第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(5)
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ホテルの入り口へと続く石畳の通路の中央には、虹色に光る噴水があった。
落差によって泉の中心へと吸い込まれていく水道水が、
ポンプの圧力によって天へと押し上げられる。
サイケデリックなLEDの光に照らされたそれは、
虹色の滝となって再び泉の中へと帰って行った。
LEDは時間を経るごとに赤から青へ、青から紫へ、紫から桃色へ、桃色から緑色へ、
七色の中を行ったりきたりし、
まるで気まぐれな美女がころころと恋人を乗り変えるかのように、
己の色を自在に変化させていた。
緑色が黄色、黄色がオレンジ色へと移り変わり、ルーティンが一巡する。
オレンジの光が消えた後、LEDはその輝きを失う。
再び赤色が灯りだすまでの5秒の間。
辺りは暗闇に包まれた。
宍色鴇也は腕時計を見つめ、時刻を確認する。
待ち合わせは今夜の0時。今の時刻は23時56分で、あと4分でタイムリミットとなる。
定刻前になっても一向に姿を現さない恋人の連れ子に苛立ちを覚えた宍色は、
口慰みにと獲物の一体からあらかじめ切り落としておいた女の腕をワームホールから取り出し、
"それ"に牙を立ててぢう、ぢう、と啜った。
―――まさかあのガキ、すっぽかしたんじゃねえだろうな?
しわくちゃになった女の腕"だったもの"を噴水に投げ捨てた宍色は、
貧乏ゆすりしながら顎をさすった。
ももかが予定をすっぽかすことも、ある程度は宍色の予測の範疇だ。
たとえ小梅にせがまれようと、
母親の恋人とホテルに入るのには抵抗感があって当然だろう。
だからこそ宍色は、小梅に己の幼虫を産み付けた。
幼虫は宍色が女を孕ませたいという欲求を満たすためだけの存在というワケではなく、
宍色の意思によって遠隔操作することも出来る。
ももかがあと4分でこのホテルに来なかったその時は、
幼虫を操作して小梅の腹の中の幼虫をタマゴから強制的に孵化させて、
その腹を食い破らせるつもりだった。
そして自分との約束をすっぽかしてこの街のどこかで同年代の若い男とセックスでもしているだろう親不孝者の淫乱メスガキを『嗅覚』のチカラによって何処に居ようが必ず探しだした上で『オメエが俺に股を開かないせいで母親がこんなになっちまったんだぞコラ』と怒鳴り散らしながら腹を食い破られた小梅の亡骸を突きつけて恐怖と絶望で動けなくなったももかを腕と足をもいだ若い彼氏の目の前で意識を失うまで散々強姦しまくってタマゴを産み付けて今までの獲物たち同様生き血肉をグズグズに溶かしてしゃぶりつくして皮だけにして遺体を小梅の亡骸共々路地裏のゴミ捨て場に投げ捨てる予定だ。
―――あと、2分だ。
東雲親子を欲望のはけ口とする妄想によって欲望を屹立させた宍色は、
冷静に時間を計っていた。
彼の頭は既に猟奇的な興奮によって茹っており、
このままももかが来なくても良いかもしれないとすら思っている。
あと1分。
宍色が右手の指を二本構える。幼虫を遠隔操作する準備を始めた。
あと30秒。
宍色の『嗅覚』は距離にして10キロは離れた清衣市のマンションに住まう小梅に―――正確にはその中に居る分身に注がれる。
あと、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1。
―――タイムリミットだ。
宍色は小梅の中に居る幼虫に『妖力』の信号を放ち、
彼女の腹を食い破らせる命令を下す……その寸前で、行動を止めた。
「こんばんは、宍色さん」
鈴の音が転がるような耳にくすぐったいアニメ声が、
記憶よりも大人びた顔をして艶やかに微笑む恋人の連れ子の姿が、
宍色の耳目に触れたからだ。
噴水の前に、その少女の姿はあった。
色とりどりのLEDが少女の小柄な肉体―――
つま先から頭までをじっとりと照らし出し、幻想的な光で彩っている。
赤から青。青から紫。紫から、桃色。
桃色のいかがわしい光が、少女の横顔に深い影を落とし、
あどけない顔を艶やかに照らし出した。
―――なんだよ。妙に色っぽいじゃねえか。
今夜のももかは、宍色が知る普段のももかよりも数段大人びて見えた。
何かを期待するかのように瞳を潤ませるその表情は、まるで夜の街の女のようだ。
ゴクリ。
宍色の喉を、生唾が下っていく。
彼の意識は、もはや小梅の腹に居る幼虫になど向けられては居ない。
これから目の前の娘と行うだろう情事のこと以外は、
いまや宍色の頭から抜け落ちてしまっている。
「……もう部屋の予約はとってあるんだ。行こうぜ」
興奮を抑えられない宍色は、まるで童貞の少年の如く、
余裕のない仕草でももかの腕を取った。
脂汗を垂らし、己の腕を強引に引き寄せてくる中年男を前にして、
ももかは眉ひとつ動かさなかった。
彼女の顔にはただ妖艶な微笑だけがあり、それはまるで張り付いたかのように、
彼女の端正な顔から決して剥がれ落ちることがない。
その笑顔に、宍色は既視感を覚えていた。
こういう微笑み方をする女を、どこかで見たことがあるような気がするのだ。
どこだっただろうか?誰だっただろうか?
小梅ではない。アリエでもない。幸恵でもなければ"かーちゃん"でもない。
彼が今までに抱いてきた有象無象の女達のうちの誰かでもないような気がした。
―――あ、……あぁ!
"その"女の姿をようやく思い出した宍色は、
本能から来る身震いを抑えられなくなった。
宍色の頭の中にはいま、黒ずくめの女の姿が映し出されている。
なぜだろうか?
あの女の大人びた容姿は、小動物のようなももかとは似ても似つかないはずなのに。
笑顔の作り方。……ただその一点だけが、あの女を連想させて仕方が無い。
人間だった頃の宍色が、正義感によって追っていた相手。
バケモノと化した今の自分が、欲望によって追っている相手。
数多の事件のカギを握り、決して誰にも足取りを掴ませない『長い黒髪の女』。
キスによって人を狂わせ、"バケモノ"に変えてしまう魔性の女。
「赤月、美桜……!」
その名前を口にした瞬間、背後に何者かの気配が"発生した"ように感じて、
宍色は振り向く。
振り向いた先に、その女は居た。
「私のももかを、どこに連れて行く気かしら?」
ゾクリ。
まるで自分の頭の中を見透かしたかのようなタイミングで現れたその女に、
宍色は背筋を凍らせる。
噴水を照らす七色の光が一巡し、次の周期に入るまでのたった5秒の間。
人工の光は失われ、月光と夜の闇だけが辺りを包む。
夜の闇の中に佇むその女を、
天から降り注ぐ柔らかな月光がスポットライトを浴びせかけていた。
月の光に照らされて、淡く輝く白い肌。
背中を覆いつくすほど、長く艶やかな黒髪。
黒いワンピースドレスから伸びた、細長い手足。
足元を黒のブーツで包み込み、
全身を黒一色のコーディネイトで包んだ『長い黒髪の女』が今、
噴水の目の前に立っている。
LEDが再び点灯する。
赤い、赤い、血のように赤いサイケデリックな光が、美桜の横顔を照らし出す。
その姿はまるで、返り血を浴びた殺人鬼のようだった。
「お、お前……」
「ももかを狙う辺り、丁度良い食べ頃のようね。
……さあ、始めましょう?貴方が望む、欲望の宴を」
美桜の殺気が、空気中に広がっていく。
彼女はまだなにもしてなどいない。ただそこに立っているだけだ。
だというのに、宍色はまるで己を取り巻く空気たちが一斉に肌に突き刺さってくるかのような得も知れない緊張を感じていた。
それは蛇に睨まれた蛙が感じるものと同質のものだと、宍色の本能が告げる。
――俺はまだ、こいつには勝てない。
路地裏での決闘にて、宍色は己と美桜との間にどれほどの力量差があるかを思い知らされた。
赤月を喰らうために女どもを喰い散らかしてきた今の宍色の妖力は、
あの決闘のときとは比べ物にならないほど強大になったはずだ。
だというのに。
目の前に居る赤月との力量差は、あの時と比べて一切埋まっているような気がしない。
それどころか半端にチカラをつけたせいで、
赤月の底知れない妖力の増大さを余計に認識させられてしまっている。
―――今夜この女と戦うのは、避けるべきだ。
悪いが、"本命の女"には引き下がってもらおう。
「す、すまねえ……今夜はお前とは遊べない。
ま、また今度誘うからよ。今日は引き下がってくれないか?
へへっ、へへへっ、ももかを今から喰おうと思ってたんだがよぉ。
コイツはあくまで遊びだ。ほ、本命はあくまでお前だからよぉ……へへ、へへへへ……」
脂汗が、宍色の額を伝う。
美桜の殺意に心臓をつかまれたままでは、満足に愛想笑いも出来なかった。
ニヤニヤと下卑た薄笑いを浮かべる宍色に向かって、美桜が薄い唇の端を吊り上げて言った。
「あら?そう。
だけど私も引き下がれないのよ。
私の本命は、あくまでその子だから」
美桜の言葉に目を丸くした宍色が、己の腕に掴まれているももかの顔を凝視した。
ももかの顔には未だ、薄い笑みが張り付いている。
白昼夢を見ているかのように、目の前で起こる何ごとにも反応を示さない。
しん、とした空気の中に美桜のウィスパーボイスが、響く。
「私の本命が強請るのよ。『宍色さんを殺してください』って。
"恋人"にそんな風に甘えられたら、答えてあげたくなってしまうものでしょう?……ふふ、ふふふふ」
美桜の放った言葉は、明確な殺意となって宍色の胸を貫く。
美しき死神からの、死の宣告だった。
しかも死神をそそのかしたのは、他でもないももかだというではないか。
宍色はももかの身体を引き寄せ、肩をつかんでその身を揺らした。
「おい!どういうことだ!お前、俺を裏切りやがったのか!?」
心の中にあるだろうドス黒い殺意を、ももかは微塵も出そうとしない。
ただひたすら微笑を顔に張り付かせ、一切動じない。
無機質なその反応に、宍色は気味の悪さを覚えていた。
ももかは、心根の優しい女だ。他者から酷い扱いを受けても、
泣き寝入りをするしか出来ないような、か弱い女だ。
誰に何をされようと、復讐などに踏み切れないほど情け深い。
それがたとえ、己の尊厳を踏みにじられるような卑劣な行いであっても、
彼女は黙って運命に流されてしまうことしか出来ないのだろう。
そう思ったからこそ、宍色はももかに襲い掛かった。
あの日、無理やりに操を奪ってしまおうと思えたのだ。
中学の時だって、周囲が助けてくれさえしなければ、見つかりさえしなければ、
前原とかいう淫行教師の玩具としてその青春時代を過ごすしかなかったはずだ。
他人に食い物にされるしか能のない、弱い弱い女のはずだ。
―――どうせこいつは、何も言えない。何も叫べない。
俺に犯されたところで、小梅にチクることすら出来ない。
そうやって見下していたからこそ、ももかを狙ったというのに。
―――裏切りやがったな!騙しやがったな!
宍色のこめかみに血管が浮き上がる。
全くの逆恨みで、筋の通らない激昂でも、
ももかのような気弱な人間ならば、
まくし立てれば言うことを聞かせられるのだと言うことを宍色は知っている。
「俺は、俺は、お前の母親の恋人なんだぞ!?
お前の父親みたいなもんなんだぞ!?
それなのに、この女に俺の死を願ったっていうのか!?
この親不幸者が!!!!!こんな、家族を裏切るような真似をして、心が痛まないのか!?」
怒鳴りさえすれば。脅しさえすれば。
罪悪感を植えつけさえすれば、心の弱い人間をコントロールすることなど容易だ。
そんな浅はかな思惑を持って放たれた怒声だったが、
予想外なことに、ももかは全く怯える素振りなど見せなかった。
空気が震えるほどの罵声を浴びせようとも、ももかは薄笑みを決して崩さない。
泰然と構えるももかの様子に怯んだ宍色が言葉を無くしたところで、
ももかがようやく口を開く。
「裏切った……?ふふ、あははははははははは!!!」
閉ざされた口をようやく開いたももかの第一声は、狂った笑い声だった。
薄笑みの仮面を外した反動か、心をむき出しにして心底楽しそうにケラケラと笑う。
ひとしきり笑いとおした後、ももかはその両目に涙を浮かべていた。
両目に涙を浮かべながら、同時に憎悪も浮かべていた。
「裏切られて怒る資格なんて、貴方にあるんですか……!?
私達親子を、先に裏切ったのは一体誰なんですか!!!!!!!!」
思わぬ反撃に、宍色は目を丸くして黙ることしか出来なかった。
ももかの顔には憎悪こそ浮かんでいたが、その表情には他者を威圧するような迫力が無い。
脅しや罵声、怒鳴り声を威嚇の手段として日常的に使ってきた宍色からすると、
まだ可愛げのある顔だった。
それは、彼女が他人を傷つけることに慣れていないのだろうという何よりの証拠で……。
それを見た宍色は、無くしたはずの良心が痛むかのような、
精神的な幻肢痛を感じた。
夜空の上には満月がぷかぷかと浮かんでおり、
柔らかな月光を放ちながら、空の下の愛憎劇を見守っている。
三巡目の消灯がやってきたとき、美桜の目が赤く光って闇を裂いた。
群雲が晴れるかのごとく、両目の中にある黒い瞳孔が色を変え、
赤い満月のような輝きが血のように染み出してくる。
「うふふ……。ももかみたいな優しい子にここまで言わせるだなんて……。
とんだ色男も居たものね? 宍色鴇也。
さあ。……貴方の命を私に頂戴?」
美しき死神が、冷酷な殺し文句を言い渡す。
薄馬鹿下郎の宍色に、もはや逃げ場などなかった。




