Profumo di te. あなたの香りがする I
唇に柔らかな感触を覚え、ランベルトは目を覚ました。
顔の上に被さった何かがおもむろに離れ、清楚な美女の顔であることが分かった。
眦のきつめな赤黒い瞳だった。長い金髪が、膨らんだ形の袖に絡むように波打っている。
「君は……?」
少々戸惑いながらランベルトは尋ねた。
確か夕べはフランチェスカの家に泊まったはずだが。
「こら」
聞き覚えのある声がした。
美女がゆっくりと寝台から離れる。
窓際に、白い将校服の男性が立っていた。
逆光で顔がよく見えず、ランベルトは目を細めた。この陽光の明るさだと、夜が明けてだいぶ経っていそうだ。
男性はこちらに近付くと、身体を屈ませた。
「接吻の最中に目を開けるとは、行儀の悪い」
目の部分だけを隠した白い仮面、後ろで結わえた長めのダークブロンドの髪。
アノニモだった。
「一晩中いたのか」
ランベルトは身体を起こした。
「いえ。仕事をいくつかこなすために、暫く離れましたが」
「仕事」
「とりあえず、ダニエラ女王様との婚姻は、解消という流れになると思います」
アノニモは言った。
「話を付けに行ったのか?」
「まあ」
「お前が?」
「仲良く密着して耳元で囁いたら、撤退してくださいました」
アノニモはそう言い、屈めていた身体を起こした。
ランベルトは呆然とその動作を目で追った。
「……ダニエラ殿に何を」
つい如何わしい想像をした。
「体調が回復したら、ポンタッシェーヴェに行きますよ」
再び窓際に立ちアノニモは言った。
「体調は大丈夫だ。夕べ食事もしたし一眠りしたし」
ランベルトは起き上がろうとした。
途端にくらりと目眩がして寝具に手を付く。
「……え」
強烈な眠気のようなものが、一定の感覚で押し寄せた。
「まだ毒が吸い出し切れていないんですよ」
「毒……」
ランベルトは額に手を当てた。
「屋敷を抜け出すまでの間にも、私室と厨房の薔薇に接触していますからね」
アノニモは言った。
先程の美女と目が合った。
そういえば、以前にも使役している者に吸い出させたと言っていたか。
ランベルトは思わず唇に指先を当てた。
「別の者が良かったですか?」
「え、いや」
「何なら一晩お貸ししますが」
ランベルトは困惑してアノニモの顔を見た。
「看護にですよ」
アノニモは言った。
「私が使役している者なんですから、おかしな所は触らないように」
そう言うとアノニモは、手袋を直すような仕草をした。
「少し話をしても大丈夫ですか」
唇に手を当てたまま、ランベルトはそちらを見た。
「寝たままで結構です」
アノニモは言った。
先程の美女に、指示するように顎をしゃくる。
美女は品のある仕草でランベルトに近付くと、両肩をそっと押して寝かせ、肩まで寝具を掛けた。
「まずは、すぐに済みそうな知らせから」
腰に手を当てアノニモは言った。
「コンティ家の執事は無事です」
「え……」
ランベルトは肩を揺らし起き上がろうとした。
再びくらりと目眩がする。
美女が慌てて両肩を押し、元通り寝かせようとした。
「寝ていろ。馬鹿者が」
強い口調でアノニモは言った。
急な話し方の変わりように、ランベルトは目を丸くした。
ついじっとアノニモを見る。
「……いえ」
アノニモは指先で仮面を抑えると、横を向いた。
「寝ていてください」
「ああ……」
不可解さを覚えながらも、ランベルトはそう返事をした。
「今の口調、死んだ兄に似ていた」
「ほう」
アノニモは宙を眺めた。
「大嫌いな兄上様に」
「だから、嫌ってなどいない」
ランベルトは眉を寄せた。
「前にもそう言っていたな。そこだけは、どう調べたのか疑問だ」
アノニモは、顔を逸らすようにして窓の方を見た。
「別に嫌ってはいない。歳が離れていた上に完璧な人だったので、近寄り難い感はあったが」
アノニモは黙っていた。
顔だけを過剰に背けるように向こうに向け、じっと窓の外を見ていた。
「兄は、一緒にいるときは、食事を勧めるか「寝ていろ」と言うか、大抵どちらかだったんだ。だから先程は似ていた気がした」
枕に預けた首を動かし、ランベルトは天井を見上げた。
「よく分からんが、小さい子供の健康管理といえば、食べさせるか寝かせるかしか思い付かん人だったのだろう。跡継ぎとして必要なこと以外は、案外疎い人だったのかもしれん」
アノニモを横目で見た。
相変わらず顔を逸らすようにして外を見ていた。
兄の話を振る割には興味が無いのだろうかとランベルトは思った。
「……私は、兄といるときは寝たふりをしていることも多かった」
アノニモが微かに喉を詰まらせるような音を立てた。
なぜか咳払いをするときのように口に拳を当てる。
「子供なりに兄を立ててやりたかった」
ランベルトは言った。
「それで……」
再び天井に視線を戻し、ランベルトは眉を寄せた。
「……そういえば何の話だったかな」
「執事殿の話に戻して宜しいですか」
アノニモは言った。
「ああ、そうだった」
「お父上の部屋に立て籠っていらしたので、少々疲れているご様子でしたが、無事です」
「そうか」
ランベルトはホッと息を吐いた。
「あの歳では、逃げるのは無理かと思っていた」
「言ったではないですか。あの人は若い頃、槍の名手だったと」
アノニモはこちらを向き、窓の縦枠に背を預けた。
「ああ、自慢話をしていたと……」
そう言いかけ、ランベルトは眉を寄せた。
誰から聞いた話だったか。
「お前が言ったのだったか。執事が槍の腕の自慢をしていたと」
ランベルトは首を動かしアノニモの方を見た。
「うちの執事と話したことが?」
アノニモは無言でこちらを見ていた。
逆光で表情はよく分からない。
「次の知らせです」
アノニモは言った。
またはぐらかしたのかとランベルトは眉を寄せた。
「非常に残念なお知らせです」
アノニモはもう一度窓の外を見た。
ランベルトは将校服姿をじっと見て顔を緊張させた。
「お父上もご無事です」
アノニモはそう言うと、嫌そうに溜め息を吐いた。
「……なぜそれが残念なんだ」
ランベルトは顔を顰めた。
「怪我でも?」
「いえ。無傷で安らかに爆睡していらっしゃいました」
「お前は、うちの父に何か怨みでもあるのか」
「あそこまで無能だと、怨みたくもなりますねえ」
アノニモは額に手を当てた。
「他人に、親の有能無能をとやかく言われる筋合いはない」
「次の話ですが」
何事も無かったかのようにアノニモは言った。