Bacio da capro espiatorio. 身代わりの接吻
アノニモは一転して真面目な口調になった。
「ここにいてください」
穏やかだが、有無を言わせぬ口調。
「私がいいと言うまで、絶対にここから出ない。声も上げない」
アノニモは口の前に人差し指を立てた。
ずいぶんと懐かしい動作だとランベルトは思った。子供のころによく見たなと思い出す。
「約束できますね」
そう言い、アノニモはきびすを返した。
こちらに背を向けた格好で仮面を外し、歩を進めながら仮面を前ポケットに入れる。
通り抜けて来た鏡の出入口を潜り礼拝所側に出ると、女たちは一斉にアノニモを見た。
「まあ、ランベルト君」
マリーツィアが艶めいた声を上げる。
え、と声を上げそうになり、ランベルトはとっさに口を抑えた。
アノニモは向こうを向いたままだ。表情は分からない。
マリーツィアはゆっくりとアノニモに近づいた。
「どちらにいらっしゃいましたの？」
他の女たちも媚びた笑みを浮かべアノニモに近づいた。
「戻ってくださって嬉しいですわ」
マリーツィアはアノニモの頬を両手で捕らえ接吻した。
アノニモの両肩に手をかけ、背中に手を回す。
他の女たちが手を伸ばし、将校服の留め金を一つずつ外そうとした。
ずいぶんと長い間接吻しているようだった。
マリーツィアが顔を斜めにかたむけ、すぐに逆の方にかたむける。
激しく深い接吻だと分かった。
「何かおっしゃって。ランベルト君」
アノニモの首に両手を絡め、マリーツィアはささやいた。
「わたくしをどう思いまして？」
「人肉の味のする舌を絡められてもちょっと」
アノニモがそう答える。
マリーツィアの手が、あからさまに揺れた。
ゆっくりとアノニモから身体を離す。
他の女たちも動作を止めアノニモの顔を凝視した。
気を悪くしたというよりも、警戒している表情に見える。
「なぜあなたは誑かせないのでしょう。お父上はこんなに簡単でしたのに」
マリーツィアはそう言い、倒れてい父を指差した。
赤黒い炎が燃え立つような、どことなく禍々しい気配を感じた。
女たちの姿が、全く変わってはいないのに、どこか異形のものにランベルトの目には見えた。
礼拝所の景色が、薄い陽炎でゆらゆらと歪むような感じを覚えた。
「それは簡単でしょうね」
アノニモは言った。
「そちらは、遠縁から本筋に婿入りした方ですから。コンティの血は薄い」
「では、本家の濃い血をお引きになっているランベルト君」
マリーツィアは、手を下の方に振った。
どこから取り出したのか、斧のような物を手にしていた。
ゴリッと音を立て、刃の部分で床を引きずる。
「死んでくださいませ！」
頭上に大きく振り上げ、マリーツィアは笑い顔で斧を一気に振り下ろした。
アノニモが身体を後ろに反らし避ける。
殺す気か。
そう叫びそうになり、ランベルトはとっさに両手で口を抑えた。
あの女たちは、アノニモと自分を間違えているはずでは。
ランベルトは激しい寒気を覚えた。
他の女たちも同様の斧を持ち、ゆっくりと振り上げる。
「やはり、コンティの血は一滴残らず枯らすべきですわ」
マリーツィアの赤黒い瞳が憎々しげにアノニモを睨みつける。
アノニモが、こちらに背を向けたまま自身のかたわらを見た。
礼拝所の空気が赤く染まり、ぐらりと揺れたように見える。
アノニモと女たちを囲むようにして、大勢の男女が現れた。
大柄な者から小柄な者まで、姿形も服装も様々であったが、揃って頭を垂れ片膝をついている。
女たちがきつく顔を歪め、取り囲んだ男女を見回した。
「おのれコンティ！ おぞましい！」
マリーツィアが非難するように叫んだ。
アノニモは落ち着き払って乱された襟元を直すと、やがて声を上げた。
「良いな、お前たち」
戦場の将のように堂々とした声だった。
男女が一斉にうなずいた。
「今こそコンティの血に対する忠義を示せ」
男女は、そろった仕草で立ち上がった。
「この女悪魔どもを引き裂け！」
アノニモは命じた。
男女の姿は一斉に歪み、奇怪な形に伸びて黒い触手のような影になると、女たちに向かって襲いかかった。
激しい金切り声が上がる。
女たちの吠えるような叫び声が、祭壇に響いた。
「コンティ！ 糞食らえ滅びろ！」
マリーツィアは絶叫した。
淫らなドレスがちぎられ花弁のように祭壇に降る。
肉感的な女の身体はどこにもなく、大きな食虫花が不気味に開いて一瞬にして枯れた。
黒い影がうねり食虫花に絡んで呑みこむ。
やがて祭壇は、大勢の顔を持つ黒い雲に覆われた。
