Camera con guerriero. 戦士のいる部屋 II
パトリツィオは革靴の音を立て、寝台に向かった。
天蓋から垂れた布を雑に捲り、大の字になって寝る父の姿を見下ろした。
酒の匂いをさせ、微かに鼾のようなものを立てている。
こんな生活を続けているのは、一ヵ月ほどだったか。
そろそろ肌の様子が不健康そうに脂ぎっていた。
生前見ていたときより当然老けていたが、腹が出てきているのは、この生活の影響もあるのだろう。
「この人は、相変わらずこうか」
「相変わらずでございます」
執事は言った。
「これを盾にして、お前も逃げて良かったぞ」
「ご冗談を」
執事は笑った。
「本気で言っている」
パトリツィオは言った。
「両親揃って、跡継ぎ息子も守れんとは」
鼾が大きくなった。
女性の名前らしき寝言を言い始めた父を見て、パトリツィオは小さく舌打ちをした。
「ランベルトの婚姻の話は、もちろん無効だろうな」
執事の方に向き直りパトリツィオは言った。
「贈り物の礼を伝えるためにバルロッティ家に送っていた者が、屋敷がどこにあるか急に分からなくなったと言って帰って参りまして」
執事は言った。
両手を組み、息を吐く。
「お屋敷があったはずの場所が、大きな沼地になっていたとか。そもそもその場所だったかも記憶が曖昧になったのだと」
「撤収したのかな」
パトリツィオは肩を揺らし含み笑いをした。
「まあいい。何なら私が、当主の名代として婚姻の正式な断りを入れてもいいが」
「あなた様がですか」
執事は眉を顰めた。
「相手のダニエラ嬢とは、先ほど懇意になったばかりだ」
「ほう?」
そう言い、執事はパトリツィオの顔を見上げた。
「付けている香りはクラシック・ローズ、下着は絹、首の付け根に小さな黶がある」
執事は無言でパトリツィオを見詰めた。
かなり困惑した表情だ。
「一体、ご令嬢に何を……」
「母はどうしている」
執事の言葉を遮り、パトリツィオは言った。
「ランベルト様からは、お聞きになってはおりませんか」
「気が触れて田舎で療養中とだけ」
「そのままでございます」
執事は言った。
「そのままか」
コツコツと革靴の音をさせ、パトリツィオは寝台から離れた。
窓際に行き、閉めっ放しのカーテンを少しだけ開ける。
「街は相変わらずだな」
そう言った。
「十五年くらいなら、さほど変わりはしないでしょう」
「この屋敷の書斎の本は、ほんの少し変わっていた」
「そうでしたか」
執事は言った。
暫く記憶を辿るように目線を横に流した。
「いつだったか、ポンタッシェーヴェのガエターノ様が、何冊か借りたいと仰って持ち帰られましたが」
「ほう」
パトリツィオはそう言い、口の端を上げた。
「あれは、確か娘がいたな」
「クラリーチェ様ですね。お会いしたことは」
「生まれたのは、私が死ぬ一年ほど前だったか。直接会ったことはない」
「そうでしたか」
執事は言った。
「どんな娘だ」
「明るくて可愛らしい方ですが、ガエターノ様が輿入れの話を一切したがらないのが、少々親戚内で問題になっておりまして」
パトリツィオは、無言で窓の外を見ていた。
「ガエターノの奥方は」
「だいぶ以前に亡くなられております」
パトリツィオは、カーテンを閉めた。
隙間から射し込んでいた昼間の陽光は、再び遮られて部屋は薄暗くなった。
「カーテンを閉めていたのは、父の居場所を知られるのを警戒してか?」
「ええ。まあ、さほど意味はなかったかもしれませんが」
「警戒を解いて良いか判断がまだ付かんのだが、取りあえず食事して休め」
パトリツィオは言った。
「ええ……」
執事は厨房の方向を見ると、苦笑した。
「ずっとここに籠っておりましたからな。旦那様が持ち込ませていた葡萄酒と果物を食事代わりに拝借して」
「厨房は、あの薔薇があった。暫く行かない方がいい」
「どういう訳で」
「一輪だけくすねて、厨房係の誰かに贈った者がいたのだろうと。推測だが」
執事は俯き手を組んだ。
「まあ……気持ちは分かりますが。けしからんですが」
長い溜め息を吐いた。
「今回犠牲になった者たちの中には、そんな者もいたんでしょうなあ」
「ランベルトと同じことを言うな」
パトリツィオは言った。
「それで、ランベルト様は今どちらに」
「フランチェスカの所だ」
執事は顔を上げた。
「何というか……よく行かれましたな」
「成り行きだ」
コツコツと靴音をさせ、パトリツィオは扉の方に向かった。
「ランベルトに言っておけ。人の元許嫁を頼りにするくらいなら、逢い引きの相手くらい作っておけと」
「それをお伝えしたら、あなた様の素性がランベルト様にばれますが」
チッとパトリツィオは舌打ちした。
「ランベルト様は、この後は」
「ポンタッシェーヴェに行くことになるのかな。今のところは、あれが能力を持っているという見立てが正しいのを祈るしかない」
パトリツィオは言った。
「しかし相変わらず押しの弱い奴だ。子供の頃のあのまま育てたのか」
「あなた様に比べたら、大抵の人間が押しが弱いことになるのでは」
執事は言った。
パトリツィオは僅かに眉を寄せた。
「ああ、それで」
手袋を直しながらパトリツィオは言った。
「ポンタッシェーヴェのガエターノだが」
執事は、パトリツィオの顔をじっと見た。
生まれた時からパトリツィオを見てきたこの執事は、僅かな口調の変化の意味を読み取ったようだった。
「それは、どちらのお方で」
「そう。あれのことは、事が解決するまで忘れた方がいい」