Profumo di te. あなたの香りがする II
「ポンタッシェーヴェのガエターノ殿ですが」
「叔父上がどうかしたか」
ランベルトは言った。
アノニモは暫くこちらを見ていた。言葉を選んでいるような感じに見えた。
「令嬢がお一人いるとか」
緩く腕を組みアノニモは言った。
「クラリーチェか?」
「お会いしたことは」
「幼少の頃は何度も。最近は会っていない」
ランベルトはもそもそと肩を動かし、再び天井を見上げた。
寝台の傍で、品良く両手を組みこちらを見ている美女と目が合った。
「ポンタッシェーヴェの屋敷を訪ねても、ガエターノ叔父上しかお会い出来ないというか」
「無理に会いたいと言っても?」
アノニモは言った。
「いや……」
ランベルトは軽く眉を寄せた。
「そういうことではなく、たまたま毎回、風邪気味なのだとか、どこかへ出掛けているのだとか」
「ほう……」
アノニモは身体を軽く捻り、再び窓の外を見た。
「ガエターノ叔父上が何か?」
「割と早い時期に奥方を貰ったはずだが」
「ああ……」
ランベルトは天井の金の模様を何気なく目で追い、記憶を探った。
「十五の頃だ。ちょうど釣り合いの取れる方がロドリーニ家にいらしたので」
アノニモは黙って外を見ていた。
「今にして思えば、兄が亡くなった後は、ガエターノ叔父上が跡継ぎになるのが正当だったのだろうと思うが」
「ガエターノ殿は固辞したんですよ」
アノニモは言った。
「跡を継ぐ気は無いと親族の前で頑なに言ったんです」
「そんなことが」
「あなたはまだ大人といえる年齢ではなかったので、話にすら混ぜて貰えなかったのでしょうが」
「そんな話し合いがあったことすら知らなかった」
ランベルトは言った。
「そうですか」
アノニモは指先で仮面を抑えた。
「そして、のちに一人娘とポンタッシェーヴェの屋敷に籠ってしまったという訳ですか」
「そんなことまで調べたのか」
「大事な契約者に関係する情報ですから」
ランベルトは天井を見上げ、息を吐いた。
「そうだな。ここ数年は、籠ってしまったという言葉に近い。親戚の者を避けているというか」
「屋敷の書斎にあった本を、以前何冊か持ち帰っているようですが」
「ああ」
ランベルトは天井を見詰めた。
「借りて行くと言っていた。元々父とは話しにくいようで、私と執事に断って行った」
「何の本かは」
「よく見なかったな。古い装丁だったようだが」
「そうですか」
アノニモは緩く腕を組んだ。
窓の外の、遠くの方を眺めているようだった。
何を見ているのかとランベルトは思った。生前に見慣れていた景色でも見えるのだろうか。
「本が何か」
話し掛けていいものかと迷いつつ、ランベルトは言った。
「多分、“ cauchemar ” と題名の付いたものを持って行ったのではないかと」
「外国語か?」
「フランス語です」
アノニモは言った。
「本というより、覚書の写しなんですが」
「覚書」
ランベルトは、再び天井を見上げた。
「中身もフランス語か?」
「主に古フランス語ですね。初期のいくらかのページはガリア語ですが」
「フランス語は苦手だ。書いてあっても発音しない子音があるとか、意味が分からない」
ランベルトは眉を寄せた。
「発音する分にはそうかもしれませんが、読む分にはそう苦ではないでしょう」
アノニモは僅かに肩を揺らし笑った。
「何ヵ所かラテン語で書かれている捕捉があるのですが、あれは後世のコンティ家の人間が書き加えたのだと思うのですが」
「記したのは誰だ」
「ガリア語の部分を書いたのは、おそらく先祖のギレーヌとその夫。古フランス語の部分は、その後の悪魔払いをしていた時代のコンティの者かと」
アノニモは言った。
「内容は。お前は読んだのか?」
目線をそちらに向け、ランベルトは言った。
「ええ」
穏やかな口調でアノニモは言った。
「死んで間もない頃に」
無言でランベルトは見詰めた。
生きている人間と見分けが付かない程はっきりとした姿で現れているので、アノニモが霊なのだということを時折忘れる。
自身の死を体験している人間なのだと思い出すたび、どう対応していいのか分からなくなる時があった。
「間もない頃とは。やはりお前は、生前コンティと関係していた者なのか」
「何回聞いているんです」
アノニモは肩を竦めた。
「いや、そもそもそれが解決していない」
アノニモは顔を背けるように横を向いた。
「兄上様を嫌っていたりするから解決しないんです」
「何の関係が」
ランベルトは眉を寄せた。
「どうにもお前は、私が兄を嫌っていたことにしたいらしいな。兄にも怨みか何かあるのか?」
身体を横向きにし、ランベルトは真っ直ぐにアノニモを見た。
逆光でアノニモの表情は分かりにくかった。
「兄を、生前知っていたのか……?」
アノニモは黙ってこちらを向いた。
暫くしてゆっくりと口に拳を当てると、吹き出した。
そのまま激しく肩を揺らし笑う。
「なっ、何だ」
「いや……」
笑いが止まらないようだった。
「何なんだ、お前は」
含み笑いをする姿を暫く眺めているうち、ランベルトは軽く目眩を感じた。
逆光の姿をじっと見ていたせいなのか、それとも残った毒が回ってきたのか。
様子の変化に気付いたのか、アノニモは笑いを止めた。
美女の方を見て顎をしゃくる。
「いや……いい」
ランベルトは言った。
「いいではないです」
アノニモはつかつかと寝台に近付いた。
「いや、彼女にも好き嫌いというものがあるだろうし」
「ただの治療行為です。何を考えているんです」
アノニモは再度美女に目で指示した。
美女が頷き、ランベルトの頬に細い手を当てる。
「いや」
手を差し出し、ランベルトは断ろうとした。
アノニモは寝台に身を乗り出すと、両腕でランベルトの首と頭をがっちりと固定した。
「やれ」
そう美女に言う。
「おいっ!」
ゆっくりと唇が押し当てられた。
苦い気のようなものが、体内から美女の唇の方に移動する感覚があった。
確かに甘い接吻というのとは感覚が違うが、薄目を開けると綺麗で柔らかな頬が間近にあるのだ。
少々照れる。そう思った。
「ランベルト」
扉をノックする音がした。
フランチェスカの声だった。
口づけされながら、ランベルトは目を見開いた。
「ランベルト、着替えを持って来たのだけれど」
「どうぞ」
アノニモは言った。
ランベルトは唇を捕らえられたまま、呻いて首を横に振った。
アノニモにヘッドロックを掛けられたままなので、その首すらあまり動かないのだが。
「別にいいではありませんか。恋人が会いに来たとでも言えば」
更に呻いてランベルトは首を振った。
夜遅くに駆け込んで泊めて貰った家に、早速恋人を呼びつけるなど、婦人が見たら嫌悪するではないか。そう目で訴えた。
「別に恋人がいると思われてもいいでしょう」
アノニモは言った。
やや声のトーンを下げて続ける。
「それとも何ですか? フランチェスカ殿にそう思われては、嫌な理由でも?」
何故そこで怖い声色になるのだ。ランベルトは困惑して仮面の顔を見詰めた。




