コシュマール ～薔薇の心臓～

EPILOGO

Portami una botte di vino. 葡萄酒の樽を持ってこい I

　無残な死体だらけだったコンティの屋敷内は、すっかり片付けられていた。

　あの真夜中の惨劇が悪い夢であったかのように、広い玄関ホールは白く磨かれた床と乳白色の壁、突き当たりに伸びる階段に至るまで柔らかな陽光が射し、帰宅したランベルトを明るく迎えた。

　血や腐乱した遺体の匂いが暫く屋敷内に留まっていたのだと帰りの馬上で兄から聞かされた。

　使用人たちが香水やハーブを大量に使い消したのだと。　　

　いまだ強く残る香水の香りが、生き残った使用人たちの苦労をよく表していると思った。

　出迎えてくれた執事とともに階段を昇りながら、ランベルトはホール内をぐるりと見回す。

　所々に壁紙や絨毯を変えた箇所があった。

　ホールの所々に飾ってある絵画は、一部絵の具を塗り直したように見えるものもある。

　何のためにそんなことをしたのか充分に察しがつく。ランベルトはつい軽く口を抑えてしまった。

「ランベルト様」

　後ろを歩いていた執事が、横に歩み寄り顔を覗き込む。

「どこか気になる箇所がありましたら、変えるなり目立たなくするなり致しますが」

「いや……充分だ。ここまでよくやってくれた」

　慌てて口から手を離し、ランベルトは言った。

「そうですか」

　そう執事が返す。

「パトリツィオ様が、ランベルト様は神経が細(ほそ)く胃腸が弱いと気にしていらっしゃいましたから」

　ふうん、と頷き、ランベルトは階段を昇った。

　無言で数段昇ったところで、おもむろに執事に尋ねる。

「私が子供の頃に？」

「いえいえ。ごく最近で」

　徐々に眉根を寄せ、ランベルトは立ち止まった。

「ちょっと待て」

　何となく絨毯の敷かれた足元を見る。

「……兄上の霊が現れているのを、お前は知っていたのか」

　もしそうでなかったら、乱心扱いされかねない質問だ。聞き取りづらいと思われる発音で問う。

　執事が聞き返したら、言い直すことはせずに話を終えようと思った。

「これは」

　執事が白い手袋を嵌めた手で口を覆う。

「パトリツィオ様には、まだ話して良いとの許可は得ておりませんでしたのに」

　その割に失敗したという表情ではない。

　口を滑らせたように見せかけて、わざとだろうかとランペルトは思った。

　あの兄と常に過ごしていた人だ。

　考えてみれば一筋縄ではいかないところもあるかもしれない。

「いつからだ」

　ランベルトは執事を横目に見て問うた。

「一番始めは、大量の薔薇が送られて来る数日前でしたかな。突然わたくしの寝室に現れまして」

「……お前は、すぐに兄上だと気付いたのか」

「それはもう」

　執事は肩を揺らし笑った。

「兄上は、その時は仮面を付けてはおられなかったのか」

「付けておりましたが、一目で分かりますよ」

　ランベルトは、複雑な心境になった。

　かなり長いこと分からなかった者が目の前にいるのだが。

「まったく口の軽い者ばかりだな」

　階段の下の段にパトリツィオが現れ、こちらに昇って来る。

　こうして何もない空間から突然現れるところは、やはり霊なのだなとランベルトは今更ながら思った。

「兄上……」

　ランベルトは口元を綻ばせた。

　屋敷に着いた直後から姿が見えなくなっていたので、もしやもう冥界に帰ってしまったのかと思っていた。

「まだおられたか、兄上」

「嫌そうに言うな」

　パトリツィオは眉根を寄せた。

「いや嬉しかったのだが……」

　そう言ったランベルトの横を追い越し、パトリツィオは上段に昇って行った。　

「執事、私の部屋を片付けておけ。いつまであのままにしているつもりだ」

　将校服のポケットに手を入れ、パトリツィオはそう言った。

「お言葉ですが、どうしてもと旦那様と奥様が」

　後を付いて階段を昇りながら執事は言った。

「その旦那様と奥様はどうした。いまだ私室で飲んだくれと、田舎で療養中か」

　大きなサイズの絵画と花の飾られた踊り場をつかつかと通り過ぎ、パトリツィオはその先の階段を昇って行った。

「あ、兄上、母上の方は、療養している田舎から手紙が来た。いくらかお加減よろしくなったそうだ」

　ふん、とパトリツィオは小さく呟いた。

「両親揃って不甲斐(ふがい)ない」

「いやまあ……」

　ランベルトは、兄の歩いて行く姿を目で追った。

「仕方ないではないか、兄上。お二人とも魔力に逆らう資質はお持ちでなかったのだ」

「根性が足りん」

　階段を昇りながら、パトリツィオはぴしゃりと言い放った。

「根性……」

「飲んだくれは今も私室か、執事」

　肩越しにパトリツィオは後ろを振り向いた。

「旦那様なら、左様でございます」

「葡萄酒の樽を部屋に運び込め」

　パトリツィオは、手袋を直しながらつかつかと階段を昇って行った。

「空(から)のもので御座いますか」

「中身が入ったものだ」

　パトリツィオはそう言った。

「どのような用途にお使いで」

「役に立たん飲んだくれを漬け込んでやる」

　当然のようにパトリツィオはそうと返した。

　階段を昇り切り、当主一家の私室のある廊下にコツコツと足を踏み入れる。

「あ、兄上」

　ランベルトは執事を追い越し、早足で階段を昇り切った。

　薄暗い廊下の入口に差し掛かり、慌てて兄の背後に追いつく。

「本当にやるつもりだったのか、兄上」

「戯れで言っていると思っていたのか」

　パトリツィオが将校服の袖(そで)を捲る。

　霊が袖を捲る意味はあるのだろうかとランベルトは思ったが、本気度だけは分かった気がする。

「父上とて、悪気があった訳ではないだろう、兄上」

「根性を入れ直してやる」

　鼻息荒くパトリツィオは言った。

　生前は不肖の父の手柄を作ってやっていたともいえる経緯を聞けばこの台詞も納得といえば納得の気もするが、それにしてももう少し穏やかなところで手は打てないのかと思う。

　落ち着いた模範的な人なのだと思っていたが、こんな気の荒い面があったのか。

　日常的にあまり接する機会が多くなかったとはいえ、なぜ生前は気付かなかったのかとランベルトは思った。

「執事、葡萄酒を。早く持て」

　父の私室のドアノブに手をかけ、パトリツィオがやっと追い付いた執事に向けて声を張る。

「赤でしょうか、それとも白」

　大きく息を吐きながらも執事は冷静にそう尋ねた。

「どちらがご希望でございますか、パトリツィオ様」

「どちらでもいい」

　パトリツィオは語気を強めた。

「では赤を」

「赤なのか」

　パトリツィオは軽く眉を寄せた。

　苛(いら)つきながらも理由が知りたいようだった。

「興奮したお方には赤が宜しいかと」

「私は牛か」

　執事は丁寧に一礼した。

　くるりと踵を返すと「誰か」と声を上げながら、元来た階段を降りて行く。

「兄上、もう良いではないか。正気に戻られたのち口で言えば、父上も分かる」

　ランベルトは言った。

　パトリツィオが、やや乱暴に父の私室の扉を開ける。

　執事がまめに窓を開けているのか、酒の入ったグラスや酒瓶(カラッファ)が置きっ放しの部屋の割に酒の匂いは薄かった。

　部屋の中央に設えられた大きめの寝台に、パトリツィオがつかつかと歩み寄る。

　天蓋(てんがい)の薄い垂れ布を手で雑に退けると、大の字になって眠る父を軽蔑するような目つきで見下ろした。

「父上」

　二人の間に割って入り、ランベルトは父に呼び掛けた。

「父上、起きてください。兄上が」

　そう言いかけ、ランベルトは振り向いて兄の方を見た。

　霊となって戻って来たなど、無闇にあちらこちらに言っても良いものなのだろうか。

　目を合わせると、パトリツィオは「言え」という風に顎(あご)をしゃくった。

　二人とはあまり似ていない、ごつい顔立ちの父に顔を近づけ、ランベルトは声を張った。

「父上、兄上が戻りましたよ。霊の身でずっと私を守ってくださいました」

「余計なことまで要らん。さっさと起きんと呪い殺すと言え」

　パトリツィオは眉を寄せた。

「だが兄上」

　ランベルトは言った。

「父上とて、兄上に亡くなられてずっと落ち込んでいたのだ。母上と共にいつまでも部屋を片付けたくないと言って」

　ふん、と呟いてパトリツィオはそっぽを向いた。

「父上」

　ランベルトは更に大きな声で呼びかけた。

　父が長身の身体を怠(だる)そうに捻(ひね)り、低い声で唸る。

　葡萄酒の匂いと中年男性独特の体臭が鼻腔を突いた。