに軍隊はない」


「軍隊は不要です、陛下。フランスには、プロイセンが欲しいものがあります」


フリードリヒ・ヴィルヘルムの目が、かすかに動いた。


「何だ」


「ポーランドです」


国王の呼吸が、一瞬止まった。


ポーランド分割。それは、プロイセンの最も深い野心だった。広大なポーランド領土を、ロシアとオーストリアと三分割する——その計画は、フリードリヒ大王の時代から練られていた。1772年の第一次分割で手に入れた領土だけでは足りない。もっと欲しい。もっと東へ。もっと広く。


ミラボーは、国王の目の動きを見逃さなかった。


「ピルニッツ宣言の真の議題は、フランスではなかった。ポーランドだった。——私は知っています、陛下。あの城での会談の大半は、ポーランド分割での共同歩調について費やされた。フランスへの警告は、アルトワ伯の懇願に応じた付け足しに過ぎなかった」


「……よく知っているな」


「知っています。そして、フランス共和国は——プロイセンがポーランドで圧倒的な優位に立てるよう、裏で支援する用意がある」


沈黙。


「どういう意味だ」


「フランスはポーランドの改革派を支援しない。ポーランドの独立運動を支援しない。ポーランドが国際社会に助けを求めても、フランスは沈黙する。——つまり、プロイセンがポーランドに手を伸ばすとき、フランスは目をつぶる」


フリードリヒ・ヴィルヘルムの指が、テーブルの上を叩いた。


「引き換えに?」


「ピルニッツ宣言の不実行。プロイセン軍がフランス国境に近づかないこと。そして——プロイセンの軍事的関心を、西ではなく東に向けること」


ミラボーは、大きな体を椅子に預け、腕を組んだ。


「陛下。あなたの軍隊は精強です。フリードリヒ大王が築いたプロイセン軍は、ヨーロッパ最強の戦闘機械だ。——その機械を、何に使いますか。フランスの共和制を潰すために?得るものは何です。フランスの領土か。人口か。資源か。——いずれもプロイセンにとっては微々たるものだ。フランスは遠すぎる」


ミラボーが身を乗り出した。激情の塊のような男が、不意に冷徹な地政学者の顔を見せた。


「だが、ポーランドは近い。豊かな農地。広大な領土。弱体な軍隊。分割すれば、プロイセンの国力は倍増する。——フランスを攻めるか、ポーランドを取るか。どちらが得か。数字を弾くまでもないでしょう、陛下」


フリードリヒ・ヴィルヘルムは、長い間黙っていた。


それから、テーブルの上の地図に手を伸ばし、ポーランドの領土を指で囲んだ。


「……フランスは、本当に口を出さないのか」


「一切出しません」


「ロシアとの調整は」


「それは陛下のお仕事です。ただし——フランスはロシアに対しても、ポーランド問題については沈黙を守ります。陛下とエカチェリーナの間の交渉を、妨害しない」


フリードリヒ・ヴィルヘルムは、地図から手を離した。


「いいだろう」


ミラボーの目が、一瞬、獰猛に光った。だが、即座にそれを隠し、恭しく一礼した。


「陛下のご英断に感謝いたします」


***


ミラボーは、ベルリンを発った後、直接パリには戻らなかった。


ロベスピエールの密命が、もう一つあった。


馬車はベルリンから南西に向かい、ライン川を渡り、ネーデルラントに入った。アムステルダム。ヨーロッパ金融の中心地の一つ。東インド会社の本拠地。そして——世界最古の証券取引所がある都市。


ミラボーの任務は、ここでは外交ではなかった。


経済戦争だった。


アムステルダム銀行。1609年設立。ヨーロッパの国際決済の要。この銀行がフラン建ての取引を受け入れれば、フランの国際通貨としての地位は確定する。ロンドンのシティに続き、アムステルダムがフランを認知すれば——ヨーロッパの二大金融拠点がフラン圏に組み込まれることになる。


ミラボーは、アムステルダムの銀行家たちと三日間にわたって密談した。テーブルの上には、ナポレオンの物流改革データ、ラヴォアジエの農業増産データ、フランの流通量の推移グラフ——ネッケルが裏で準備した、説得力のある数字の山。


「フランス共和国の経済成長率は、過去六か月で年率換算十二パーセントです」


ミラボーが、数字を読み上げた。銀行家たちの目が光った。


「ヨーロッパのどの国よりも速い成長です。理由は三つ。第一、度量衡の統一による取引コストの削減。第二、道路網の規格統一による物流効率の向上。第三、科学的農法の導入による農業生産性の向上。——これらはすべて、フラン経済圏のインフラです。フランを使う者は、このインフラの恩恵を受ける。使わない者は——受けることはない」


銀行家たちは、顔を見合わせた。


利益の匂いがした。


ミラボーは、この匂いを知っていた。ナントの貿易商が球戯場で嗅いだのと同じ匂いだ。商人の本能が捉える、利益の匂い。国境も王権も信仰も超えて、人間を動かす、最も原始的で最も強力な力。


「アムステルダム銀行がフラン建ての国際決済を開始すれば、オランダの商人はフランスとの取引でリーヴルの為替リスクを回避できます。取引コストは、保守的に見積もっても、三割削減される」


三日後、アムステルダム銀行の理事会は、フラン建て決済の試験的導入を全会一致で承認した。


ミラボーは、アムステルダムからパリに帰還し、ロベスピエールに報告した。


「ロンドンとアムステルダム。ヨーロッパの二大金融拠点が、フラン圏に入った」


ロベスピエールは、報告書を読み、頷いた。


「よくやった、ミラボー」


「褒めるな。気味が悪い」


ミラボーが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「あんたは俺を使うのが上手い。買収されるよりもはるかに多くの報酬を、自尊心という形で支払ってくる。——タチが悪い」


「自尊心は、金よりも安い」


「安くないさ。だが——金よりも長持ちする」


ミラボーは背を向けて部屋を出た。太い肩が廊下の角を曲がって消えた。


この時間軸のミラボーは、1791年に死なない。王室の秘密資金で買収されることもない。パンテオンから棺が引きずり出されることもない。——代わりに、ロベスピエールの外交兵器として、ヨーロッパの宮廷と金融市場を歩き回り続ける。


裏切りの才能を、国家のために使う。


それは、才能を殺すよりも、はるかに効率的だった。


***


ロンドン。ダウニング街十番地。十一月。


ウィリアム・ピット——小ピット——は、執務室の窓から、テムズ川の対岸を見つめていた。


三十一歳。二十四歳で首相に就任した天才。大英帝国の舵取りを任された、ヨーロッパで最も若い国家指導者。


机の上には、パリ、ウィーン、ベルリン、アムステルダムからの情報が山積みになっている。それぞれの報告書を読むたびに、ピットの顔は少しずつ蒼白になっていった。


オーストリアが懐柔された。不可侵条約。ハプスブルクの権益保証と引き換えに、ピルニッツ宣言は事実上死文化した。


プロイセンが買収された。ポーランドの餌に釣られて、軍事的関心が東に逸れた。フランス国境からプロイセン軍が撤退を始めている。


アムステルダムが陥落した。ヨーロッパ最大の国際決済銀行が、フラン建て取引を受け入れた。


そして——最も致命的なことに——ロンドンのシティが、すでにフランに深く組み込まれている。フラン建ての債券がロンドン市場で取引され、イギリスの商人たちがフランスとの直接取引で利益を上げ始めている。


ピットは、窓から目を離し、机の上の報告書の山を見下ろした。


「これは——侵略だ」


独り言が、執務室に響いた。


「一発の銃声もなく、一隻の軍艦も動かさず、フランスはヨーロッパを——経済的に征服しようとしている。対仏大同盟など組めない。同盟の相手国が、すでにフランスの経済圏に取り込まれている。オーストリアはフランスの絹を買い、プロイセンはフランスの黙認でポーランドを食い、アムステルダムはフランスの通貨で決済している。——同盟を呼びかけても、誰も応じない。応じれば、自国の経済が打撃を受けるからだ」


ピットは椅子に座り、両手で顔を覆った。


「武力なら対抗できた。海軍力では我々が圧倒的だ。フランスの港を封鎖し、貿易を止め、経済を窒息させることができた。——だが、この相手には、封鎖が効かない。なぜなら、封鎖すれば——我々自身のシティが損害を受ける。フランとの取引を止めれば、ロンドンの金融業者が損をする。損をすれば、議会で反対される。——自分の刃が自分の首を切る」


ピットは、ペンを取った。


書き始めた。関税障壁の強化案。フラン建て取引の規制案。情報統制の法案。——大英帝国を、フランスの経済的浸透から守るための、防壁の設計図。


だが、書きながら、ピットは知っていた。


これは——防壁ではなく、籠城だ。


島国イギリスが、自ら海峡に閉じこもる。かつてフランスが内戦で弱体化するのを喜んだイギリスが、今度は自らが孤立する側になる。


ヨーロッパの力学が、反転していた。


ピットは、ペンを止め、窓の外を見た。


テムズ川の向こうに、霧が立ち込めている。その霧の向こうに、ドーヴァー海峡がある。海峡の向こうに、フランスがある。


一発の銃声もない戦争が、すでに始まっていた。


そして、大英帝国は——それを止める方法を、まだ持っていなかった。

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