Profumo di te. あなたの香りがする III
「仕方のない」
アノニモは言った。
「消えていろ」
顔を上げ、美女に向けそう言った。
美女はランベルトから離れると頷いた。
一、二歩後退りし、空中に吸い込まれるようにして消える。
いつの間に現れたのか、扉の前に正装した若者が二人立っていた。
アノニモの目線の指示で扉を開ける。
「あら……」
見慣れない若者二人にフランチェスカは戸惑っていた。
「ランベルト、この方たちは」
「ええと」
ランベルトはアノニモの顔を見上げた。
「恋人」
アノニモは言った。
「えっ……」
「……は来てませんね。その者たちは、夕べ遅れて到着した従者です」
フランチェスカは、じっとアノニモの方を見た。
扉の両脇に立った若者二人が、フランチェスカに向けて一礼する。
二人とも非常に美しい若者だった。
あれも使役している悪魔のなのかとランベルトは思った。
着替えを手に、尚もフランチェスカは、こちらをじっと見ていた。
ヘッドロックの体勢でいるせいではないか。ランベルトはアノニモに視線を送った。
ああ、と頷いてアノニモは身体を起こす。
「お見苦しいところを。主人が、休んでいた方が良いという具申を聞いてくださらないものですから」
そう言い、アノニモは襟元を直す仕草をした。
フランチェスカは、くすくすと笑い出した。
「やっぱり従者の方、パトリツィオに似ていらっしゃるわね」
「兄にこんな乱暴なことをされた覚えはないよ」
眉を寄せランベルトは首を擦った。
「ランベルトが赤ちゃんのときにやってたわよ。面白がって」
「……は?」
ランベルトは目を丸くした。
フランチェスカを凝視し、そのまま動きを目で追う。
「もちろん、ちゃんと手加減はしてたわよ」
完璧で厳格でストイックな人という兄のイメージが、相当崩れた気がした。
今のは本当の話か。
そんな悪ふざけをする人だったのか。
フランチェスカは着替えをサイドテーブルに置くと、端を少し捲って確認した。
「侍女の弟のものを借りたのだけれどいい? うちには男物とか置いていなくて」
「ああ……別に着替えなんて」
女中が上着のようなものを持って来た。
フランチェスカは受け取り、開いて襟元や留め具を軽く確認した。
完全に、幼い息子か弟の部屋に来たかような様子だ。男性の部屋に来たという雰囲気ではない。
アノニモがずっと目で追っているのに気付いた。
「寒くない?」
不意にフランチェスカはそう言った。
寝台に近付くと、ランベルトの寝具を両手で掴んだ。
「寝ていた方が良い状態なのでしょう?」
肩の辺りを直そうとする。
「いや、いいから。その」
気恥ずかしさを感じ、ランベルトは慌てて断った。
完全に大人の男性の扱いではないなと思った。
「私がやりますので。奥方」
アノニモが言った。
あ、という顔をしてフランチェスカはゆっくりと手を引いた。
「いつもやっていただく方の方がいいわね」
「いや……やっていただいている訳では」
ランベルトは複雑な表情をした。
「いつも、やっておりますから」
アノニモはそう言い、やや雑な手付きで寝具を直した。
ふわりと何かの匂いを感じ、ランベルトはアノニモの手先を凝視した。
「いつから仕えていらっしゃるの? 従者の方」
寝台の傍らで手を組み、フランチェスカは言った。
「ごく最近ですね」
「お食事を運びたいのだけれど、こちらのお部屋の方がいいかしら」
「そうですね。こちらで。私とそちらの従者は不要ですので、主人のものだけで」
アノニモは寝具を直し終えると、ぽんぽんと手の平で叩いた。
「そんな癖までパトリツィオと同じなのね」
フランチェスカはくすくすと笑った。
アノニモが、ぴたりと手を止める。
フランチェスカが退室すると、入れ替わりでアノニモが使役する先程の美女が現れた。
行儀良く手を組み、寝台からやや離れた所からハイヒールの音をさせ近付いた。
「香水を付けているのか?」
首を動かし、ランベルトは言った。
「彼女の付けている香りはミルラですが」
美女を指しアノニモは言った。
「いや」
「フランチェスカ殿ですか? 失礼ですよ」
アノニモは言った。
「……他の女性のそういう話は平気でするのに、フランチェスカは失礼なのか」
「身分のある家の女性ですから」
アノニモは言った。
「ダニエラ殿もそうではないか」
「別種族の女王など身分のうちに入りません」
「いやお前だ」
ランベルトは言った。
寝具の衣擦れの音をさせて姿勢を直し、天井を見る。
「香水の香りがする」
アノニモは暫くこちらを見ていた。
「霊でも香るんですかね」
苦笑するように口元を上げ、将校服の袖口を見る。
「気に障りました?」
「いや」
天井の模様を何気なく眺め、ランベルトは言った。
「どこかで嗅いだ覚えがある香りなんだが」
アノニモが現れ始めた時にも同じことを思ったのを思い出した。
だいぶ以前に頻繁に嗅いでいた香りのような気がするのだが、何だったか。
「少々不思議な香りだな。ハーブのような、甘くない小麦粉菓子のような」
つい寝具から手を出し、ランベルトは前髪を掻き上げた。
「誰かの付けていた香りと似ているのかな……」
アノニモは手を伸ばし寝具を直そうとしたが、途中で動作を止め、使役する美女に目で指示した。
「今思い出さなくても良いのでは? 取りあえず体調を戻すことに専念してください」
「いやでも、何か気になるな」
ランベルトは言った。
「眠れない程ですか?」
「どうかな。まだ昼間だし」
窓の外は先程よりも少々曇っていたが、悪天候という程ではなかった。
太陽が高く上がっているのに気付いた。
フランチェスカが食事を運ぶと言っていたが、だいぶ遅い朝食になりそうだとランベルトは思った。
「夜になっても眠れないようであれば、強引に眠らせる方法はいくらでもありますが」
今度は何をする気だ。
ランベルトは眉を寄せた。
「別に、無理して思い出さなくても良いのでは」
アノニモは静かな口調で言った。
「思い出せないのなら、あなたにとっては別に重要な記憶ではないのだと思いますよ」
「そうなのかな……」
ランベルトは天井を見て呟いた。




