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名前を呼んで

作者: 潮騒めもそ
掲載日:2026/02/22

 その日は、ひどい雨だった。


 神殿の石畳は黒く濡れ、夕刻の祈りの声も、雨音に溶けていた。

 神官は外套を深くかぶり、最後の戸締まりをするために回廊を歩いていた。


 ――そのときだ。


 かすかな鳴き声。


 風に攫われそうな、か細い音。


 足を止めたのは、習慣ではない。

 慈悲とも、義務とも違う、もっと原始的な衝動だった。


 太い柱の陰、布切れの中で、小さな命が震えていた。


 生後二か月ほどの子猫だった。

 雨に濡れて、声も枯れかけている。


「ひどい……こんなところに」


 神官はそう呟いたが、表情は変わらない。

 いつも通りの、堅い顔。


 だが、その手は迷わず伸びていた。


 外套の内側にそっと包み、

 子猫の体温が伝わると、ほんのわずかに息をつめる。


 ――生きている。


 それだけで、十分だった。


 ***


 それから、ぼくは神殿に住み始めた。


 神官さまは相変わらず寡黙で、

 人前では笑わない。

 祈りの場では、感情を一切見せない。


 けれどその夜、誰もいない礼拝堂の片隅。

 ぼくが神官さまの膝におぼつかない足で乗ると、彼はためらいなく受け入れた。


「……少し冷たいな」


 そう言いながら、指先で小さな前足を包む。

 肉球を、そっと。


 ぷに、とした感触に、

 彼の口元が、わずかに緩む。


 誰にも見せない、ほんの一瞬の微笑み。


 ぼくは安心して、神官さまの胸元に顔を埋めた。


 彼は小さく息を吐いて――そして、理性を少しだけ緩める。


 神官さまは、ぼくの毛並みに顔をうずめる。


 深く吸うわけでもなく、

 ただ、そこにある温もりを確かめるように。


 それは祈りよりも静かで、背徳よりも無垢な行為だった。


「……なんて小さくて可愛いんだ」


 誰に聞かせるでもない言葉。


 ぼくは言葉の意味も分からず、温もりにうとうとする。


 次の日の夜までぼくは眠ったままだった。


 神官さまの寝室は、祈りのあと特有の静けさに包まれている。

 灯りは落とされ、月の光だけが床に淡く流れていた。


 ぼくは、また神官さまの胸の上で丸くなる。


 神官さまの心臓の音。

 ゆっくりで、強い。


 その音を聞くのが、すき。


 神官さまは、ぼくの背中を撫でながら、ぽつりとささやいた。


「お前は、私より先に逝くだろう」


 低くて、静かな声。


「だから名は与えない。……お別れが、辛くなるからね」


 その言葉は、祈りみたいだった。


 でも、ぼくは知ってる。


 それは神官さまを守るための言葉だって。


 ぼくは、にゃあと鳴かなかった。

 代わりに、神官さまの衣の上に、顔をうずめた。


 名前がなくてもいい。

 呼ばれなくてもいい。

 

 それでも――

 この人のそばに、いたい。

 この人を、ひとりにしたくない。


 言葉にならない。

 でも、わかるんだ。

 この人が、どれだけ孤独か。

 誰にも甘えられないか。


 ぼくは、そっと喉を鳴らした。


 神官さまの指が、一瞬止まる。


「……すまない」


 ちがう。謝らないで。

 ぼくは、あなたのために、ここにいる。

 あなたを助けるために、ここにいたい。

 ――それが、ぼくの願い。


 神官さまは、長い沈黙のあと、ぼくを抱きしめた。


 優しくも、離さない力で。


「……私の可愛い猫ちゃん」


 その声は、少しだけ震えていた。


 ぼくは目を閉じる。


 名前のないまま、眠りにつく。


 ***


 神官さまに、喜んでもらいたかった。


 今日も忙しそうだった。

 朝から人が途切れなくて、声も少し疲れていたから。


 これを見つけたとき、きっとお役に立てると思った。

 青くて、大きい虫。

 羽がきらきらして、強そうで、なんだか特別な感じがした。


 これなら――神官さまは喜んでくれるよね。


 そう思って、口にくわえて走った。


 神官さまの足元に堂々と、虫を置く。


「にゃあん!」


 ――ほら! すごいでしょ?


 でも。


 神官さまの顔が、みるみるうちに変わっていった。


 最初は驚いた顔。

 次に、息を呑んだ顔。

 そして……青い虫と、同じような顔色。


 血の気が引く、というのはきっとこういうことだ。


「……どこで、これを」


 声が、低く震えている。


 神官さまは、ゆっくりと虫を受け取った。

 触れないように、布越しに。


 ぼくは、しっぽを振る。


 受け取ってくれた。よかった。


 そう思った、そのとき。


 神官さまの手が、ぼくの頭に触れた。


 いつもより、少しだけ重い。


「……お前の気持ちは受け取った」


 光が、ふわっと広がる。


 あたたかいのに、いつもと違う。


 ぼく、これ分かるよ。

 これは、汚れを落とすときのやつだ。


 浄化の魔法。


 なんで? ぼく、汚れてないよ?


 そう言いたかったけど、

 声は「にゃあ」としか出せなかった。


 神官さまは、虫を持ったまま、振り返らずに歩いていく。


 回廊の向こう。

 立ち入りを禁じられた、奥の奥。


 ぼくは、取り残された。


 床の上で、しばらく動けなかった。


 ……あれ?


 喜んでもらえると思ったのに。


 神官さまのお役に立ちたかっただけなのに。


 なんか、ちがう?


 神官さまの背中は、

 いつもより、少しだけ遠く見えた。


 ***


 神官さまのおてつだい、なにかできないかなぁ。


 供物やお水を運ぶのは無理だし、書き物は読めないし。


 かみさまは、ねずみはすきかな?


 でもこの前の、虫はだめだった。


 じゃあ、やっぱり……ぼくにも魔法が使えたらいいのに。


 神官さまみたいに、手をかざすだけで疲れをとってあげられたらいいのに。


 でも、ぼくは猫だ。


「にゃあ」


 考えても仕方ないから、ちょっと甘えちゃおう。


 神官さまの足元に近づく。

 裾に鼻先をこすりつけて、もう一度。


「にゃぅ」


 神官さまは、手を止めた。


 書きかけの祈祷文。

 深く吐かれる息。


 それから、ゆっくりと腰を落として、

 ぼくを抱き上げた。


「……どうした」


 声は低いけれど、やわらかい。


 胸に引き寄せられる。

 いつもの場所。


 神官さまは、そのまま――ぼくの頭に、顔を埋めた。


 すう、と。


 息を吸う音。


 え?


 もう一度。


 すう……。


 神官さまの指が、ぼくの背中に回る。

 逃がさないみたいに。


 ああ、これ。この感じ。

 神官さまはぼくの匂いが好きみたい。

 恥ずかしいけど、なんだか嬉しいな。


 でも今日は、いつもより深い。


 神官さまの肩が、少しだけ震えている。


「はぁ……落ち着く」


 ぽつりと、独り言みたいに。


 ぼくは喉を鳴らした。

 それしか、できないけど。


 魔法は使えない。

 言葉もよく分からない。


 でも、こうして匂いを分けて、ぬくもりを渡すことならできる。


 神官さまは、しばらくそのままだった。


 祈りよりも長く。

 かみさまの仕事よりも大切そうに。


 やがて、静かに囁く。


「……ずっとそばに居て。少しでも永く一緒に居よう」


 それって、ぼくは役に立ってるってこと?


 ぼくはもう一度、小さく鳴いた。


「にゃぁぅ」


 胸の奥で、神官さまの鼓動が少しだけ軽くなった気がした。


 ***


 最近、神殿がざわざわしている。


「二月二十二日の、二十二時二十二分」

「その時に、神様に祈ると――」

「奇跡が起こるらしい」


 そんな声が、廊下の向こうから聞こえてくる。


 奇跡。それって、なに?


 病気が治ること?

 怪我が消えること?

 願いが、叶うこと?


 神官さまは、いつもより忙しそうだ。


 朝のお清めは長く、供物はいつもより多く、祈りの声も、夜遅くまで途切れることはない。


 肩が、少しだけ落ちている。


 ぼくは、そばで見ているだけ。


 なにもできない。


 そわそわする。どこかの奥が、むずむずする。


 もし、奇跡が本当に起こるなら。


 ぼくも、祈っていいのかな。


 人じゃなくても――猫でも。


 ぼくは――神官さまになりたい。


 あの白い衣を着て、かみさまの前に立って、疲れた人に手を差し伸べて。


 神官さまの隣に立ちたい。


 同じ目線で。同じ夜を何度も越えて。


 寿命が違うとか、名前がないとか、そんなの後回しでいい。


 助けたいんだ、神官さまを。


 いつも、ひとりで背負ってるから。


 ぼくは、神官さまの足元にすり寄った。


 祈りの合間、僅かな静けさ。


「にゃ」


 顔を上げた神官さまが、一瞬だけ、困ったように微笑む。


「……お前も、願うのか」


 その声は、冗談みたいで、

 でもどこか、怖がっているみたいだった。


 ぼくは、答えられない。


 ただ、まっすぐ見つめる。


 金色の瞳で。


 ――ねえ、かみさま。


 二月二十二日、二十二時二十二分。


 もし、奇跡が起こるなら。


 ぼくは、神官さまと同じ神官になりたいです。


***


 祈りの鐘が、静かな神殿に響き渡った。


 二月二十二日。二十二時二十二分。


 やわらかな奇跡の光が、神殿を満たす。


 眩しさも、熱もない。

 ただ、世界の輪郭が静かにほどけていく。


 床に伏していた小さな身体が、ゆっくりと形を変えた。


 人間の顔、手足、身体。

 声を出せる喉がある。


 でも――


 猫の耳は、頭の上に残っていた。

 柔らかく、灰色で、紫に艶めく猫の耳。


 背後には、しっぽ。


 ゆらりと、感情に合わせて揺れている。


 白い衣が、自然とその身を包む。

 神官の装束。


 僕は立ち上がった。足元が少しふらつく。


「……神官さま」


 猫の時より少しだけ低く澄んだ声。


 これが僕の声?


 そばで見ていた神官さまは、息を呑んだまま動けずにいる。


 紫の瞳が揺れている。


「お前は……」


 ゆっくり、確かめるように。


「私の、猫ちゃんなのか?」


 嬉しさで胸が、ぎゅっとなる。


 僕は、一歩近づいた。


 しっぽが、無意識に揺れる。


「はい」


 短く、笑顔で答えた。


「ずっと、あなたのおそばにいたかった」


 神官さまの手が、伸びる。

 でも途中で止まる。


 触れていいのか、迷っているみたい。


 僕は、自分からその手に額を寄せた。


 猫だった時と同じように、額をすりすりと。


 神官さまの声が震える。


「……奇跡が起こったのか」


 僕は、心から笑った。


「神様に願いを叶えてもらいました」


 神官さまの指が、そっと――耳の付け根に触れた。


 ぴくり。反射で耳が動く。


「……この毛色は変わっていないな」


 声が少しだけ安心したように笑っている。


 でもその奥にあるのは、祈りと、恐れと、愛情。


 世界は、まだ冷たく静かだ。


 この奇跡の意味を、理解するには時間がかかる。


 けれど――もう、名前を呼んでもらえる距離にいる。


「神官さま! 神様が、奇跡を下さったのです。これで、ずっと永く……あなたの隣にいられます」


 神官さまは、すぐに答えなかった。


 ゆっくりと手で顔を覆い、伏せる。


 神官さまの金色の長い髪が、肩から零れ落ちる。

 その指先が、わずかに震えていた。


「……何ということだ」


 永く共にいられる奇跡。


 僕は、ゆっくり近づいた。


 猫だった頃と同じ距離で。


「神官さま。どうか僕に、名前を頂けませんか」


 神官さまの肩が、ぴくりと動く。


 長い沈黙。


 祈りの鐘の余韻が、まだ空気に残っている。

 淡い光の粒子が雪のように舞っている。


「……お前の名をずっと呼びたかった」


 神官さまは顔を上げる。


 紫の瞳が、濡れていた。


 そして抱きしめられて、耳元で名前を囁かれた。


「お前の名は――」


 ゆっくりと、噛みしめるように。


「猫であり、人であり、神の祝福を受けた――私の……」


 言葉が微かに恥じらいを帯びながら。


「……伴侶だ」


 世界が輝き出すように、名前が胸に落ちる。


 温かくて、重くて、もう手離せないもの。


 初めて名を与えられ、呼ばれた。


 これが嬉しいという感情。

 こんなにも温かくて心地良いんだ。


「大好きです」


 神官さま――いいえ。


 抱きしめながら彼の名を、呼んだ。


 共に生きるための言葉。


 僕の耳はぴんと立った。

 そしてしっぽを左右に揺らして、彼にそっと絡めた。

お読みくださってありがとうございます!

誤字、脱字、感想などお気軽にお寄せいただければ本当にありがたく、励みになります。

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