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コシュマール ~薔薇の心臓~  作者: 路明(ロア)
Episodio otto 林檎はどうすればパイになる
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Una singola rosa. 一輪の薔薇 I

 暗い廊下をしばらく歩き、厨房の質素な扉を開けた。

 途端に濃い腐臭が鼻孔と口から入り込み、ランベルトは鼻を手で覆った。

「食材の腐った匂いですかね」

 アノニモが真っ暗な厨房を手燭で照らす。

 蝋燭(ろうそく)の小さな灯りだけでは厨房全体を照らすことは出来ず、身を乗り出して暫く左右に腕を伸ばしていた。

「よく知らんが、食材だけでこんな匂いがするのか?」

 ランベルトは両手で口と鼻を覆った。

「何とも。腐った食材というものを見たことがないので」

 アノニモは言った。

 ランベルトも同様だった。

 揃って食材に触れたことすらない者だけでは、この場はどうにも頼りなさすぎる。

「ジャムのような匂いがしないか……」

「匂いは分からないので、詳細にご説明いただけますか」

 アノニモは言った。

「分からないものなのか」

「生きているとき程ではないですね」

 ランベルトは暫く黙り込み、感じた匂いと記憶を照らし合わせた。

(あんず)のジャムに似ているかな……」

「ほう、杏のジャム」

 アノニモは言った。

「甘酸っぱい匂いですねえ」

 ハッとランベルトは将校服の肩を見た。

 濃厚な腐臭と甘酸っぱい匂いは、先ほど何度も嗅いだばかりではないか。

「死体……」

「死体があるかもしれないし、杏のジャムがあるのかもしれません」

 アノニモは腕を伸ばし、厨房の中を更に照らした。

「杏ジャムなら、空の胃袋にいきなり入れるものとしては丁度いい。持って行きましょう」

「ちょっと待て。杏ジャムまで食べられなくなりそうだ……」

 ランベルトは口を抑えた。

「いちいちそんなことを言っていたら、食べられるものが無くなりませんか?」

 アノニモは使役する悪魔に向かって、(あご)をしゃくった。

 悪魔はのっそりと動くと、手の上に松明を灯したまま、真っ暗な厨房に入って行った。

 がっしりとした脚が厨房内を進むごとに、床に柔らかそうな物体があるのが薄く見える。

 嫌な予感を覚えながら、ランベルトはその様子を見ていた。

 悪魔は奥の方にある炉辺にたどり着くと、()べてある薪に火を点けた。

 渦を巻くように火が燃え上がり、厨房内が橙色に照らされる。

「ランベルト」

 アノニモがこちらを振り向いた。ランベルトの腕を引き横を向かせる。

「何だ」

「ちょっと心の準備が必要かなと」

 アノニモは言った。

 その言葉で、ある程度の状況の見当がついた。

「いや……見る義務はある」

「どれが本物の腸詰め(サルシッチャ)か分からなくなっても知りませんよ」

「なぜそういう……」

 ランベルトは屈んで口を抑えた。

「誰か、ここにあの薔薇を飾っていたようですね」

 アノニモは言った。

「え……」

 ランベルトは顔を上げ、仮面の顔を見た。

 そのまま厨房の中央に目線を移す。

 橙色の揺れる灯りの中、厨房の惨状が目に入った。

 うっと呻き、ランベルトは再び口を抑えた。

「ほら見なさい」

 アノニモは言った。

 奥にある炉辺。

 その手前にある大きな調理作業台。

 両側の壁に沿うように置いてある食器棚と食材の棚。

 上方の梁にぶら下げている、いくつかの乾物と、食材棚からだらしなく崩れ落ちた腸詰めや野菜。

 作業台の上に(まぶ)された小麦粉と、床に落ちたパンこね台。

 床で割れ散乱しているいくつもの卵と、零れ乾いた料理酒。

 それらに隙間なく紛れるようにして、人の身体と血液が、床だけではなく梁や作業台の上にまで横たわり、ぶら下がっている。

「うっ……」

 ランベルトは身を屈め、俯いた。

 思わず胸元で小さく十字を切った。

「もう吐くものも無いでしょうに」

 アノニモが背中を(さす)ってきた。

「……薔薇とは?」

 ランベルトは言った。

 ああ、という風にアノニモは口を動かし、厨房の一角を指差した。

 私室に飾られていたものと同じ、鮮やかな黄色い薔薇が一輪だけ水差しに挿してあった。

「なぜ一輪だけ」

「私もいろいろ考えたのですが」

 アノニモは、人差し指を立てた。

「食材として使うつもりだった」

 口を抑えたまま、ランベルトは顔を(しか)めた。

 アノニモは指を二本にした。

「星を見上げるパイを、薔薇を見るパイにしようとした」

 指を三本にする。

「誰かが厨房係の女中と好い仲で、こっそりくすねてプレゼントした」

 ランベルトは、三本指を立てた手袋の手を見た。

「それが一番ありそうだが」

「いかんですねえ。仕える家の人間に贈られた物をくすねるなど」

 アノニモは肩を竦めた。

「まあ……花くらいは。あれだけあったし」

「先ほど襲ってきた死体が、プレゼントした者ですかね」

 ランベルトは廊下の方を振り向いた。

 確かに男性と思われる死体だった。

 床に隙間なく横たわった死体を見回す。

「……相手は、どの者だ」

 身体が酷く破損している者もいるが、女性の服を身に付けた者を目で探す。

「知ってどうします」

「せめてふたりで墓に」

「男の方は、先ほど骨も残さず焼きつくしましたが?」

 ランベルトは、暫く沈黙した。

「……そうだった」

「そうでなかったとしても、私が言ったのはただの推論ですよ。全く違うかもしれないし、好い仲だったとしても、一緒になろうとまでは思っていなかったかもしれない」

 アノニモは息を吐いた。

「逢い引きの相手もいらっしゃらない方には、分かりにくいかもしれませんが」

「……何でここでそういう話が」



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