デート
荒川の河川敷に黄色いひまわりが揺れている。高く背伸びをしているような花たちは、オレンジ色に染まった空をじっと見つめていた。薄っすらとした灰色の雲が空の端に伸び、ひんやりとした風が夏美の頬を叩いた。隣で自転車を押す直樹の腕に、小さな虫が止まる。夏美がそれを払うと、直樹はケラケラと笑った。
「刺されるわけじゃないのに」
「わざわざ、付けている必要もないでしょ?」
そうかもしれない、と直樹は笑みをこぼす。パタパタと音を立てて、プロペラ機が上空を通り過ぎて行った。
東の空からじんわりと夜が迫っている。
群れを成した水鳥が、夜闇から逃げるように飛びたった。水面に反射する太陽の陽が、キラキラと宝石のように川の流れに合わせて揺れる。対岸にそびえる大きな煙突が、モクモクと煙を立てていた。汚れていく空気に、夏美は思わず息を止める。
「次の日曜日、予備校が休みなんだ」
はっ、と夏美は息を吐く。生ぬるい自分の吐息が、胸元の赤いリボンを揺らした。肩から掛けたスクールバックが、肩の動きに合わせて大袈裟に揺れる。
「おやすみ?」
「そう。休みだ」
直樹は、肩をすくませながら夏美を見つめた。そのまっすぐであどけのない瞳に、思わず頬が熱くなる。
「そうなんだ」
「随分、つれない返事だ」
「大袈裟に、バンザイでもして欲しかった?」
夏美は、目を細くして顎を少し突き出した。からかい混じりの面持ちにも、直樹は悔しがる素振りもなく、淡々と自転車を押していく。
つれないのはどちらか。心の中でついたため息が、つい口から出そうになる。飲み込んだ唾が、ゴクリ、と喉を鳴らした。聞こえなかっただろうか。恥じらいをごまかすように、ゴホ、と咳払いをする。
「バンザイしてくれたら、さすがに嬉しかったかもしれない」
「そう? 私には喜んでるあなたの姿が想像できないけど?」
そんなことないさ、と直樹は口端を緩めた。いっそ今からでも、バンザイしてやろうか、と夏美は思ったが、セーラー服の裾からお腹が出てしまうのが恥ずかしくやめた。
「久しぶりにどこかに行かないか?」
「デートに誘ってくれるなんて、いつぶりかな?」
夏美の口元が緩む。嬉しさを隠すというのは、なんとも気恥ずかしくむず痒いものだった。照れという小さな虫が、胸の中をこそばゆくする。
「梅雨前に、動物園に行ったはずだ。雨の季節が来る前に行くべきだ、って君が言ったからね」
「正解。でも、私がどうしても行きたがったみたいじゃない」
「違ったかな?」
直樹の眉が上がる。確かにそうだったから、うまい返しではなかった、と夏美はふいにわいた悪戯心を恨む。彼の言う通り、行きたがったのは自分だ。
仕方のないことだ。恋人にもう少し構われたい。それがどうしても罪深いものには思えない。ただ、直樹の興味の多くは、夏美以外のものに向いていることが多い。嫉妬することが、悪いことなのか? 自問自答をしながら、空を見上げた。
橙色の空が夜を深めた紺色に侵食され始めいた。その境界線をさ迷うように、数羽のコウモリが飛び交っている。青臭い匂いを巻き上げた夜風が、夏美の紺色のスカートを軽く持ち上げた。
「明日は雨かな?」
「風が強いものね」
「雨は嫌いじゃないんだ」
それは、直樹がいつも言う台詞だった。雨の話になると、彼はすぐにその話をする。
「梅雨生まれは、雨を嫌いになれないんだ」
「ジメジメとして、いいもんじゃないわ」
直樹は「また説明が必要かい」と言いたげに大袈裟に肩をすくませた。夏美は何度も聞いた話に、すんと興味のない素振りをしたが、彼は夏美の態度を気にすることなく話し始めた。
「雨の音は心が落ち着くよ。しとしと降り注ぐ音を聞いているだけで、なんだか切なく洗われた気持ちにならないかい?」
直樹の言いたいことも分かる。直樹の雨が好きだという話を聞いてから、夏美だって雨が好きになってきた。好きな人の好きなものを好きになる。夏美にとって、それは自然なことだった。それに、と直樹は続ける。
「雨を見ると、誕生日って感じがするんだ。誕生日は、誰だって嬉しいものだ」
「直樹が、誕生日ではしゃいでるところなんて見たことがない」
「まさか? 今年は、随分楽しんだよ」
ごちそうさま、と言って、直樹ははにかむ。直樹に褒められることは少なく、夏美は、うっ、と思わずうつむいた。
「すごく上手に作れていたよ」
「褒めてくれてありがとう。頑張ったのは事実だけど。料理本の通りに作れば、失敗しないのがお菓子だから」
「へぇ、失敗しないんだ」
直樹に誕生日に、手作りのバタークリームケーキを振舞った。普段から父の料理を作っている夏美だったが、お菓子作りというのは初めてのことで失敗しないか不安だった。案の定、一度目は見事に失敗して作り直した。
そのことを直樹は知らないはずなのに、なんだが見空かされている気がする。やられてばかりが悔しくて、見栄を張ってしまう。
「また作ってあげようか?」
「ぜひともお願いするよ。次は、クリスマスなんかがいいかな」
クリスマスをお祝いすることに、夏美はなんとなく違和感があった。そもそもなにをお祝いしているのかもよく理解していないのに、どうしてみんなあれほどクリスマスに執着するのか。なんとなく感じるキラキラした雰囲気は嫌いではないが、それに自分が群がる姿はいいものに思えなかった。
「私のケーキなんかより、お菓子屋のちゃんとしたものがいいんじゃない?」
「そう? 僕は、夏美のケーキが食べたいけどな」
そう率直に言うのはずるい。そんな風に言われては、作らざるを得ないじゃないか。込み上げてくる熱を、夏美は体の奥へと押し込める。
「そこまで言うなら作ってあげるけど」
トボトボ、と歩く二人の長い影が、土手の縁に伸びた。自転車のタイヤが織りなす奇妙な形の影が、草木に斑な黒を落とす。白いシャツを着た子どもたちが、二人の隣を駆けていった。コンクリートの土手の階段を降りて、細い民家の小路へと去っていく。
その姿に眠っていたはずの懐かしい思い出が顔を出した。土手に揺れるひまわりがひどく懐かしいものに感じる。忘れてはいけないはずの感情が、胸の底でつかえている気がした。
大丈夫。まだ覚えてる。そう心の中で呟く。蒸し暑い夏が来るたびに、記憶はアイスクリームのように溶けていってしまうのだ。いずれ消えて無くなってしまうものかもしれない。そう考えると、ただ切なく、無性に悲しかった。
「子どもの頃、僕もよく遊びまわったよ」
あんな風にね。そう言って、直樹はもういない子どもたちを指差した。片手になったハンドルがぐらつき、コンクリートにタイヤが斜めに擦れて、ザリ、と音を立てる。
「直樹が、無邪気に走り回っている姿なんて想像できない」
「夏美は、僕のことをなにもない人間みたいに言い過ぎやしないかい?」
夏美は、思わず自分の口を手で覆った。あまりに「ないない」と言いすぎていることに気がついた。
「でも、今の僕からあんな姿を想像できないのは確かかもしれない。でも、僕だって子どもの頃があったんだから。空き地に秘密基地を作った小学校五年生の夏休みの話をしてあげようか?」
夏美は、目の前にいる直樹を小さくして、子どもの姿を想像してみた。やけに大人びたおとなしい子どもだった。そんな子どもの直樹が走り回っている姿をイメージして、思わず声が漏れる。
「なにを想像して笑ったんだ」
「なんでもないよ」
「気になるな」
「あれ、珍しく気にしくれてるの?」
「珍しいことじゃないさ」
「へぇ、そうかな」
夏美は、少し勝ち気な顔で口端を上げた。自分だって、おとなしい子どもだったのだ。たった一度の冒険を誇りたい気持ちも分かる。きっと、直樹もそれに近いことなのだろう。
「それで、僕はデートに誘っているんだけど?」
「そうだったね。どこに行こうか?」
直樹の双眸が、優しくこちらを向いた。選択権をすべてこちらに委ねている時の目だ。それは、無責任でもあるし、彼の優しさである気もした。
「……合格祈願」
「合格祈願?」
「うん」
夏美は、コクリとはっきりと首を縦に振った。肩まで伸びたまっすぐな黒髪が、サラサラと波をうつ。湿った空気を吸い込ませ、滑らかな色合いで夏の夜空に溶け込んでいった。
「受験生なのに、直樹やってないでしょ? だからちゃんと合格できるように合格祈願しにいこう」
「分かったよ。それじゃ、次の日曜日。十時でいいかな?」
そう言って、直樹は自転車に跨った。少し高い位置に移動した彼の顔を見上げながら、夏美は手を振る。
「それじゃ、明日も図書室にいるんだろ?」と
ニッコリと微笑んだ直樹は、ペダルを漕ぎ出した。夕陽を反射した銀縁の自転車は、随分と早いスピードで土手を進んでいく。コンクリートで舗装された土手の坂を登り切り、堀切橋を渡っていった。真新しい橋の上には、すでにオレンジ色の街頭が点っていた。
行き交う車が、排気ガスを吐き出す。灰色の靄が、オレンジの灯りに照らされて、きらびやかに輝く。橋を渡っていく赤色の電車が、直樹の姿を隠した。ドトンドトン、と激しい振動が夏美のいる橋の下の方にまで伝わる。
――知っている。
直樹は、神頼みなんてしない。きっと、実力があれば受かり、なければ落ちる。そういう考えをしている。
だから、祈願なんて行くつもりはなかっただろうし、今まで行っていなかったのだ。それなのに、付き合ってくれている。こういうところが、彼の優しいところだ。
結局、自分は彼に甘えているに過ぎない。そんな事実を口の中で転がして見ると、心地よくもザラザラとした感触がした。
電車が過ぎ去ると、もう直樹の姿はなかった。