Fantasma anonimo. 名乗らない幽霊
遠くに見える城。
その周囲に広がる枯れ木の森は、ねっとりとした空気の中、ゆらゆらと揺れていた。
静かなのに、何かが蠢いているような心地の悪さを感じる。
視覚的なイメージがそんな気にさせているのか。
上空には黒い雲が渦を巻いている。ここは、地獄だろうか。
ランベルト・コンティは、暗い空を見上げた。
直前まで、何をしていたのかが分からない。しかし脳は、それを追及するという発想をなぜかしなかった。
こういうものなのだと、ぼんやりと納得している。
周囲には、大人の背丈ほどの十字架が何本も立っていた。
人ひとりがやっと通れる程の隙間を開けて乱立している。
古く、もう誰も手入れする者がいない墓地とみえた。
湿った匂いのする墓土の上をランベルトはゆっくりと歩き出した。
特にどこに行くという目的がある訳ではない。
なぜ歩き出したのかも分からなかった。
横に、従者が並んで歩いているのに気づく。
「不安なお気持ちは分かりますが」
男性的な色気のある声で従者が切り出す。
「相手のご令嬢は大変お美しい方ですし、あちらは輿入れする日を楽しみにしていると」
そうか。突然に湧いた奇妙な結婚話について相談していたのだった。
「そうは言うが……」
ランベルトはゆっくりと口を開いた。
「何か禍々しい雰囲気のある女性ではないか?」
「禍々しいなど」
従者が微笑する。
「女性は魔物だとかいうではないですか」
「そういうことではなく」
ゆっくりと渦巻く黒い雲をランベルトは見上げた。
「あの女性は違うのでは。何かが」
「気にしすぎですよ」
従者が笑う。
「お前はそう言うが……!」
ランベルトは従者の方に顔を向けた。
誰もいない。
いま話していたのは誰だ。
名前は何だったか。
「初めてお目にかかります」
真横から、白い将校服を着た別の男が現れた。
背格好はランベルトと同じくらいか。周囲の薄暗さで目元の辺りがよく見えないが、やや幼顔のような輪郭だ。
ダークブロンドの少し長めの髪を後ろで一つにまとめている。
背後から横に歩みよったように見えたが、それより前にはどこにいたのか。
「呼び出され参りました」
若い声だ。年頃は、ほぼ同じくらいだろうか。
ランベルトは男の顔を眺めた。
「……呼んでいないと思うが」
「三月ほど前に、降霊術をなさったでしょう」
男が答える。
ランベルトは、短い髪を掻き上げた。
あれか……と呟く。
「遊びで。酒を飲みながらやったものだ」
「それでも来てしまったもので」
男が言う。
「せっかく来たのですから、契約をしてくださいませんか」
契約という言葉にランベルトは不審を覚えた。
「お前は悪魔か」
「いいえ」
男が答える。
「降霊術で呼び出されて来るのは、霊のみです。悪魔を呼び出したければ、それなりの召喚の儀式でもどうぞ」
やや人を食った言い方は、癖なのだろうか。
「分かった。契約しよう」
ランベルトは口の端を上げた。
「約束の期日になったら、二本足の者が赤いスカーフをつけてヴェッキオ橋を渡る。渡り始めたら即座にその者の魂を」
「それ知っています。ご自分の代わりに、鶏の魂を悪魔に持って行かせる方法でしょう?」
男が肩を揺らし笑う。
「今時は悪魔も覚えて引っ掛からない」
「やはりお前は悪魔か」
ランベルトは目を眇めた。
「人の霊と言っているでしょう」
「なぜ三月も経ってから来た」
「酒を飲みながら呼んでいるからではないですかね」
男は肩をすくめた。懐から羊皮紙を取り出し、ランベルトの目の前に掲げる。
羊皮紙とはずいぶんと古風だなとランベルトは思った。
持って回った文章で契約内容が記されている。
「結婚相手の抹殺を、私が請け負うという契約でよろしいですか」
契約内容を書いた部分に、小さな火が灯り文字の上を走る。
ランベルトは目を見開いた。
「抹殺は大袈裟だ。せいぜい結婚話の解消……」
そう返してから、話がスムーズ過ぎるのに気づく。
「……なぜそんなことを知っている」
「抹殺する相手、侯爵令嬢ダニエラ・バルロッティ」
令嬢の名を書いた部分に小さな火が走る。
「契約者の名、伯爵家後継者ランベルト・コンティ、フォルリヴェセ子爵」
「なぜ私の名前まで知っている!」
ランベルトは声を上げた。父の持つ爵位のうちの二番目のものをつけた正式な呼び方だ。
誰だ。
「捺印を」
「捺印?」
羊皮紙にコンティ家の薔薇の紋章が浮かび上がり、紋章に沿って小さな火が走る。
「そちらの提供すべき対価は、のちほどご説明致します」
男が一礼する。
目が暗さに慣れて来たのか。男がマスカレードマスクに似た白い仮面を付けているのが分かった。
「お前は何者だ」
「アノニモと」
男がそう答える。
名は無し。
名乗る気は無いということか。
あるいは。
人外の者は、本当の名が弱点である者もいると聞くが、そういう類いのものだろうか。
「困ったら、お呼びください」
アノニモは胸に手を当て、折り目正しく一礼した。