Cavallo scontroso. 気難しい馬
重厚な玄関扉を開け外に出ると、庭は正門の松明の灯りすらなかった。
月明かりがあるとはいえ、踏み出すには頼りない暗さだ。
ランベルトは外套の合わせを押さえ立ち竦んだ。
アノニモが、使役する悪魔に向かい顎をしゃくる。
悪魔は手の上に新たな松明を灯し、庭の通路を先に進んだ。
「まず馬屋だ。そこを左」
ランベルトの背ろから、アノニモは悪魔に指示した。
馬屋の場所も知っているのか。
ランベルトは背後のアノニモをちらりと見た。
真っ暗な馬屋に着くと、ランベルトは松明の灯りを頼りに、乗り慣れた馬の繋ぎ紐を探った。
馬屋には番をする者すらいなかった。
アノニモの言う通り、外にいた使用人は、馬丁を始めとして無事に逃げたと思われた。
足元に敷かれた藁は、さほど乱れてはいない。
ピッチフォークが何本か落ちていたが、武器として持ち出そうとしたのだろうか。
いずれにしろ馬屋内に、死体はなかった。
手元の薄暗い中、普段乗っている馬に鞍を付ける。
繋ぎ紐を外し、他の馬の方に目を向けた。
「外しておいた方がいいかな」
「そうですね。門の外までは、まあ行かないでしょうし」
アノニモは周囲を見回した。
何日後に戻れるか分からない。
庭の草を食べて凌いでくれればと思った。
他の馬の繋ぎ紐を外すと、アノニモが馬屋の奥に行き手伝い始めた。
入り口側と奥側から、それぞれ順番に繋ぎ紐を外す。
奥にいた馬のうちの一頭が、アノニモが紐を外している間、やたらと懐いて擦り寄っていた。
「へえ……」
ランベルトは首を伸ばしそちらを見た。
「それは、亡くなった兄がよく乗っていた馬だ」
ランベルトは言った。
「年を取って気難しいので、あまり知らない者には寄って行かないのだが」
アノニモは、黙って紐を外していた。
背伸びする姿勢で馬屋を見回し、全ての馬を解き放ち終えたと確認すると、ランベルトは鞍を付けた馬を引き馬屋を出た。
「取りあえず屋敷を出るのか?」
馬を引きながら尋ねる。
「その方が安全でしょう」
「それでどこに」
「真っ直ぐポンタッシェーヴェが早いんでしょうが、今日のところはまず宿にでも」
正門に門番はいなかった。門を手ずから開け閉めする必要があった。
鐙に足を掛け連れ出した馬に乗る。
小さく掛け声をかけ、アノニモが後ろに乗って来た。
「……ちょっと待て。乗るのか」
振り向きランベルトは言った。
「別に重さは無いのですから、良いでしょう」
「無いのか」
ランベルトは言った。
その割に、乗るとき身体の重さが感じられるような掛け声をかけていたのは、単なる生前の癖か。
「……まあ、いいが」
ランベルトは一度屋敷を振り返り、おもむろに馬を進ませた。
「しかし宿屋か。この辺は……」
酒場の多い広い通りを、ランベルトはゆっくりと馬で通過した。
蹄が石畳を叩く音が響く。
後ろを振り向いた。死体の追っ手が来ているという訳ではなさそうだ。
外出禁止令の出ている時間帯なので、どの店も既に閉まっていた。
時折、建物の壁に寄りかかり座る人影を見かける。路上生活者か酔っ払いと思われた。
月が出ているとはいえ足下は暗い。
前を先導する悪魔の、松明の灯りを頼りに馬を進ませていた。
二階が宿屋になっているであろう酒場は、通りにいくつかあった。
主を起こして宿泊を申し出れば良いのだろうが、どこもあまり品の良い宿とはいえなかった。
どの店にしたものかと、ランベルトは道の両側の看板を見回した。
「女性なら、出産が近いと言って養育院に身を寄せることも出来ますのにねえ」
後ろに乗ったアノニモが言った。
「……冗談なのか、それは」
「少々柄の悪い所でも、一晩中お守り致しますよ」
アノニモは言った。
ああ、とランベルトは返事をした。
こういった所に泊まったことは、流石にない。
身形が違うことは隠しようもないので、たぶん泊まる際には、護衛をお願いすることになるだろう。
宿屋の看板を一枚ずつ見る。
松明の灯りが届いてから見るので、かなり見辛い。
「この辺りに親戚が居れば良かったのですが」
背後でアノニモが言った。
親戚の居住地まで知っているのか。
もはや素性に対して突っ込むのも疲れてきて、ランベルトは無言で聞き流した。
不意に、がくんと身体が前に揺れた。
「おっと」
アノニモが後ろから抱き起こすようにして身体を支える。
「すまん。眠気が」
「安心したんですかね」
アノニモは言った。
空腹も一気に襲って来た気がする。
「早めに宿を決めた方が」
「……先程から、どうしようかと思っていたんだが」
ランベルトは言った。
「いちおう知り合いといえる人は、近くに居るには居るんだが」
「それを早く言いなさい」
子供を叱咤するような口調でアノニモは言った。
「この際、その方に甘えさせていただきましょう」
「迷惑ではないかな」
ランベルトは軽く眉を寄せた。
「馬上でふらついているような状態で、何を言っているんです」
アノニモは手を伸ばし、手綱を握った。
いざというときは代わりに操るつもりか。
そんなに今にも倒れそうに見えているのだろうかと思った。
「あからさまに迷惑そうな顔でもする御仁で?」
「いや。とても優しい人だ」
ランベルトは言った。
「困ったときには、いつでも言ってくれと以前言われていた」
「では、その方の所に案内を」
先導する悪魔をアノニモは呼び止めた。
「この道をどちらの方に」