Luna come falce. 鎌のような月 I
フランチェスカの屋敷に滞在して数日が経っていた。
駆け込んだ日に真円に近かった月は、だいぶ細くなっていた。
そろそろ迷惑ではないかとランベルトは気掛かりになっていたが、アノニモはここを出るのを中々許してはくれなかった。
よくよく考えたら、なぜ自分はこの素性不明の霊の言うことをこうも素直に聞いてしまっているのか。
寝台のヘッドボードを背にして座り、ランベルトは窓辺に立つ将校服の姿を見た。
兄に癖や話し方が似ていると、フランチェスカが事あるごとに言っているが。
だから子供の頃の習慣で逆らいにくいのか。
ランベルトは眉を寄せた。
「何ですか?」
じっと見詰めているのを不審に思ったのか、アノニモが言った。
「いや……」
「素性なら、話す気はありませんよ」
今度は先手を取って言うようになったか。ランベルトは更に緊く眉を寄せた。
「さっさと寝てください。もう夜遅い」
アノニモはそう言い、薄い杏色のカーテンを閉めた。
「毒は、そろそろ抜け切ったのではないかと思うんだが」
ランベルトは言った。
昨日今日辺りは、目眩は全く起こらなくなっていた。
この状態に至るまでに、アノニモの使役する美女に何度接吻されたことか。
柔らかな唇の感触とミルラの香りは、暫く脳裏に残りそうだと思った。
「そうですね」
アノニモは言った。
革靴の音をさせ寝台に近付くと、傍らにある簡素な椅子に腰掛けた。
「屋敷がどうなっているのかが気になる。見に行っては駄目か」
ランベルトは言った。
「生き残りの使用人たちが、何とか片付けているようですよ」
ゆっくりとアノニモは脚を組んだ。
「見て来たのか」
「ちょくちょく見に行っています」
アノニモは微笑した。
「人手は? 足りているのか」
「逃げて助かった者が、思ったよりいたようで」
そうアノニモは言った。
「……よく屋敷に戻って来たな」
「逃げた者全員かは分かりませんが」
アノニモは膝の上で手を組んだ。
「戻らない者から妙な話が流布するかもしれません。何か対策した方が」
「ああ……そうか」
ランベルトは膝に掛けた寝具を見詰めた。
「父はどうしている」
「片付けには一切参加せず、何の役にも立っていません」
「いやそうではなく。無事か」
「忌々しいほどご無事です」
うんざりとした口調で言い、アノニモは脚を組み直した。
「……お前はうちの父のことになると、いちいち棘があるな」
「そうですか?」
アノニモはそう返し、椅子の背もたれに身体を預けた。
軋む音が一切しないのを、何となくランベルトは納得しながら見ていた。
「様子を見たい気持ちは分かりますが、あなたが行けば、また同じ騒ぎを仕掛けられる可能性もある。やめた方が」
「あれは、私がいたからなのか?」
ランベルトは目を見開いた。
「あなたが屋敷から逃げて以降、何の手出しもされていない所をみると」
「目的は」
「そこ、確認し損ねたんですよね……」
アノニモは額に手を当てた。
「婚姻話を持ち込んだ目的は吐かせたんですが」
「ではここに居ては、今度はフランチェスカを危険に晒すではないか」
不意にそう思い立ち、ランベルトは部屋の扉の方を見た。
「それなんですよね」
アノニモが軽く肩を竦める。
「だから、早く体調を戻すことに専念してくれと」
「いや、それを先に言えば宿屋に泊まった」
ランベルトは寝具を捲り寝台から降りると、靴を履いた。
借りていたシャツの留め具に手を掛け、慌ただしく外し始める。
「すぐにここを出る」
「夜中ですよ」
アノニモは言った。
構わず留め具を外し、ランベルトはシャツを脱いだ。
アノニモは立ち上がって脱いだシャツを受け取ると、それをランベルトの肩に掛けた。
「使役する者を、屋敷中に待機させています」
そう言い、ランベルトに元通りシャツを着せて留め具を留め始めた。
「フランチェスカ殿にまで何かさせるつもりは、私にもありません」
ランベルトは黙って、留め具を留める指先を見ていた。
「強引に眠らされたくなければ、今日の所は取りあえず寝てください」
そうアノニモは言った。
「強引にって」
「手刀で気絶させられるのと、薬物を無理やり飲まされるのと、催眠を掛けられるのとではどれが良いですか?」
「……どれも嫌だ」
「では寝てください」
眠りに落ちて、どれくらい時間が経ったのか。
ランベルトは目を覚ました。
部屋は暗く、カーテンを通して入る月明かりは殆ど無かった。
耳鳴りがしそうな程の静けさと、ひんやりとする空気の感じ。まだ深夜だろうか。
寝台のすぐ横に、白い服の姿が浮かび上がっていた。
アノニモか。
こうやっていつも傍に付いているのかと思った。
背中を向けているのに気付いた。
カツカツ、とやや慌ただしい靴音がし、アノニモは後ろ向きで寝台に歩み寄った。
「ランベルト」
そう言い、庇うように手を後ろに伸ばした。
「どうした」
何か異変だろうかと思った。
目線をアノニモの前方辺りに向け、起き上がるかどうか迷って肩を動かす。
「そのままでよろしくてよ、ランベルト様。夫になる方ですもの。寝姿など何とも思いませんわ」
どこからともなく高いヒールの靴音が響いた。
窓際の何も無い空間が微かに歪み、空中に水面のように波紋を描いた。
暗闇から生まれ出るかのように、ドレスの女性が現れた。
ダニエラだった。
レースで飾られた黒いドレス姿は、暗い部屋の中に一際濃く浮かぶ影のように見える。
両側に一人ずつ、密陀僧色のドレスの侍女が傅いていた。
頭の中にどんよりと渦巻くような禍々しさを感じ、ランベルトは目を眇めた。
確か彼女らは別の種の人類なのだとアノニモが言っていたが、この禍々しさはどこから来るものなのか。
「先日はどうも。女王様」
アノニモは言った。
サイドテーブルに置かれた燭台の蝋燭に、一斉に火が灯った。
ランベルトは、僅かに動揺して燭台を見た。
ダニエラが何か仕掛けたのかと思ったが、前にもアノニモが手品のように火を点けてみせたことがあるのを思い出した。
枕元を中心に、部屋は橙色に照らされた。
ダニエラは無言で手にしたレースの扇を広げると、アノニモから顔を逸らした。
露骨な無視という感じだった。
「今日は本物か? それともまた人形か」
構わずアノニモはそう言い、肩を揺らして含み笑いをした。
「人形?」
ランベルトは身体を起こした。
「美しく吹き出した鮮血も幻だったようで」
アノニモは言った。
「あの従者がいない所をみると、今日も」
「亡霊ふぜいが、鬱陶しい」
見下すような口調でダニエラは言った。
「ランベルトに素性を暴露されたくないなら、黙りや」
「この場で下着の素材と黶の位置を言われたいならどうぞ、女王様」
アノニモは肩を竦めた。
「な……」
ダニエラは口元から扇を外し、怒りとも羞恥とも取れる表情をした。
赤い唇を半開きにし、アノニモの動きを目で追う。
「お前はダニエラ殿に何をしたんだ」
ランベルトは眉を寄せ、アノニモの顔を見上げた。
「婚姻を断りたい相手でも、何かされると惜しいですか」
「そういう問題ではない」
「首を抑えていたら、襟元からいろいろ見えるんですよね」
アノニモは、腕を鉤状に曲げてみせた。
「首をって」
「まあ、丁度いい」
アノニモは言った。
「ここで、バルロッティ家との婚姻話の破棄を正式に申し入れる。承知してくださいますね」
「お前がか」
ダニエラは見下すように言い、赤い唇の端を上げた。
「コンティ家当主の名代として言っている。当主の状態が状態なので、代理として執事に話を通したが」
「成程」
ダニエラは言った。