阿保烏 2
何があっても、この人を守ってみせる。
奉行所の庭で、はじめてくらりを見たとき、黒峰は自身の心にそう誓った。
当時、黒峰は人間でいうところの6歳であったが、同い年のくらりを一目みるや、背中だけでなく、心にまで翼が生えたような気持ちになったのだ。
そう。くらりは黒峰の初恋の女性なのである。
主人と家来という関係ではあるが、歳が同じこともあり、ふたりはすぐに仲良くなった。
大人の目を盗んでは、
「クロ」
「りっちゃん」
と呼び合い、柿の木に登ったり、さまざまな場所へ探検にでかけたものである。
あれから数十年。
いまだに黒峰の心には初恋の翼が生えたままである。
だが、いまや、くらりはお奉行。
りっちゃんなどとはクチバシが裂けても呼べないし、あれほど取り合った手に触れることすら、いまはもうできない。
時代が移り変わっても、いまだに妖怪の世界には身分の壁があるのだ。
(叶うわけない。わたしの恋など叶うわけないのだ)
そう思うと、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなった。
「ん? どうした、クロ。目が潤んでおるぞ」
「なんでもありません。目にゴミが入っただけです」
「目にゴミが? どれ、見せてみろ」
くらりは四つん這いで近づくと、黒峰の顔を正面から見据えた。
「く、くらりさま、お顔が近すぎます!」
「こうしてふたりきりでいると、昔のことを思いだすな」
くらりの視線が黒峰の胸に移った。
「いつだったか、夜中にふたりでお白洲の公事場から、星空をながめたことがあったな」
「は、はい」
「あのとき、おまえは、大人になったら、おれを連れて星空を飛びまわると言ってくれた。憶えているか?」
もちろん憶えている。
愛の告白とまではいかなくても、幼い黒峰にとって、それは恋心の匂わせのようなものだったのだ。忘れるはずがない。
しかし、黒峰は家来の立場から、あえて何も言わなかった。
「あれから数十年だ。おれもおまえも進化しないまま、60を迎えてしまった」
「わたしはともかく、くらりさまなら、あと10年すれば妖怪神にでもなれますよ」
「そう、おだてるな。おれは何も変わらん。ずっと、おまえの知ってる、りっちゃんのままだ」
「くらりさま……」
「だから、クロ。おまえも変わらず、おれのそばにいてくれ」
くらりは黒峰のほほを一撫ですると、
「立派になったな、クロよ」
目を閉じて、彼の胸にひたいをこすりつけた。
* * * * *
もしこのとき、くらりが、
「抱いてくれ」
の一言でも口にしたなら、黒峰はそれに従っただろう。
だが、くらりは何も言わなかった。
くらりは、おのれのからだも、この先の運命も、すべて黒峰にゆだねていたのだ。
震える肩が求めている。
こぼれる吐息がねだっている。
だから本当は抱きしめたい。
彼女の想いに応えたい。
(わたしは……わたしは……)
黒峰とて男である。
こうなる日が来ることを望んでいなかったわけではない。
むしろ望んでいたからこそ、だれにも捧げることなく、60年も純潔を守ってきたのだ。
そのとき、くらりがあまえるように黒峰の背中にうでをまわした。
(好きだ。わたしは――ぼくは、りっちゃんのことが大好きだ)
溢れる想いとともに、黒峰もくらりの背中にうでを伸ばした。
* * * * *
黒峰の指先がくらりの背中に触れる寸前、
何があっても、この人を守ってみせる。
おのれの心に誓った言葉が耳の奥によみがえった。
「お奉行、気をたしかに」
くらりの肩に手を添えて、黒峰は彼女のからだをやさしくうしろへ押した。
「わたしは主楽入家の家来。あなたをお守りすることが役目です」
「……クロ」
「変わらなければ守れないものがある。しかし変えてしまうことで守れなくなるものもある。そうおっしゃったのは、お奉行ですよ」
「…………」
「わたしは自身の心に誓ったのです。何があっても、あなたを守ると」
そして黒峰はくらりの肩から手をはなした。
「ふふっ」
「お奉行?」
「クロ、やはりおまえは阿保烏よのう」
「は?」
「ほんの少しからかっただけなのに、本気にしおって」
「それでは先ほどのは――」
「ああ。すべて芝居だ」
そこでくらりは、
「あはははは!」
ひざをたたいて、大声で笑った。
「あはははは! あっはっはっは!」
その爆笑たるや、まるで笑い茸でも食べたよう。
最初こそ唖然としていた黒峰も、だんだんと心配になってきた。
「いかん。笑いすぎて、なみだが出てきた」
細めたくらりの目から、一筋のなみだがこぼれた。
「ダメだ、ダメだ。おまえの阿保面を見ていると、腹がよじれて笑いがとまらん。笑い死ぬまえに、きょうはもう帰らせてもらうぞ」
くらりは手の甲でなみだを拭くと、わざとらしく腹を抱えて和室を出た。
だが、すぐに出入口のそばで立ちどまり、
「クロよ、おまえは――ほ、ほんとに――立派だな」
黒峰に背を向けたまま、声を詰まらせ、そう告げた。
* * * * *
くらりが長屋を出たあとも、黒峰は和室で正座をしていた。
(これでよかったのだ)
そう。これでよかったのだ。
自分は主楽入家の家来。ただしい選択をしたのだ。
だからこそ……。
(だからこそ、わたしは阿保なのだ)
たたみの上になみだが落ちた。
ひとりの女性の覚悟に背いた、阿保な男のなみだであった。
「ごめんよ、りっちゃん。ぼくは阿保だ。どうしようもない阿保烏だ」
この夜――。
南魔地奉行所では、ふたりの怪異が声を殺して泣き明かしたという。
(阿保烏・完)
『阿保烏』は今回でおしまいです。
このエピソードは黒峰にスポットライトをあてたいとの想いと、「もし、ぬらりひょんが女性お奉行だったら」というアイデアを組み合わせて完成させたものです。
叶わぬ初恋をテーマにしているため、いつもより、ちょっとオトナな雰囲気に仕上げたお話でしたが、いかがだったでしょうか。
ゴクハナの新作エピソードはこれからも投稿していく予定です。また現在、新しい短編エピソードも執筆中ですので、投稿日などは【おはぎ日和】で報告したいと思います。
ちなみに、ぬらりひょんを漢字で書くと滑瓢。
妖怪の総大将というのは、鳥山石燕が描いたぬらりひょんの図版にある「まだ宵の口の燈影にぬらりひよんと訪問する怪物の親玉」という説明が後年、拡大解釈されたものだそうです。




