Luna come falce. 鎌のような月 IIi
ダニエラは無言で仮面の顔を見上げていた。
ややしてから、いかにも嫌そうに目を眇めアノニモを見る。
「お前のお陰でどれも失敗だ。毒は吸い出されてしまうし、助けがあったことで恐怖も絶望も薄れてしまった」
「なん……」
ランベルトは目を見開きダニエラを見据えた。身を乗り出し、強張った口調で言った。
「本当の話なのか、ダニエラ殿」
「それも悪ふざけだと思いましたか?」
アノニモが肩を揺らし笑う。
ダニエラは無言でランベルトを見詰めていた。
顎を突き出すようにして、見下しているようにも、突き離そうとしているようにも見える表情をした。
追及に困り、ランベルトはアノニモの顔を見上げた。
アノニモは真顔でこちらを見返した。
これは悪ふざけではなく、責めて良いのだと示すように目を合わせた。
「それが本当なら、あなたは使用人の命を何だと思っているのか」
ランベルトは言った。
「ご自分の命は、それ以上に危なかったのですが。責めるならまずそちらを責めなさい、ランベルト」
「いや、だが」
「ランベルト様、そういうお優しい所が好きですわ」
喉の奥を鳴らしてダニエラが笑う。
「意訳すると、“お人好しで扱いやすい” です」
アノニモはそう言った。
「ランベルト様の兄君が、戯言がお好きで強かな性格の方とは聞いていましたわ。お陰であの状況でも、ランベルト様の恐怖も緊張も薄れたこと薄れたこと」
ダニエラは扇で口元を扇いだ。
「なぜ関係のない兄君の話が出るのか、さっぱり分からないが」
アノニモは肩を竦めた。
「追い詰めた目的は、ランベルトの能力」
アノニモはそう続けた。
「え……」
ランベルトは仮面の顔を見上げた。
「本当にあるのか?」
「今のところ知りませんが」
アノニモは言った。
「追い詰められて、自己防衛からそういうものに目覚める人間もいる。そればかりとも限らないが」
ふっとダニエラが鼻で笑った。
「ダニエラ殿、あなたは、それだけのために使用人を巻き添えにしたのか?!」
ランベルトは寝具を掴み、ダニエラの方に身を乗り出した。
「言ったでしょう、ランベルト。この辺の感覚が少々こんな傾向だから、彼らは「悪魔」に仕立てやすかったんです」
「陳腐なお伽噺で、姑息に信者を増やして行った側はお黙り」
ダニエラは言った。
「話を戻しましょう」
アノニモが肩を揺らし笑う。
「なにせ、七百年間も忘れ去られていた能力ですから、引き出すのも容易ではない」
「ちなみに、兄のパトリツィオ君は、催眠能力をお持ちだったようだがの」
ダニエラは扇を口元で扇ぎ、赤い唇の端を上げた。
「えっ」
ランベルトは思わずアノニモを見た。
「兄が?」
「なぜこちらを見るんです」
「いや……」
アノニモと同じような能力ではと思っただけなのだが。ランベルトは眉を寄せた。
「兄君は、どうやってご自分の能力を知ったのか」
「さあ」
アノニモは肩を竦めた。
「ランベルト様の兄君など、お会いしたことも無いので」
「そうか。わたしは会ったことがあるぞ」
ダニエラは妖艶な笑みを浮かべ扇を手元で揺らした。
「性格はいけ好かない男だが、血に塗れた姿だけは秀麗であった」
「地味に変態ですな、女王様」
アノニモは喉の奥を鳴らし笑った。
「お前も困るのではないか? 守られる一方の者よりも、能力を発揮してくれる者の方が楽であろう」
「元々守るために来ているので。別に」
「成程」
ダニエラは扇で口元を隠し目を伏せた。
長い睫毛が、赤い瞳に影を作る。
「ランベルト様」
ダニエラはランベルトの方を向いた。
「ランベルト様はどう思っていますの? 男性として、守られるばかりの立場は心苦しいのではなくて?」
「それは……」
不意の質問に、ランベルトは戸惑った。
薔薇が贈られた件からは事態に流されるばかりだったが、元はといえば、父母がおかしくなった件も所有地の問題も、率先して自身が解決しようとしていた。
特にアノニモを全面的に頼ろうとしていたつもりは無い。
「私は」
「良家の跡継ぎ息子など、外出時には付き人を付け、屋敷にも護衛を付けて守られていて当然。妙なことを吹き込まないで貰おう」
ランベルトが言葉を発する前に、アノニモが引ったくるようにして言った。
「成りすましの付き人は黙りや」
ダニエラはアノニモを睨み付けた。
「そちらこそ。女王の癖に、男を操る術をよく知っていらっしゃる」
アノニモは鼻で笑った。
「覚えておくといい、ランベルト。自尊心に揺さぶりを掛けて来るのが、男性要人を操ろうとする者の常套手段だ」
「何とも、どこまでも喧しい亡霊よの」
ダニエラは扇を閉じると、傍に控えた従者を見た。
「バルドヴィーノ」
従者が小さく頷いた。
「もう帰っておれ。ここはわたくしで充分だ」
「はっ」
バルドヴィーノは再度頷くと立ち上がった。
何の問いかけもなく命令に従い、こちらに背を向ける。
真っ直ぐ窓の方に向かった。
「従者」
空間に消えようとしたであろう直前に、アノニモは呼び止めた。
「今度会う時は、こちらのヘッドハンティングに是非とも応じて貰う」
バルドヴィーノは僅かにこちらを見たが、すぐに前を向くと無言で空間に消えた。
肩を揺すりアノニモは笑った。
「あれがそんなのに応じるものか」
「自信がおありか? 女王様」
アノニモは言った。
ダニエラの背後の空間が歪んだ。
水面に出来た波紋のように、室内の景色が円を描いて変形した。
収まると、深紅のドレスを着た女が控えていた。
多数の骨を組み合わせて作製したような、白くごつごつとした大きな鎌を、女はダニエラに差し出す。
ダニエラは片手で受け取ると、ブン、と音をさせて一振りした。
「次など無い。お前はここで完全に消滅させる」
「成程」
アノニモは口の端を上げた。
「冥界に通じる能力を持つ者がいたか」
「冥界……?」
「ランベルト」
後ろ手に手を伸ばすと、アノニモはサイドテーブルにあった室内着を手に取った。
ランベルトの方に放り投げて寄越す。
「羽織れ。いざというときは構わず逃げろ」
緊張した声だった。
ランベルトは眉を寄せ、身を乗り出した。
「ダニエラ殿、何をするつもりだ」
「ランベルト様も鬱陶しいでしょう? 素性不明の亡霊など」
骨の寄せ集めのような鎌を片手に持ち、ダニエラは赤い唇の端を上げた。
「八つ裂きにして、転生も叶わないよう綺麗に消滅させて差し上げますわ」
「目的は私ではないのか、ダニエラ殿!」
ランベルトは声を上げた。
「この鬱陶しい亡霊がいなくなれば、能力の有無もはっきりしないようなあなたなど、簡単に手に入りますわ」
「そして、まずは人質にされる。コンティを抑えるための」
アノニモは言った。
「折を見て婚姻という形での一族乗っ取り。そして「悪魔」とされる種族が、再びこちらの世界に住み着く足掛かりにされる。そんなところか」
コツ、と革靴の音を立て、アノニモはダニエラとの間合いを詰めるように半歩ほど動いた。
「ではなぜコンティなのかと考えた」
アノニモは緩く腕を組み、額に指先を当てた。
「長い間それぞれの種族、それぞれの世界で代替わりを重ねるうちに、こちらの人間とそちらの種族は、既に混血も出来ないほど血が遠ざかってしまったのでは」
ダニエラは否定も肯定もせず、アノニモを見下すように見ていた。
「だが、コンティならまだ可能かもしれないと踏んだ。先祖のギレーヌの血を強く残す者がいる」
アノニモは言った。
「しかしそうなると、また疑問が湧くのだ」
米噛みを指先でつつき、アノニモは言った。
「こちらに再び住み着きたいのなら、軍勢でも率いて攻め込み、こちらの世界ごと乗っ取るという手もあるはず。なぜ婚姻と混血などという面倒臭い手を考えた」
アノニモは、ダニエラを嘲るような角度で見た。
仮面から覗く薄い瑠璃色の目とダニエラの赤い目は、お互い蔑み合うように視線をぶつけ合っていた。
「ランベルトがそちらの世界に連れ込まれた際、あちらこちらを見物させていただいたが」
アノニモは言った。
「随分と打ち捨てられた墓地が多かったな」
ランベルトは顔を上げた。
どうにもあの世界での記憶は全体的に曖昧だった。
「あったか……?」
「お前は黙っていろ」
こちらを見もせずアノニモは言った。
従者のふりをしたいのか、主導権を握りたいのかどちらなのだとランベルトは顔を顰めた。
「そちらの種族はもう数も減り、滅びに向かっているのでは」
アノニモは言った。
「こちらの「人間」に少しずつ取って変わることで、種族を生き延びさせようと女王様は考えた」
ダニエラは真っ直ぐに仮面の顔を見ると、表情も変えず赤い唇を開いた。
「そこまでの考えに至っておきながら、我が種族の者を取り込み同族殺しを強いるのか」
鋭い口調でダニエラは言った。
「吐き気がするわ」
「否定はしないのだな」
アノニモは口の端を上げた。
「同族殺しを強いていることはお許し願いたい。なにせ、これしか取り柄が無いもので」
アノニモは肩を竦めた。
「しかし」と続ける。
「こちらに取り込まれた者を裏切り者と断罪し、私もろとも殲滅しようとした女王に言われたくはない」
アノニモは更に間合いを詰めるように一歩歩を進めた。
ダニエラを至近距離から見下ろす。
「男の、血に塗れた姿がお好きなようなので、こちらからもひとこと」
ゆっくりとした口調でアノニモは言った。
「あなたの楚々とした小芝居はつまらないが、殺戮に昂った際の肌は艶かしく扇情的だった」
ダニエラは顎をしゃくり、更に見下すようにアノニモを見た。
「消え失せろ」
「滅びろ」
紅玉のような赤い瞳と、仮面から覗き見える瞳が緊くかち合った。




