表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏の結晶  作者: 伊勢祐里
1/5

図書室にて

感想、評価、レビュー。ぜひともお願いします。

「ここだと思った」


 夏美(なつみ)の集中を、聞き慣れた声が遮った。鉛筆を握る力がふいに抜ける。夏美が顔を上げると、直樹(なおき)が隣の席の椅子を引いていた。細い鉄のパイプが木目の床を擦り、ギイッと粗放な音を響かせて図書館の静寂を裂いた。


「もう特等席だね。休みの間、ずっとここにいるんじゃない?」 


 直樹は、脇に複数の参考書を抱えていた。それらの表紙には、大きく『東京大学』と書かれている。清潔感のある焼けた彼の肌が、窓から差し込む夏の陽に照らさていた。拭うことを諦めたのか、額はうっすらと汗ばんでいる。ほんのりと彼から発せられる熱が、隣の夏美にまで確かに伝わった。


「そういうことしてる場合かな」


 呆れた口調で、夏美は目を細める。尖らせた唇の先に、彼への嫌味をたっぷりを込めた。座席に座ると、直樹は手に持った鉢巻を隠す素振りもなく机の上に置く。


「関心があるんだから仕方ない」


 悪びれない直樹は、革製の筆箱からシャープペンシルを取り出した。カチカチ、と頭を叩けば、先の方から芯が出てくる。

 直樹は、流行り物や新しいものが好きだった。彼の持ってるぺンだってそうだ。いかに画期的で便利なものなのか、その素晴らしさについて、この夏に耳にタコが出来るくらい説明された。一方、愛着を優先する夏美は、同意しかねると頑なに古臭いデザインの鉛筆を使い続けている。


 そんな風に好奇心が強いのは大いに結構なことだが、如何せん彼には持続性がなかった。花から花へ移り渡る蝶のような性格なのだ。


「関心? 一過性のものよ」

「かもしれないね」


 自覚しているらしく、意外と素直に認めた。夏美は、ため息をつきながら、参考書の下に埋もれていた古めかしい本を手に取った。


「君のそれへの興味も一過性のものだろ?」


「この本は、子どもの頃からの愛読書だから」


 茶色に焼やけ紙がその古さを物語っている。パラパラと本を捲るたび、古めかしい本の匂いが鼻をかすめる。それが、たまらなく懐かしさと安心感を与えてくれた。心の奥にある漠然とした悲しみや寂寞を包みこんでくれる。真新しいものでは、埋められないものが確かにこの本にはあった。


「そうだったね」


 彼なりの冗談だったようで、悪戯に口端を釣り上げた。白い歯が、わずかに口の隙間から覗く。直樹は頬杖を突きながら、クルクルと指の上で器用にペンを回した。


 図書室の一番奥。図鑑に分類される本が並ぶ棚に囲まれたこの四人掛けの座席は、入り口から見えない上に人気が少ない。いわば、不人気のこの場所を、夏美は好んで使っていた。

 というのも、窓の外に立つ桜の木のおかげで、陽が差す時間も短く、窓を開ければいい具合に風も入ってくる。人の気配が少ないということも、勉強に集中するのには実に最適な場所だった。


「あまり過激なことはしないでよ」


「行き過ぎるつもりはないよ。あんな風にね」


 直樹は、窓の外をペン先で指し示めした。大きな弾幕を持って、門の外へ向かって数十人の学生服の集団が闊歩していた。


「抜け出して来たんでしょ?」


 夏美の言葉に棘が生える。チクリとするものが、夏美の喉奥に突き刺さった。


「いい具合でね。やりすぎは性に合わないんだ」


 絶妙だろ。そう言いたげに直樹の双眸が細まった。白いポロシャツから出た腕に、男らしい筋が伸びる。その輪郭に沿うように、夏美の視線が下った。ペンをぐっと握った拳の上に青い静脈が浮かび上がる。

 大学ノートにすらすらと解かれていく数学の問題は、夏美には理解することが出来ない。直樹の進学先は、夏美の志望校よりもずっと上だ。一緒の大学へ行きたいのだけれど、残念ながらそれは叶いそうにない。


「順調?」


「うん。昨日も夜までみっちり予備校さ」


「そう、大変ね」


 なんとなく、勉強の続きをやるのが億劫になる。夏美は指の腹で、パラパラと焼けた紙を弾いた。肌に触れるその質感が、ノスタルジックなものを夏美に感じさせる。


 母の大好きな本だった。夏美がお腹の中にいる時に、何度も読み聞かせてくれていたらしい。英語で書かれたこの本を、戦後の混乱の中で手に出来たのは、母が英語の教師だったからだそうだ。

 教材として海を渡って来たのだろうか。ぼんやりと夏美は、この本が海の向こうにいたという事実に思いを馳せる。遥か彼方の国を想像して、なんとなく不思議で知らない誰かと繋がっている気がした。


 母の形見であるこの本の英文を理解できたのは、高校生になってからだ。知らない単語を何個も辞書で引いてようやく読破できた。母と同じく高校で教鞭を執る父に尋ねたりしたものの、自分ですることに意味がある、とあっさり退けられた。


 適当なところで指を止める。子どもの落書きのような淡い色の挿絵が添えられていた。何度も見たその絵は、見なくともわら半紙に描き写すことができるだろう。

 直樹は、夏美がどうしてこの本が好きなのか知らない。好きということは知っていても、その理由を追求しない。もう、二年以上恋人関係を続けているというのに、直樹は夏美のことを深く知ろうとしていないのだ。


 夏美は、それが直樹だと分かっている。何事においても興味の幅が広い。それでいて表面だけを知り深くは追求しない。好きな人に、もう少し自分のことを知って欲しいと思うことは、傲慢なことなのだろうか。


「お墓参り――」


 急に話しかけられ、夏美は思わず手を滑らせた。コツン、と本の角が机の面に跳ね返った。夏美は慌てて、机の上で暴れる本を手に取る。


「もう、お墓参りには行ったの?」


「うん。昨日、行ってきた」


「そうか」


 ニッコリと直樹は頬を綻ばせた。湿気た風が、青々とした桜の木を揺らす。図書館に入って来た空気が、夏美の長い髪の中を泳ぎ回る。直樹といる時間は、間違いなく好きだ。それでも、彼へ求めてしまう自分が、なんとなく嫌になる。


 夏美は、気を紛らわせようと再び参考書を開いた。長い英文をなんとなく読み進める。問題文は、ラジオ放送の歴史について書かれていた。


「夏美は、順調?」


「え?」


「勉強。ひとりでずっと頑張ってるけど」


「うん。予備校に行くお金はうちにはないから。分からないところは、お父さんに聞いてるし、直樹ほど難しい大学じゃないしね」


「そうは言っても、教育系の大学だ。簡単じゃないよ」


 簡単じゃない、と簡単に言ってのけるのは君が私より賢いからだ。喉まで出てきた言葉を夏美は飲み込んだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ