Lo specchio è pieno di rose. 鏡の中は薔薇で埋まり II
ダニエラは扇をすっと上げると、アノニモの鼻先を指した。
「仮面を取ってごらん」
鋭く貫くような声で言った。
「ランベルトとそっくりの顔をしているはずだ」
仮面の下の表情を読もうとするかのように、ダニエラは赤黒い目で見据えた。
血色の唇には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
アノニモは、見下す態度でダニエラを見ていた。
暫くしてから顔を僅かに下に向けると、片手で白い仮面を外した。
晒された素顔を見て、ダニエラが目を見開いた。
「ほう……」
そう声を上げる。
「何とまあ、瓜二つではないか。違うのは瞳の色だけか」
アノニモことパトリツィオ・コンティは何も答えず、仮面を前ポケットに入れた。
「なぜ自身の正体をランベルトに明かさん」
扇を持ったまま、ダニエラは軽く腕を組んだ。
「さあ……」
パトリツィオは言った。
「答えよ」
眉を寄せ、命令口調でダニエラは言った。
「何を勘違いなさっているのか」
パトリツィオは喉を鳴らし笑った。
「ここは貴殿らの世界ではない。貴殿など、こちらではただの追われた種族の者の一人にすぎない」
コツ、と革靴の音をさせ、パトリツィオは半歩ほど前に踏み出した。
「ましてや、今我々が立っているここは、冥界の一部だ」
パトリツィオは片眉を上げた。
「ここで女王などと言っても通用しないのですよ、ダニエラ嬢」
「おだまり」
ダニエラは言った。
「死んだ兄の方が、悪魔使いであったとは」
ダニエラは忌々しげに目を眇め、パトリツィオを見た。
「まさか死者が口出しして来るとはな」
嘲るように、紅い唇の端を上げた。
「冥界を管理する王は、将校服の貴族の青年がお好みと聞いたことがあるが」
ククッと嗤い、ダニエラはドレスのレースの袖を揺らした。
「この世に戻る許可は色仕掛けで得たのか?」
「女王の癖に男色の噂話が好きとは。巷の街娘のようだな」
蔑むような口調でパトリツィオは言った。
ダニエラは一瞬だけ鋭く睨み付けた。黒い扇を片手で開き、口元を隠した。
「生前から自身の能力を知っていたのか」
「ノーコメント」
パトリツィオは肩を竦めた。
「ランベルトの能力については、お前は知っているのか」
「それもコメントは有りませんな」
パトリツィオは戯けたように首を傾けた。
「弟の婚姻の相手に、打ち解けて話す気は無いと」
「その婚姻で、何を企んでいるのかは聞きたいですな」
パトリツィオは言った。
「魔力で当主の気を触れさせて、跡継ぎ息子との婚姻話を強引に承諾させ、何がしたい」
「決まっている。見初めたからだ」
「それは嘘だ。確信した」
ダニエラを鋭く睨みパトリツィオは言った。
「何が嘘だ。人生の終わった死者に、生ける者の本能に基づいた感情など、もう分からんだろう」
「そんな御大層なことを考えなくても分かる。先程からランベルトの名の呼び方が、粗雑になっていることに気付いていないのか」
パトリツィオは言った。
ダニエラは目を眇め、閉じた扇の先で唇を軽く叩いた。
「これは」
フッと鼻を鳴らす。
「わたくしとしたことが」
しかしすぐに紅い唇をニッと上げた。
「ですが、想いは本当ですのよ」
「白々しい」
パトリツィオは言った。
「お前なぞよりは、ランベルトはよほど可愛いわ」
鋭い声でダニエラは言った。
「顔がそっくりでも、中身は随分違うものだな」
ダニエラは、扇の端をもう片方の手に乗せた。
「お人好しで扱いやすい弟と、ひねくれ者で勘のいい兄か」
「あれが、お人好しで勘が鈍くて、扱いやすいのは否定しないが」
パトリツィオは言った。
「どんなに愚図で胃腸の弱い者でも、大事な次期当主なので」
「護るために、わざわざ冥界から出向いたという訳か」
「左様」
パトリツィオは頷いた。
パシッとダニエラは、扇を片方の手の平に打ち付けた。
蔑するように目を細めパトリツィオを凝視した。
「お前、邪魔だね」
「当然。貴殿らの邪魔をしているのだ」
嘲るような笑みを浮かべ、パトリツィオは言った。
どんよりとした、音を吸い込むかのような空気が周囲を包み始めた。
先ほど現れて消えた薔薇の残り香だろうか。甘い香りが漂い、ややしてからスパイスの効いた香水のような香りに変化した。
微動だにせずダニエラの後ろに控えていた侍女の顔や手が、人形のような造りものの肌に変じていることにパトリツィオは気付いた。
「パトリツィオ・コンティ」
ダニエラは黒い扇で口元を隠した。
どろっとした音の響きにくそうな空気が漂っているのに、ダニエラの声だけが大ホールの中に反響する。
「お前から消滅させる必要があるね」
大ホールに数ヵ所ある大きな金縁の扉が、一斉にバタンと開いた。
窓のガラスと一角に設置された鏡には、人形のような作り物の肌をした侍女たちが、膝を付きずらりと映り込んだ。
再び大量の黄色い薔薇が扉と窓と鏡から一斉になだれ込み、その薔薇は、密陀僧色のドレスを身に付けた侍女の姿に変化した。
突風に吹かれた花弁のように空中に舞い上がると、一挙にパトリツィオに向けて襲いかかった。
「冥王とやらの元に、お前の霊体の残骸を送り込んでやるわ!」
ダニエラは、攻撃の指揮を取るように閉じた扇でパトリツィオを指した。
黒い絹糸のような髪を靡かせ、赤黒い目は爛々と殺戮に燃えていた。
「同族殺しは、このわたしが許す! 悪魔使いに誑かされた同族は裏切り者だ。全て殺せ!」
「迎え撃て!」
叫ぶと同時に、パトリツィオの背後に、大柄な者から小柄な者まで様々な姿をした悪魔が出現した。
大ホールの一角を埋め尽くすように暗い赤色の一塊になり、犇めいて興奮した息を吐いた。
数人の悪魔が前に進み出ると、白い刃物のような形の空気の層が出現し、襲いかかる侍女たちを切り裂いた。
バラバラになった侍女の残骸が、大理石の床に落ちる。
すぐに人形の顔を上げ、カクカクとぎこちない動きで立ち上がった。
「行け!」
ダニエラは黒い扇でパトリツィオを指し、構わず侍女たちに攻撃を命じた。
次々と鏡から黄色い薔薇が湧き、侍女の姿に変化して襲いかかる。
「前列、あの人形どもを殲滅しろ。最後列、前へ!」
パトリツィオは片手を上げ指揮をした。
一列に並んだ悪魔が前に進み出た。
「他は構うな。あの女王ひとりを狙え!」
進み出た悪魔が一斉に吠えるような表情で口を開け、獣のように鼻と眉間に皺を寄せた。
ダニエラの持った黒い扇を、見えない刃物が切り裂いた。
顔にも衝撃を感じたのか、ダニエラは片手で美しい顔を庇った。
長い黒髪が左右に広がり靡く。
弾き飛ばされた扇が、黒い蝶のように大ホールを舞った。
ダニエラは片手でドレスをからげ、跳ねるように後退った。
「悪魔使いを狙え! 奴が消滅すれば、使役されている同族は動けん!」
ダニエラは、高く響き渡る声で侍女たちに命じた。
天井の絵画を覆うほどの高度に舞ったダニエラの侍女たちが、密陀僧色の弾丸のように一斉にパトリツィオめがけて襲い掛かった。
「防御しろ!」
パトリツィオは微動だにせず腰に手を当て、周囲の悪魔に命じた。
周りに控えた悪魔が、ぐにゃりと姿を歪ませて一本の触手のような形になり、空中から襲い掛かる侍女たちを呑み込んだ。
素焼きを、念入りに破壊するような音がする。
ややして人形の身体の残骸が床一面に散らばった。
「掛かった! やれ!」
深紅の唇を上げ、ダニエラは黒いレースの手袋を付けた手をパトリツィオに向けた。
パトリツィオの足元から、密陀僧色の袖をまとった長い腕が伸びた。
刃物のように鋭く尖ると、凄まじい速さでパトリツィオの顔を横一線に切り裂く。
パトリツィオの姿はぶれるように歪み、顔の上半分が分離してゆるりと空中に飛んだ。