第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(6)
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「へ、へへへ。上等じゃねえか。こうなりゃ二人まとめて食い散らかしてやる!!!」
美桜の身体を業炎が包むと同時に、宍色の身体も変態を始めた。
背中から4枚の羽が生え、両手足は甲冑のような硬い皮膚に覆われる。
美桜を包んだ業炎はその右腕へと集約していき、
白くか細いそれを凶悪な『鬼の腕』へと変貌させる。
炎が霧散したとき、噴水の前には二匹の『鬼』が相対していた。
カゲロウと化した宍色が腰を沈ませ、背中の4枚羽を展開する。
そのまま突撃を仕掛けてくるのだろうと思い、迎撃の構えを取る美桜だったが、
カゲロウは美桜の懐に飛び込んでくることなく、ホテルの屋上へと飛び去っていった。
「あら?鬼ごっこかしら?」
上空へ飛び去った宍色を追うため、
美桜は異形の筋力で膝のバネを弾ませ、大きく跳躍し屋上へと向かう。
忍者の如く、ホテルの外壁を蹴って更に上へとジャンプしていき、屋上を目指す。
ももか一人を地上に置いて、二匹のバケモノは上空を決戦の場に選んだ。
ホテル『スカヴァティ』の屋上にはプールが設置されていた。
歳若い男女たちが、淫靡にライトアップされたナイトプールの中で遊んでいる。
十組近くのカップルが、水の中で欲望を滾らせている。
その中を、二匹の怪物が横切った。
怪物たちは爪と爪を鍔迫り合わせ、激しい剣戟を繰り広げている。
高速で交わされる突きと突きの応酬に火花が散り、空気が弾け、プールが波立つ。
蹴り飛ばされたカゲロウの身体が水中に叩きつけられると、そこには大きな水柱があがった。
だが、その様子に顔を顰める男女は誰一人として居なかった。
他の人間には、二人の戦いは見えていない。二匹の怪物の姿すら、見えていない。
美桜の幻惑が、周囲の人間の認識を歪めているからだ。
「この数日間、沢山の"エサ"を喰らってきたのでしょう?
だったらその成果を見せてよ。こんなものじゃ、私の舌は満たされない」
水面に顔を出したカゲロウを、美桜が煽る。
屈辱を味わうかたわら、カゲロウは冷静に、美桜を倒すための算段を練っていた。
―――真正面からこの女とやりあったのでは、決して勝てない。
何とかして、死角から命を狙う。
そのための能力が、俺にはある!
カゲロウが水中の中で手を合わせた。
時空を、物理法則を捻じ曲げて、水中に砂の渦が現れる。
水面に浮かばせていた顔を伏せ、水の中へと潜っていく。
己が産みだしたワームホールの中へと、カゲロウは身を投じた。
「そんなに水の中がお好きなのかしら?……稀有なアリジゴクね」
顔を水中に伏せ、姿をくらましたカゲロウに対し、美桜が皮肉を投げた。
しかしカゲロウは既に水の中になど居ない。
宇宙の法則から切り離されたワームホールの中で、彼女を倒さんが為に爪を研いでいる。
―――ここだ!
美桜の後頭部より少し上―――爪を振り下ろすに都合のいい死角を狙って、
カゲロウが出口を開く。
異次元から出てきたカゲロウの頬を、地球の外気が撫で付けた。
長い黒髪の真後ろに立つと、彼女のシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。
背後に気配を感じたのか、美桜が勢いよく振り返った。
背後には既にカゲロウの爪が、目前まで迫っている。
バケモノの反射神経と俊敏さが、それを間一髪で避けさせる。
美桜の鼻先を、異形の爪が掠めていった。
攻撃を避けた美桜は、すかさず反撃に転じ、カゲロウに右腕を突き刺そうとする。
美桜に対して放たれたカゲロウの右スイング。体重を掛けて放たれたその一撃。
それを避けられカウンターを放たれたのでは、もはやカゲロウに逃げ場などない。
『鬼の右腕』がカゲロウの腹部を差す―――はずだった。
「……っ!?」
「ハハハ!とったぜ!」
美桜の一撃は、宙に浮かぶ砂の渦に遮られていた。
右腕をワームホールに掴まれ、身動きを取れなくさせられてしまっている。
美桜は渦から腕を引き抜こうと力を込める。
妖力を込めれば、砂の渦を消し飛ばすことなど美桜にとっては容易だろう。
だが、美桜の妖力が渦の拘束を消し飛ばすまで、どうしても若干の隙が生じてしまう。
その隙を、カゲロウが見逃すはずは無かった。
「喰らえ!!」
ギロチンの如きカゲロウのカギ爪が、身動きできない美桜に対して振り下ろされた。
カゲロウの爪は、美桜の身体を引き裂き、右半身と左半身を真っ二つに分割する。
二つに裂かれた美桜の身体は宙に浮かび、―――地獄の業火に包まれて霧散した。
「やったか……!」
あっけない。
あれほどの力を感じさせた女の末路にしてはあっけなさ過ぎる。
美桜をこれほどあっけなく殺せるとは思っていなかったカゲロウは落胆にくれた。
カゲロウは美桜を喰いたかったのだ。
己の子を孕ませた上で、胎の中を征服した上で、
その柔肉をなめ回し、しゃぶり尽くし、欲望を擦り付けて己のモノとしたかった。
―――もったいねえことをしちまったなぁ。
この埋め合わせは、コイツの"本命"にしてもらおうじゃねえか。
新たな欲望を抱き始めたカゲロウの腹を何かが貫いた。
焼けた鉄を内蔵に直接当てられたような痛みに驚愕したカゲロウは、己の腹部を見下ろす。
腹部には、『鬼』の腕が生えていた。
「がっ……!?な、んだ……?これ……?」
熱い胃液が喉元に押し寄せて、口からこぼれ出た。
その瞬間、胃液だと思っていたものの正体が血液だったことをカゲロウは悟った。
「今のは、惜しかったわよ?」
背後から、美桜のウィスパーボイスが響く。
「ぐふっ……!」空気の抜けるようなうめき声がカゲロウ喉からこぼれた。
背中から腹までを一直線に刺し貫いていた『鬼の腕』が、勢いよく引き抜かれる。
美桜のその手には青白い炎は握られていない。
彼女が本気ならば、今の一撃で魂ごと抜かれていたことだろう。
美桜はまだ、遊び足りないのだ。
カゲロウの尊い命を、もっともっと弄びたくてしょうがないのだ。
「極上の快楽が欲しいのでしょう? だったらもっと、欲望を滾らせてよ。
もっともっと、漲らせて、熱くしてよ。
こんな程度じゃ、貴方を穢した甲斐がない。……夜が終わるにはまだ、早すぎる」
プールサイドに墜落し、地面に跪いたカゲロウを見下ろしながら、
美桜は『鬼』の右腕にべっとりとついた赤い血を舐め取った。
ざくろの実を思わせるような美桜の真っ赤な舌が、
手首にそっと這わされ、べっとりと腕に付着したカゲロウの血を掬い上げる。
ゆっくりと、手首から指先まで舌を這わせる美桜は、
指先から舌を離す瞬間、ちゅっ、というリップ音をわざとらしく鳴らした。
美桜はその様子をカゲロウに見せ付けることで、彼を挑発しようとしている。
欲望を煽られたカゲロウの頭の中を、以前美桜と交わした約束が掠めていた。
『貴方がもっともっと妖力をつけて、私好みの穢れた命になれたら……。
その時は、私に触れさせてあげる。
この世では決して味わえない、極上の快楽を貴方にあげる』
―――そうだ。
俺は今日まで沢山の女を喰らってきた。妖力をつけた。
赤月美桜……!お前をモノにする資格が、今の俺にはあるはずなんだ……!
欲望を滾らせたカゲロウは、
己の身の内に宿っていた禍々しい『妖力』を放出する。
腹部にポカンと開いたままだった穴は、いつの間にか修復していた。
―――後悔しやがれ、赤月。
これが俺の本当の妖力だ。
この強大なチカラを使って、今からお前をモノにしてやる!!!
組み敷いて、ヒィヒィ言わせて屈服させてやる!!!!!
「はぁ、はぁ、はぁ……赤月ぃ……。
赤月、赤月、赤月、赤月、赤月ぃぃぃぃぃ!!!!!!」
「ふふふ……どうしたの?そんなに必死に呼ばなくたって、私は逃げたりしないわよ?」
カゲロウが地面に拳を振り下ろす。
防滑性のビニル床シートで覆われたプールサイドに亀裂が走り、抉れた床材が宙を舞った。
割れた床材が再び地面につくまでの約1秒間。カゲロウと美桜の姿は消え去り、
プールサイドのいたるところで衝撃が舞った。
音すらも追いつかない超音速の世界で、カゲロウは美桜に攻撃をしかけた。
4枚の異形の羽を推進力にして放たれた突きは、美桜の心臓を抉ることなく空を切る。
すかさず身体を切り返したカゲロウは円運動の勢いを使って肘打ちをしかけるが、
これも難なくかわされてしまった。
右爪が左肘が、右脚が右膝が左爪が牙が。
超音速のカゲロウから息を吐く間もない波状攻撃が放たれるも、
美桜はそれらを飄々と避けていく。
半身に切り、背を仰け反らせ、身体を沈ませ、
時折脛や腕を使って突き蹴りを捌いていく。
音が遅れて聞こえるような刹那の世界にあっても、
余裕の表情で打撃をかわし続ける美桜の姿に、
カゲロウは段々と恐怖を感じてきた。
―――なぜだ。なぜだなぜだなぜだなぜだ!
何故俺の攻撃が当たらねえ!?
何故俺の攻撃が当たら当たた当たたたたたたったたたたった当たたたあああああ!!!!!!
己の思考すらも追いつかない速度で攻撃を続けるカゲロウだったが、
勝ち筋の見えない連打の中で、彼はほんの一瞬だけ、迷いを抱いてしまった。
もしや自分は、この女には決して敵わないのではないか?
先ほどまで彼を守ってくれていた全能感が、瞬間、急速に萎んでいく。
その一瞬の隙を、美桜は決して見逃さなかった。
ストレートを繰り出そうとして右爪を振りかぶったまま、カゲロウはぴたりと制止した。
呼吸を突然停止させられたような感覚。それに続いて、胃酸が喉元にまでせり上がってきた。
遠くの地面で、こつんこつんという音が聞こえた。
宙を舞っていた床材の破片が地面に到達した音が、
カゲロウの耳にはやたらと近くに感じられた。
カゲロウの腹部には、美桜の前蹴りがクリーンヒットしていた。
「ぐっ……!?あぁ……!あ、あぁぁぁ……!」
先ほどまでの俊敏な動作が嘘のように、緩慢な動きで地面に倒れこんでいくカゲロウ。
髪をかき上げながらカゲロウを見下ろす美桜の顔面には、
サディスティックな薄笑みが浮かんでいた。
まるで苦痛に悶えるカゲロウを見ているのがたまらないと言わんばかりに。
「ちきしょう……ちきしょうちきしょうちきちょうちきしょう……!」
胃液を口から溢し、くず折れたまま立てずにいるカゲロウの胸中は、
強大な力を前にして屈服するしかない己の無力さを悔やんだ。
喉から手が出るほど欲しいモノが目の前にあるというのに、
欲しい女がそこに居るというのに、
決してそれを手に入れることが出来ない。
ボロ雑巾のように痛めつけられ、あざ笑われることしか出来ない。
視界が揺れる中、地面に突っ伏した自分を、ただ見下ろしている美桜の姿を見上げた。
欲望が、憎しみへと変わっていく。手に入らないのならいっそ、
その綺麗な顔に泥を塗ってやりたい。
どんな手段でも良い。その美しい薄笑みを、少しでも穢してやりたい。
カゲロウは脳をフル回転させて、美桜の心を揺さぶれそうな言葉を探った。
―――あった。これならば。コイツの余裕の表情を崩すことが出来る。
腹部から伝わってくる強烈な痛みに耐えながら、カゲロウが、声を絞り出す。
「人を痛めつけておいて、気持ち良さそうな顔しやがって……。流石だよ。
流石は"ヒカル"の娘だなぁ?」
カゲロウの放った一言が、美桜の端正な顔から微笑みを消した。




