心配性
シトシト、と雨が振り注ぐ。図書室の窓から、夏美は水浸しになった校庭を眺めていた。カラフルな傘を差した学生たちが、泥濘んだ地面に足跡を刻む。弾かれた泥水が、一人の女子生徒のまっさらなスニーカーを汚していた。
皆、まっすぐ正門へと向かっていく。下校時刻を迎えた校内には、帰宅を促す放送が繰り返されていた。
「間もなく施錠します」
図書委員の生徒が、早く帰ってくれ、と言いたげに残っている生徒に声を掛けた。
夏美は、スクールバックを手に取り肩に掛ける。開いていた窓を閉め、出口の方へと向かった。
「夏美」
廊下から一人の女子生徒が顔を覗かせた。
「やっぱり、ここだった」
紗智は、ニッコリと笑って夏美の手を引いた。それに抗うことなく、夏美は廊下に引っ張り出された。
「どうしたの?」
「一緒に帰ろうよ」
夏美の手を握る紗智の白く細い腕には、青いアザが出来ていた。痛々しいそのキズは、部活で作ったものらしい。バレーボールではよくあること、怪我でしばらく離れていたから頑張ってる証拠だ、と彼女は笑っていた。
「いいよ。待っててくれたの?」
「ちょっとだけね」
そう言って、紗智は傘立てから夏美の傘を引き抜いた。黄色い水玉柄の傘は、高校に入学してずっと使っているものだ。
廊下側の窓が、ピカっ、と光る。数秒遅れて、ドドドン、と遠くから雷鳴が聞こえてきた。
「なんだか雨、強くなってきそうだね」
紗智が心配そうに、黒ずみだした空を眺めた。楕円形のメガネの奥に、小さな双眸が見える。パチリ、と瞬きするたびに、綺麗な瞳がまつげに隠された。
不安そうに、長いおさげが揺れる。細い顎の線が色っぽく丸みを帯びている。綺麗だ。夏美がじっと見とれていると、恥ずかしそうに、紗智がこちらを向いた。
「どうしたの?」
白い肌が、ぼんやり赤らむ。チカチカ、と辺りの景色を揺らす蛍光灯は、今にも消えてしまいそうだった。
「コンタクトにすればいいのに」
「流行り物、嫌いだったんじゃないの?」
余計なお世話だ。そう言われた気がした。それでも、夏美は食い下がるつもりはない。
「そうだけど、せっかく可愛いのに勿体無いよ」
そんなことないよ。そう言って、紗智は手に持った水玉の傘を夏美に手渡した。
「絶対可愛いのになぁ」
メガネを掛けている彼女に魅力がないわけではない。目の肥えた男子の中には、実は彼女の容姿が良いことに気づいているものもいるらしい。ただ度の強い眼鏡が、彼女の魅力を阻害しているのは事実に思えた。
「私のことはいいから。ほら、明日デートでしょ」
手渡された傘を夏美が受け取る。踵を返した紗智が、階段の方に足を進めだした。リノリウムの床に、上履きの音が響く。コツコツ、と傘の先が床を弾いた。
「どうして知ってるの?」
「さて、どうしてでしょ?」
首だけをこちらに向けて、小さな口がわずかに緩む。首元に垂れたおさげが、イタズラに揺れた。
夏美は、ムスッ、とした表情を浮かべて紗智を追いかける。なんとなくうまくない。
「直樹でしょ? 直樹と私しか知らないんだもん」
どうだろうね。手を後ろで組み、紗智は天井を眺める。歩幅が、わざとらしく大きくなった。
直樹と紗智は、同じ予備校に通っている。互いに同じ大学を受けるとあってか、それなりに馬が合うらしい。
「別に、夏美から直樹くんを取ったりしないよ」
キュッ、と紗智は床に上履きを擦らせる。鼓膜の奥に、甲高い音が響いた。軽い足取りで階段を下っていく。薄暗い階段の踊り場の壁面に貼られたポスターが剥がれかかっていた。
「心配しなくても大丈夫だよ。直樹くんは不純なことはしないよ」
そんなことは分かっている。分かっているのだが。夏美は、トボトボ、と階段を降りていく。力の抜けた手に掛かった傘の先が、階段の段差に引っかかる。
「夏美は心配性だね」
「初めて言われた」
「本当に?」
心配。自分の心の中にある感情がそれにあたるのか、照らし合わせてみるがどうも違う気がした。
「気にしてるんでしょ? 直樹くんの家のこと」
踊り場に稲光が走る。わずかに近づいて来ているそれに、二人は足取りを早める。
「気にしてる‥‥ そうなのかな」
気にしすぎてしまう癖。心配性というものを、広義に捉えればそうなのかもしれないと思った。
初めて行った直樹の家は、夏美が今まで見てきた中で最も豪華な建物なものだった。父親が、いくつかの会社を経営しているらしい。そんな家柄の彼が、自分のような人間と付き合っていいものだろうか、と夏美は思う。
直樹の父と母に初めて挨拶した時、とてもよく接してくれた。だが、直樹がうちに来たらどうだろう。木造の何ら普通の家なのだ。幻滅される。そんなことが妙に、恐ろしかった。
「関係ないよ」
紗智が、踵を返す。こちらを向いて、小さくなった双眸を細める。一階の渡り廊下の向こうの格技室では、剣道部が部活の後片付けをしていた。
「直樹くんにとって、私と夏美じゃ価値が違うよ」
「紗智は可愛いよ」
「ありがとうね。夏美も可愛いと思うよ。それに、私はただの野花だから」
「私もそうでしょ?」
「うん。でも彼にとって特別な野花」
雷雲に連れられた風が、狭い廊下を吹き抜ける。紗智の紺色のスカートが大きく靡いた。夏美の切り揃えられた前髪が、ぐちゃぐちゃにかき乱される。ふっ、と紗智が声を漏らした。それにつられて夏美もクスクスと笑い出す。
「残りの休みも学校にいるんでしょ?」
生理的に出た涙を、紗智が指の腹で拭う。
「うん」
「私ももうすぐ引退だから、たまには一緒に勉強しようかな」
雨脚の強まった校庭に、二人は足跡を刻んだ。