十字架を持った人々は羽が生えている男の命令を聞く
この世には神と天使と悪魔がいると言い伝えられてきた。
天使は神に代わって、神の命令を人々に伝えると言われている。
また、天使は真実を言い、人々を幸せにするのに対し、悪魔は嘘をつき、人々を不幸にする……らしい。
十字架を持つ人々は、その伝承を信じていた、
しかし、彼らは神も天使も悪魔も見たことがなかった。
にもかかわらず、それらの存在がいると信じ続けていた……。
さて、そんな世界のある町に住んでいる、平凡な青年――トムも、その十字架を持つ人々の内の一人だった。
トムには、賭博が好きな悪友――ネイトがいた。
トムはこの男が嫌いだった。興味がないのに、一緒に賭場に行かないかとよく誘ってくるからだ。
今日も彼はトムの家に来て共に賭けをしに行かないかと提案してきた。
「何度も言わせるな、俺は賭博に興味はない」
「いいじゃねぇか、どうせ暇だろ」
「暇じゃない、俺は教会へ行くんだ」
「またかよ、お祈りしに行くだけだろ? よく飽きないな、そんな毎日行って」
お前こそ、よく毎日のように賭博をして飽きないな、と思ったが、言わないでおいた。
ネイトが勧誘を諦めて家から去ると、トムは教会へ向かった。
そして、教会の前に人だかりができていて、いつもと違って騒がしいことに気づいた。
「なんだ、どうした?」
と集団の中にいる一人に訊くと、
「ああ、天使を名乗る者がここに来ているんだ」
とそいつは言って、人ごみの奥を指差した。
群衆をかき分けて、指し示された方へ行くと、その先に羽が背中から生えた男がいた。
「私は天使です、あなたたちに神の命令を伝えにきました」
とその男は背中に生えた羽をバサッと広げた。
それを見て、「天使だ!」「おお、本当にいたのだな……!」というような声が続出する。
中には、感動のあまり涙まで流す者もいた。
しかし、トムはまだ疑っていた。「本当にあいつは天使なのか?」と。
彼が訝しんでいる中、天使はこう言った。
「十字架を持つ者たちよ、神からの命令です。あの乞食たちにお金を恵んであげなさい」
と天使を名乗る男は、教会の向かい側にある広場の方を指差した。
その広場には噴水があった。
そして、その噴水の周りにいる乞食たちが、みすぼらしい恰好でお金をせがんでいた。
「助けてくれーっ、もう昨日から水しか飲んでないんだ!」
という声がこちらまで聞こえてくると、その乞食は噴水の水をごくごくと飲みだした。
「なんと、かわいそうに……」
「天使様の言うとおり、彼らを助けなくては」
「やはり、あの方は天使様だった!」」
教会に集まっていた人々は口々にそのようなことを言い、広場に行って、乞食たちにお金を渡しだした。
トムも少し遅れて広場へ行った。
彼はあの羽が生えた男が本当に天使なのかと疑ってしまった自分を恥じた。
昨日から水しか飲んでいない乞食にお金を分け与えること、それは間違いなく善行だ。
だからこれは神の命令であり、あの方は天使に違いない、とトムは確信した。
トムは財布の中にあったお金を乞食たちに分け与えた。
その翌日――
今度は教会に、天使を名乗る女性が現れた。
その女性も背中に羽が生えていた。
「私は天使です。十字架を持つ者たちよ、あの乞食たちにお金を与えてはなりません!」
羽が生えているその女性は鬼気迫る表情でそう言った。
教会に集まった人々は、それを聞いて憤慨した。
「なんだと、あのかわいそうな乞食たちを見捨てろというのか!」
「違います、そうでは――」
「この女、本当に天使か?」
「いいや、悪魔だ、悪魔に違いない!」
「天使を騙る悪魔め、こいつを殺せ!」
「殺せ、殺せ、殺せ!」
人々は殺せ殺せと大声で叫びながら、天使を名乗る女性に向かって石を投げた。
彼女は儚げな顔で、何も抵抗せず、黙って石をぶつけられ続けていた。
やがて、その女性は血だらけになって倒れた。そしてピクリとも動かなくなってしまった。
「悪魔を倒したぞ!」
「うおおおおおお!」
勝鬨を上げ、大声で騒ぎ出す群衆。
トムもみんなと一緒に喜び、お祭り騒ぎの中、一晩中叫び続けた。
次の日――
あの天使を名乗る男がまた教会に現れた。
その男は悲しそうに目を細め、広場にいる乞食たちを指差した。
「あの乞食たちを見てくれ、まだ不幸から抜け出せていない人があんなにもいる。
神はあの者たちにお金を恵んであげなさいと言っている」
十字架を持つ者たちはそれを聞くと、喜んでお金を分け与えに行った。
トムももちろん、その中の一人だった。
その次の日も天使を名乗る男が現れ、彼の言うとおりに、人々は乞食にお金を分け与えた。
その次の日も、さらに次の日も、さらにさらに次の日も……
そんなある日、久しぶりに、賭博好きのネイトがトムの家を訪ねてきた。
「どうだ、今日こそ賭場に行かないか」
「断る、俺は忙しいんだ、賭博に使うためのお金も時間もない」
「ていったって、お前、教会にはお祈りをしに行くだけなんだろ?」
「いいや、違う、最近、天使様が教会の前に現れて、乞食たちにお金を分け与えるようにという神からの命令を俺たちに伝えてくれるんだ。だから俺は賭博なんかに使うお金も時間もない」
それを聞いて、ネイトはぴくっと眉毛を動かして、固まった。
「……おい、まさか、その乞食たちっていうのは、あの広場の噴水の周りにいる奴らじゃねぇだろうな?」
「そうだが?」
「そうか、どおりで最近、金遣いが荒いと……」
と言ってネイトは腕を組んで、得心顔で何度か頷いた。
「なんだよ、急にどうしたんだよ?」
「お前な、あの乞食たちはな、その界隈ではギャンブル依存症で有名な奴らなんだ、お金をあそこで恵んでもらってはそれで賭けをして、大負けして、多額の借金を背負ってるような奴らなんだぞ」
「え、そ、そんなばかな、う、嘘に決まってる!」
「嘘だっていうなら、なんであいつらはいまだにあの広場で乞食をやっているんだ、お前ら、もう相当お金を与えているんじゃないのか?」
それを聞いて、トムはあっと声を出した。
そして、青ざめた顔になって、脚をがくがくと震わせ始めた。
ネイトはそんなトムに追い打ちをかけるように言う。
「なぁ、トム、お前が天使だっていうそいつは本当に天使なのか?」
「そ、そのはずだ、だって、羽が生えていた! 天使じゃないなら何なんだ!」
「悪魔にだって羽は生えているぜ?」
と嘲笑うような顔でネイトは言った。
トムはそこで、ハッとした。
すると、急いで自分の財布の中を確認しだした。
その中はすっからかんになっていた。
そして気づいた。乞食を幸せにしようと金を分け与えた自分が、不幸になっていたことに。
「あぁ、あああああああっっっ!?」
トムは発狂し、走り出した。
「あ、おい、トム!」
ネイトの呼び止める声を無視して、トムは衝動的に家を出る。
自分を含め、多くの人を不幸にしたことを悟った彼は、自身が背負う十字架の重さに耐えられなくなり、家の屋根に上って、そこから十字架を投げ捨てた後、自身も飛び降りて、自殺した。