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コシュマール ~薔薇の心臓~  作者: 路明(ロア)
Episodio uno 悪意のいる礼拝所
2/78

Cappella ci sono malizia. 悪意のいる礼拝所 I

 目が覚めると、上等な作りの天蓋(てんがい)が目に入った。自分の私室のものより少し高価そうな気がする。

 父の私室の寝台に寝かされていたのだと気づく。なぜこんな所でとランベルトは記憶をたどった。

 枕が少し年配男くさいなと思いつつ上体を起こす。

 部屋を見回したが誰もいない。

 奥の大きな窓からは薄い陽光が射し込み、昼をやや過ぎたあたりだと見当がついた。

 どこかの窓が開いているのか、父の読書机の上にある羽根ペンがゆらゆらと揺れる。

 しばくして入室してきた執事がこちらを見て駆けよった。

 上体を屈ませ、面長の顔を近づける。

「ご気分は」

「私は何をしていた」

 ランベルトはそう尋ねた。

 まだ少し頭がぼやけている。髪を雑に掻き上げた。

「先程まで旦那様に」

 執事がそう言いかけた辺りで、ようやく全て思い出した。

「……ああ、分かった」

 ランベルトは、もういいという風に手で制した。

 父の私室に押し掛け、抗議していたのだ。

 上の空で曖昧な返事しかしない父に苛立ち、更に言い募ろうとしたところで気が遠くなった。

 渦巻いた黒い雲に捉えられるような感覚がして目眩(めまい)がし、ゆっくりと血の気が引いたかと思うと、意識が失せた。

 そうだったとランベルトは呟いた。

「私の部屋まで運んでくれたら良かったのに」 

 そう言う。

「旦那様もここでよろしいと仰いましたので」

「誰がどこで寝てようが、もう関心など無いのだろう」

 執事は黙っていた。

「それで父上は」

「お出かけになられました」

「またか……」

 ランベルトは顔をしかめた。

「仕方ない。出先で抗議の続きをする。馬を用意してくれ」

 寝具を退けランベルトは寝台から降りた。

「誰かに案内させますが」

「いい。例の礼拝所だろう?」

 ランベルトは緩められていた襟元を整えると、寝台から降りた。




 教区教会は、街の入りくんだ道沿いにあった。

 石畳の敷かれた狭い道路で馬から降りると、ランベルトは入口の鉄輪に馬をつないだ。

 先々代の教皇が建てた教会は、教皇の出身家の紋章が入口に掲げられていた。

 その奥にあるコンティ家専用の礼拝所は、入口に教皇の家の紋章とコンティ家の紋章が縦に並べて掲げられている。

 つかつかと礼拝所に向かうと、ランベルトは扉を開け奥に向かって声を上げた。

「父上!」

 返事はなかった。

 中は暗く、衝立(ついたて)のように目の前に立てられた鏡が中の様子を隠している。

「父上!」

 ランベルトは呼びかけながら奥へと入った。

 中は、礼拝所としては異様な様子に改装されていた。

 両側に隙間なく大きな鏡が貼られ、合わせ鏡の通路を作っている。無数の自身の姿が映っていた。

 くすんだ金髪に、年齢よりも少し幼く見える顔立ち。あまり(たくま)しいとはいえない細身の体型。

 十五年前に死んだ兄もよく似た容姿をしていたのを覚えている。

 しつこく続く合わせ鏡の通路に、ランベルトは吐き気と目眩(めまい)を起こしそうだった。

 決して複雑な通路ではないが、視界のほとんどが合わせ鏡という状態は精神のバランスを崩しそうになる。

「父上!」

 ようやく合わせ鏡の通路を抜ける。祭壇が設えられている場所に出た。

 掲げられていたはずの大きな十字架は取り外され、葡萄酒のグラスが辺り一面に散乱している。

 グラスに紛れるようにして、ランベルトの父は仰向けに倒れていた。

 身に付けた服をだらしなく乱し、長身の身体を床に投げ出している。

「父上!」

 ランベルトは駆けよった。

 かたわらに座り、心の臓を確認する。動いてはいた。

 酔って寝ているだけなのか。ホッと息を吐く。

 床に散乱するグラスを見回した。

 割れているものまである。

 抗議していたのは、父のここ最近の生活ぶりだった。

 生真面目で実直だった父が、一ヵ月ほど前から急に礼拝所を改装し、邪教の真似事に凝りだした。

 魔物のようなものを崇拝してみては女遊びに耽り、執務もせず酒を飲み続けている。

 どういうことかと尋ねても、呂律の回らない口調でずれたことを返す。

 気が済めば屋敷に帰っては来るが、この異様な礼拝所にいる時間は、ここ数日どんどん長くなっていた。

 父が薄目を開ける。

「マリーツィア」

 表情もなく、ぼそりと言う。

「いえ。ランベルトです、父上」

「マリーツィア」

「また新しい女ですか」

 ランベルトは父の顔の横に両手を付き、真上から声を張り上げた。

「いい加減にしてください、父上! いつまで続けるのですか!」

「マリーツィア」

「ランベルトだと言っているでしょう!」

 父は目を閉じた。

 発音の不明瞭な口調で、また何かを呟く。

 抗議など、もう耳には入っていないのだなと思った。

 ランベルトは溜め息を吐き身体を起こす。

 引っぱたいて叩き起こしたいところだが、一族の当主にそうもいくまい。

 家の執務は、ここのところランベルトが執り行っていた。

 跡継ぎとして一通りのことを教わっているとはいえ、執事に手伝ってもらいながらでもまだ効率は悪い。

 残りの仕事の量を考えたら、そう長居する訳にもいくまい。

 雑に髪を掻き上げる。

 もう一度溜め息を吐いた。

 いったん帰宅して、父を運べる者をよこすか。そう考え、手をつき立ち上がろうとした。

 ハイヒールの靴音がする。合わせ鏡の通路を通って来るようだ。

 ややして姿を現したのは、胸元を大きく開けたドレスの女だった。

 少し屈めば、隠すべき箇所まで見えてしまうのではないかという程の(きわ)どい胸元。

 黒い髪を寝乱れたようにだらしなく結い上げ、きつめの顔立ちに濃い化粧を施している。

 いかにも場末の遊び女といった姿に、ランベルトは不快な感覚を覚えた。

 女はランベルトの姿を見ると、クッと厚い唇を上げて笑んだ。ドレスの両端をからげ(ひざ)を折る。

「ランベルト・コンティ(ぎみ)とお見受け致します」

 仕草は丁寧だが、顔を上げこちらを見詰めた目付きに禍々(まがまが)しさを感じた。

「お前が “マリーツィア” か?」

 ランベルトはそう尋ねた。

「左様でございますが」

 マリーツィアはこちらに近づいた。

「上級貴族の若君に、直々に出向かれて怖い顔で睨まれるようなことを、わたくし致しましたでしょうか」

 マリーツィアは口角を上げた。

「父をここまで(たぶら)かしたのは、お前か」

「わたくし一人ではありませんわ」

 マリーツィアは唇に手を当てた。

「始めはインジュスティツィア、次がコルツィオーネ、その次がインモラリタ、そしてわたくし」

「始めが “不正(インジュスティツィア)”、次が “堕落(コルツィオーネ)”、その次が “不道徳(インモラリタ)”、そしてお前が “悪意(マリーツィア)”」

 マリーツィアは、口に手の甲を当てククッと笑ってみせた。

「見事なほどに不快な名前が揃っているな」

「若君さま方のお相手をする高級娼婦と違って、場末の者はそうでもしないと目立てませんから」

 マリーツィアが媚を売るような声色で言う。

 ランベルトは身を屈めて、もう一度父の様子を伺った。

「とりあえず父は今日は引き取らせて貰う。お前ももう帰れ」

「いいえ」

 マリーツィアは父を挟んで向かい側にしゃがんだ。

「遊んで行きませんこと?」

 きつい香水の香りが鼻を突く。

「結構」

 ランベルトはそう答え、「父上」と呼びかけた。

 すっと手を伸ばすと、マリーツィアはランベルトの唇を指先でなぞる。

「やめろ」

「下の方も、こうして触って差し上げましてよ」

「下品な女だな」

 早く帰れと続け、ランベルトは女を睨んだ。

 マリーツィアと目が合う。

 よく見ると、暗い赤色の気味の悪い瞳だと思った。

 戦場の土や遺留品にこびりついた血を連想する。

 こんな瞳の者がいるのか。

 血の色が透けて見える白兎ですら、もっと明るい赤色の瞳をしている。

 人間に、こんな瞳があるのだろうか。


 そう思った途端、頭の中に渦巻く黒い雲が浸食してきたように感じた。


 次々と頭の中に流れ込み、血の気が引き思考がしづらくなる。

 気が遠くなった。

 ぼんやりとした視界に、枯れ木の森に囲まれた寂しい古城と、遺棄された墓地の情景が見える。

 大きな衣擦れの音がこちらに近づいた。

 冷たい手が胸元の留め具を外し、鎖骨の辺りをまさぐる。

 真っ赤な唇が、顔の間近でニッと笑うのが見えた。



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