片般若 8
響介は山のなかを走っていた。
(殺される!)
うしろをふりかえると、すぐ近くに般若面をつけた女が迫っている。
そのとき、石につまずき、響介は転んでしまった。
般若は響介に馬乗りになると、その手を彼の首へ……。
そこで目が覚めた。
「さっきのは夢だ。おれは生きてるんだ」
響介は震える肩を抱きながら、自身の心にそういい聞かせた。
どうやら、いつのまにか眠っていたらしい。
時計を見ると、時刻は午後10時17分。
夢のつづきを見そうで、このまま眠る気にはなれなかった。
(何か食おう)
弱った心においしい料理が効くことを、響介はよく知っている。
なので、すぐにミキに内線電話をかけた。
「ミキ、腹が空いたから、何か食事を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
「かんたんなものでいい。おまえのつくった料理を食べたい」
いつも食事は専属の料理人と、その弟子がつくってくれるが、たまに響介のためにミキが手料理をつくってくれるときがある。
そして彼女の料理はおいしいのだ。
「かしこまりました。すぐに調理に取りかかります」
響介の言葉がうれしかったのか、ミキの声は興奮で震えているような気がした。
* * * * *
それから数十分後。
「旦那さま、お食事をお持ちしました」
「ああ。入れ」
響介の部屋に入ることを許されているのはミキだけである。
ミキは響介のお気に入りのメイド。
部屋の掃除やベッドメイキングはもちろん、妻に先立たれた響介の夜の相手を務めることもある。
「食器はのちほど片づけにまいります」
ミキは手作りのナポリタンスパゲッティをテーブルに置くと、一礼して部屋を去った。
「そうだ。復讐なんてありえるはずないんだ」
ミキがいなくなると、響介はわざと声に出してつぶやいた。
「あれから40年経ったんだ。そのあいだに、おれを殺すチャンスはいくらでもあったはず。復讐なら、もっと早くおれの命は狙われているはずだ」
声に出して耳に入れることで、響介は自身の心に暗示をかけた。
「これは復讐なんかじゃない。だから、おれは……おれだけは、ぜったいにだいじょうぶだ」
そういい聞かせた直後だった。
「やっぱり、あんたは最低な男だ」
地を這うような声が、すぐそばで聞こえた。
それと同時に、何かが響介の首に巻きついた。
それはナポリタンスパゲッティの麺だった。
一本の細い麺ではない。皿に乗った麺の束がマフラーのごとく響介の首に巻きつき、万力のような力で絞めはじめたのだ。
「う、あ」
さけぼうにも、のどが絞められて声が出ない。
響介は麺の束を首から剥がそうとした。
しかし彼の指が触れたのは麺ではなかった。
麺の束は、いつの間にか白蛇に変わっていたのだ。
「できることなら、わたしだって、もっと早くおまえを殺したかった」
「やめ……」
「やめるもんか。ぜったいやめるもんか」
白蛇がいっそう力を強めて、響介の首を絞める。
息ができない苦しみのなかで、響介は必死にミキに助けを求めた。
ミキ、助けてくれ。
お願いだ。おれを助けてくれ、ミキ。
だが声にならない願いは、ミキには届かなかった。
(つづく)
更新は毎日おこなう予定です。
※白蛇(しろへび、はくじゃ、びゃくだ)は財宝の神・弁財天の使いとされていることから、現実で白蛇を見たり、夢に白蛇が現れたりするのは財運・金運が上昇する前兆とも言われています。
ただし、地域によっては「白蛇に出会うと災難がつづく」「殺すと、その魂が夜に出て首に巻きつく」などの恐ろしい俗信もあります。




