Una singola rosa. 一輪の薔薇 I
暗い廊下をしばらく歩き、厨房の質素な扉を開けた。
途端に濃い腐臭が鼻孔と口から入り込み、ランベルトは鼻を手で覆った。
「食材の腐った匂いですかね」
アノニモが真っ暗な厨房を手燭で照らす。
蝋燭の小さな灯りだけでは厨房全体を照らすことは出来ず、身を乗り出して暫く左右に腕を伸ばしていた。
「よく知らんが、食材だけでこんな匂いがするのか?」
ランベルトは両手で口と鼻を覆った。
「何とも。腐った食材というものを見たことがないので」
アノニモは言った。
ランベルトも同様だった。
揃って食材に触れたことすらない者だけでは、この場はどうにも頼りなさすぎる。
「ジャムのような匂いがしないか……」
「匂いは分からないので、詳細にご説明いただけますか」
アノニモは言った。
「分からないものなのか」
「生きているとき程ではないですね」
ランベルトは暫く黙り込み、感じた匂いと記憶を照らし合わせた。
「杏のジャムに似ているかな……」
「ほう、杏のジャム」
アノニモは言った。
「甘酸っぱい匂いですねえ」
ハッとランベルトは将校服の肩を見た。
濃厚な腐臭と甘酸っぱい匂いは、先ほど何度も嗅いだばかりではないか。
「死体……」
「死体があるかもしれないし、杏のジャムがあるのかもしれません」
アノニモは腕を伸ばし、厨房の中を更に照らした。
「杏ジャムなら、空の胃袋にいきなり入れるものとしては丁度いい。持って行きましょう」
「ちょっと待て。杏ジャムまで食べられなくなりそうだ……」
ランベルトは口を抑えた。
「いちいちそんなことを言っていたら、食べられるものが無くなりませんか?」
アノニモは使役する悪魔に向かって、顎をしゃくった。
悪魔はのっそりと動くと、手の上に松明を灯したまま、真っ暗な厨房に入って行った。
がっしりとした脚が厨房内を進むごとに、床に柔らかそうな物体があるのが薄く見える。
嫌な予感を覚えながら、ランベルトはその様子を見ていた。
悪魔は奥の方にある炉辺にたどり着くと、焼べてある薪に火を点けた。
渦を巻くように火が燃え上がり、厨房内が橙色に照らされる。
「ランベルト」
アノニモがこちらを振り向いた。ランベルトの腕を引き横を向かせる。
「何だ」
「ちょっと心の準備が必要かなと」
アノニモは言った。
その言葉で、ある程度の状況の見当がついた。
「いや……見る義務はある」
「どれが本物の腸詰めか分からなくなっても知りませんよ」
「なぜそういう……」
ランベルトは屈んで口を抑えた。
「誰か、ここにあの薔薇を飾っていたようですね」
アノニモは言った。
「え……」
ランベルトは顔を上げ、仮面の顔を見た。
そのまま厨房の中央に目線を移す。
橙色の揺れる灯りの中、厨房の惨状が目に入った。
うっと呻き、ランベルトは再び口を抑えた。
「ほら見なさい」
アノニモは言った。
奥にある炉辺。
その手前にある大きな調理作業台。
両側の壁に沿うように置いてある食器棚と食材の棚。
上方の梁にぶら下げている、いくつかの乾物と、食材棚からだらしなく崩れ落ちた腸詰めや野菜。
作業台の上に塗された小麦粉と、床に落ちたパンこね台。
床で割れ散乱しているいくつもの卵と、零れ乾いた料理酒。
それらに隙間なく紛れるようにして、人の身体と血液が、床だけではなく梁や作業台の上にまで横たわり、ぶら下がっている。
「うっ……」
ランベルトは身を屈め、俯いた。
思わず胸元で小さく十字を切った。
「もう吐くものも無いでしょうに」
アノニモが背中を擦ってきた。
「……薔薇とは?」
ランベルトは言った。
ああ、という風にアノニモは口を動かし、厨房の一角を指差した。
私室に飾られていたものと同じ、鮮やかな黄色い薔薇が一輪だけ水差しに挿してあった。
「なぜ一輪だけ」
「私もいろいろ考えたのですが」
アノニモは、人差し指を立てた。
「食材として使うつもりだった」
口を抑えたまま、ランベルトは顔を顰めた。
アノニモは指を二本にした。
「星を見上げるパイを、薔薇を見るパイにしようとした」
指を三本にする。
「誰かが厨房係の女中と好い仲で、こっそりくすねてプレゼントした」
ランベルトは、三本指を立てた手袋の手を見た。
「それが一番ありそうだが」
「いかんですねえ。仕える家の人間に贈られた物をくすねるなど」
アノニモは肩を竦めた。
「まあ……花くらいは。あれだけあったし」
「先ほど襲ってきた死体が、プレゼントした者ですかね」
ランベルトは廊下の方を振り向いた。
確かに男性と思われる死体だった。
床に隙間なく横たわった死体を見回す。
「……相手は、どの者だ」
身体が酷く破損している者もいるが、女性の服を身に付けた者を目で探す。
「知ってどうします」
「せめてふたりで墓に」
「男の方は、先ほど骨も残さず焼きつくしましたが?」
ランベルトは、暫く沈黙した。
「……そうだった」
「そうでなかったとしても、私が言ったのはただの推論ですよ。全く違うかもしれないし、好い仲だったとしても、一緒になろうとまでは思っていなかったかもしれない」
アノニモは息を吐いた。
「逢い引きの相手もいらっしゃらない方には、分かりにくいかもしれませんが」
「……何でここでそういう話が」




